俺の彼女は、俺のことを下の名前で呼ぼうとしない。

付き合いはじめて少し経った頃、一度だけ下の名前で呼んでほしいと言ってみたことがあった。けれど即答で却下された。なんでも、「ずっと『高尾』って呼んでたし今更慣れないからヤダ」…だそうだ。一回だけでもいいからとダメ押しで言ってみても、しつこい!と一蹴されてしまう始末。あんまりしつこくして嫌われるのも嫌だし、別に呼び名がどうであろうと自分たちの関係がどうこうするわけでもないし、それ以来その事に触れることはなかった。



「私、高尾くんのことが好きなんです」

部活が終わり、下駄箱を開けると入っていた一枚の手紙。いかにも女の子らしい、といった風の小さく花のイラストが入ったメモ用紙に書かれた<お話したいことがあります>というそれは、見た瞬間なんとなく予想はついたが、案の定だった。

「…えーっと、とりあえず、うん、ありがとう。だけど俺…」
「うん、知ってる。名字さんと付き合ってるんだよね、高尾くん」

夕陽の差し込む、自分たち以外誰もいない教室。
俺と名字の関係を知っていて、何故こんな呼び出しをしたのか。
そんな疑問が無意識に顔に出てしまっていたのか、俺の顔を見て目の前の女子は少しだけさみしそうに笑った。

「高尾くんが名字さんと付き合ってて、二人がお似合いだってこともわかってるの。だけど、ずるいかもしれないし、私のただの自己満足なんだけど…高尾くんに気持ちを伝えたかっただけなの」
「…そっか」

どちらにせよ、目の前のこの子に言うべき台詞はもう決まっている。

「…うん、ごめん、俺、名字が好きだからさ」
「うん。ありがとう、…和成くん」

最後に俺の下の名前を呼んで、その子は去っていった。
別に、なんとも思っていない子から呼ばれても、なんとも思わないけれど、きっと呼んでみたかったんだろうなと勝手に解釈する。だからといってあの子に何か情がわいたわけでもなんでもないのだけれど。

…そろそろ名字が所属する陸上部も終わる頃だろう。そう思って昇降口の方へ戻ろうと教室を出た。

「…あれ?」

すると、廊下の向こうに名字の後ろ姿があった。

「名字ちゃーん!」

いつものように名前を呼んでみる。すぐに振り返るだろうと思ったその姿は、しかし、俺の声が届いたであろうと同時になぜかそのまま走り出してしまった。

「ちょっ名字?!」

仮にも陸上部。
あっという間にその姿は廊下の向こうに駆け抜けていってしまう。
一瞬、呆けてしまってから、はっと思い返し、名字が走っていってしまった方へと駆け出す。

…一応、廊下は走っちゃいけないことになってるんだけど、まあいっか。




「…名字ちゃん?」
「…」
追いかけてみると案外すぐに名字の姿は見つかった。
もう、ほとんどの生徒が帰宅してしまって静まり返った校舎一番奥の階段の踊り場。階段の方に足を投げ出すようにして座り込んだ名字は、いつも制服の上から着込んでいるグレーのカーディガンを頭からすっぽりと被っていた。

「…なにしてんの〜?」

階下からいつもの調子で話しかけてみても、何の反応もなかった。カーディガンにすっぽりと覆われてしまった顔は一切、影になって見えなかった。ゆっくりと階段をのぼり、彼女が腰を下ろしているところの二段ほど下に腰をおろした。

「どうしちゃったの?」
「……」
「なあ、そんなとこ座り込んでたらパンツ見えr」
「最低」
「…まあ見えてなかったけど」

パンツうんぬんには即座に一言、いつものやりとりのような返事が返ってきたものの、やっぱり顔をあげようとしない。
今までの経験則から、怒っているのか、泣きそうなのか、どちらかだろうと思っていたけれど、声色からしてどちらでもないような気もしてきた。

「なー、俺帰りたいんだけど」
「……」
「名字ちゃーん、一緒に帰りませんか〜?」
「……」
「名字ちゃんってば〜」
「……か」
「ん?」

聞き取れるか聞き取れないかの声が、カーディガンの隙間から聞こえた気がして、顔を覗き込もうとした。
その時、

「わっ」

名字の両腕が伸びて、俺の頭を抱え込んできた。
とっさのことすぎて、一瞬反応が遅れた。
なんとかギリギリ、名字の横に手をついて、全体重をかけないように支えたものの、いつの間にかカーディガンから顔を出している名字に抱きしめられている状態になっていた。

「ちょ、どうしちゃった…」
「…り」
「え?」

「か…ずなり」

「!」

顔は見えなかったけれど、距離が限りなく0になった分、今度ははっきりと耳に届いた。

「かずなり…」
「…なに?」

彼女が自分の名前を呼んでいる。
舞い上がりそうなほど嬉しいのに、その彼女の手がそちらを向くことを許してくれない。静かにその名前呼びの真理を促すと、いつもの彼女らしくない。震えた声が返ってきた。

「…私、かずなりのこと、好きだよ」

…もしかしなくても、

「…もしかして、さっきの見てた?っていうか、聞いてた…?」
「……」
「まじか」

この無言は肯定の意味と取っても間違いはないらしい。どうやら先ほどの女子とのやりとりを聞いていたようだ。

「…名前」
「!」

名字…いや、名前の名前を呼ぶと、ぴくりと体が揺れた。それに気付かないフリをしながら、言葉を続ける。

「俺もね、名前のこと好きだよ。だからさ、今名前が俺のこと『和成』って呼んでくれて、今すげーうれしいの。わかる?」
「……うん」

抱きしめられていた手が緩んだのを感じ、少しだけ名前から体を離して正面から改めて顔を覗き込んだ。こういう時、名前は泣いたりしない。案の定涙は流れていなかったけれど、切なそうに眉をひそめた表情は、この子の一番泣きそうな表情なのだということを、俺以外に誰か知っている人がいるのだろうか。
願わくば俺だけが知っている顔であってほしいと思うのは欲張りだろうか。

「和成」
「うん」
「…好き」
「…うん、俺も好き」

客観的に見たらすごく恥ずかしいことをしているような気もするけれど、誰も周りにいないこの際気にしないことにする。

そっと名前の頬に手を添えて、触れるだけのキスをすると、頬を染めた名前はほんの少しだけ微笑んだ。


前言撤回。
やっぱり、好きな子に名前を呼んでもらうというのは思っていた以上に嬉しいもので、特別なことなのだ。それを改めて知ることになった。

「帰ろうぜ」
「…うん」

立ち上がった名前の背中から、グレーのカーディガンがはらりと落ちた。それを拾いながら自分も立ち上がる。

「…今ちょっとパンツ見えそうだっt」
「最低!」
「ちょ、冗談だってば!」

むすっとした顔をしてカーディガンをひったくる名前。俺がからかって名前が少しだけ怒って、そんないつものやりとりだけれど、それすら昨日よりも距離が近づいたように感じるのは俺だけだろうか。



   



もっと早く、君を名前で呼べばよかったな


title by 確かに恋だった

(2013/02/07)


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