「捨てろって言われた」
歪んだ笑顔を口元に浮かべた名前はこちらを見て言う。しかし実際、彼女の瞳は自分を見ているようで見ていないのだ。
彼女の手元にあるのはビニール紐でくくられた本、漫画、雑誌、ノート。どれも彼女が大切に大切にしてきたものだったはずだ。彼女はそれらの中身を一切めくることなく、ただ淡々とそれらをまとめていく。いくつもの山が、既に彼女の座り込んだフローリングの床の上にできている。
「最後に、読まんのか?」
「読んだら、捨てがたくなる」
「でも最近忙しくて読んでなかったじゃろ?内容だけでも心に留めればよか」
「いっそそのまま、忘れてしまえばいいのよ」
名前は淡々と言葉を発する。紐を固結びするその手を止めることはなかった。きつく縛られたページに紐が食い込んでギシリと音を立てた。
「…現実を見ろって言われた」
「…」
「夢ばかり見るなって言われた。全部否定された。否定されてはいけない人に、私の一部を、否定された」
「…名前、」
「記憶って、切ないね」
その時、絶対忘れたくないって思っても、いつか必ず薄れていく思い出がある。あんなに鮮明に輝いた日々が振り返ると急に色褪せて見えてくる日が必ずやってくる。けれど記憶とは不思議なもので、何かの拍子にふとその断片を見ることがある。そのきっかけはその瞬間にならないとわからないものだけれど、少なくとも直接的な要因であるものを遠ざけない限り、それらはいつまでも過去としてその人自身にまとわりつくのだ。
「私は、もう思い出したらいけないんだ。ずっと子どものままじゃいられない」
「…」
「ピーターパン症候群なんて、よく言うよね。まさに私はそれかもしれない」
「私、大人になんて、なりたくなかった」
すべての紙の山を縛り終えた名前の目からこぼれ落ちた雫は、一番上の一冊の表紙の上にパタパタと音を立てて跳ねた。数年前、名前が自分のバイト代で少しずつ集めた漫画。表紙では彼女が好きだったキャラが笑みを浮かべていた。買った当初のまま、あの頃と、何も変わらないまま。銀髪が揺れる。
「私はもう大事なものは作らない。出会わなければ、忘れることもない。出会わなければ、思い出すこともない。私は、もう夢は見ない」
「…待ちんしゃい、名前」
「だからね」
「名前!」
「さよならだよ、仁王くん」
彼女はずっと夢を見ていた。
大好きな彼だけは彼女を裏切ることはなく、ずっと一緒にいるのだと信じて疑わなかった。
彼は知っていた。
そんな彼女が本当は誰よりも現実主義であることを。
そして、彼女は
「ずっと、ずっと大好きだった」
彼女はずっと夢を見ていた。
彼女の見ていた、目の前に映る景色は時が経つにつれて鮮やかさを失い、彼女は夢を見ることでそこから逃避しようとしていた。目を背けていた。
けれど、いつまでも周りがそれを許す訳もなく、そして彼女は夢を見る資格を失ったのだ。
もう、彼女に会うことはないのだろう。
もう、彼女は自分を見ることができないのだから。
「…俺もじゃ」
声など届かないとわかっていた。そもそも、元から届いてなどいなかったのだ。
互いが互いに、夢を見ていた自分達の間には、元々何もなかったのだ。
「俺も、おまんが好きじゃった」
いつか夢から醒める時(もしも、夢が現実だったらなんて
考えるだけ無駄なのだと、大人たちは笑うのだ)(2012/08/16)