たとえば今自分に降りかかった小さな不幸が、あの時の自分の≪悪い≫行いの所為だとしたら。

何か嫌なことが起こるたび、私の頭の中にはそんなことがよぎってしまう。たとえば夜中に食べてしまったコンビニのプリン、たとえば心の中で同僚に対してついた悪態、たとえば休みの日に昼過ぎまで布団の中にいたこと……それらが自分の心をえぐるような仕事上のミスだったり、欲しかったものが目の前で売り切れたり、ソシャゲのガチャで目当てのキャラが出なかったりに繋がっているのではないか。だから私はなるべく目立たないように、≪悪い≫ことをしないように、平凡から逸脱しないように、うまく毎日を生きている。

「それって生きにくくないか?」

……うまく、生きているつもりだった。

「お前、前はもっと自由に生きてた気がすんだけど」

わかったようなことを言う目の前の男は、何年かぶりに会う中学の同級生だ。相変わらず目立つ赤い髪はあの頃と変わらない。社会人的にそれは許される範囲内なのだろうか。自分の両手で抱えたグラスは冷房が効いた店内にもかかわらず汗をかいていて、うつむいた拍子に自分の黒髪が目に入る。あの頃と変わらないのは私も同じだと思っていたけれど。

「いやまあ、俺も誰かに説教できるほど高尚な生き方してねぇけどな」

ぐっと、ジョッキを傾け天上を仰いだ丸井は覚えている限りで3回目のビールを空にし、流れるように店員を呼んで次を注文する。「お前は?」「……まだコレ残ってるから」「そっか」店員が去ると、近くにあった小皿から適当に箸でつまみ始める。

「私、そんなに不自由そうに見える?」
「俺から見たらな」
「……そりゃあ、丸井に比べたら、私なんか器用に生きられないよ」

何年かぶりの同窓会。それなりの人数が集まる中、数少ない友人は別の友人たちに連れられて別の席で盛り上がっている。そんな盛り上がる場にこそいるはずの丸井は、なぜか私が一人になったのを見計らったように目の前に移動してきた。ここいいか?と尋ねられて良いとも嫌とも言えるほど親しい関係ではなかったと思うのだけれど。

「俺、そんなに言うほど器用じゃねぇよ」

この場に来るまでに、今日はいくつ小さな不幸に見舞われただろうか。仕事のミスが見つかって上司からお叱りの連絡が届き、お気に入りのパンプスは玄関先でヒールが折れ、ならばと以前から買おうか悩んでいたミュールは合うサイズの一足を目の前で他人に買われ、追い打ちのようにこつこつ頑張っていたソシャゲの連続ログインが途切れていたことに気付いた。ここまできて気持ちが落ち込まないのは、そうとうメンタルがタフで心臓に毛が生えるような人間くらいだろうと思う。
目の前に腰を下ろした丸井が何かあったのかと尋ねてきたのも仕方のないことだろう。きっと私は目にみえて暗い顔をしていただろうから。そしてそれを誤魔化すようにいつもよりも早いペースでグラスを空けていた私が、つい愚痴のようなとりとめのない持論を丸井に吐露してしまったのも、そう、仕方のないことなのだ。

私から見れば、丸井はあの頃から器用に生きていたように思えたし、今も昔も自由なように見える。その象徴のように目の前で跳ねる赤い髪を私は見つめる。視線に気付いたのか、丸井が顔を上げた。困ったようにハの字に下がった眉は、確かにあの頃よりは大人びているような気がする。

「あんまり窮屈な考え方してると、生きづらくねぇ?」
「生きづらいねぇ」

彼の言葉に肯定しながらグラスを傾けると、少し温くなったカシスの味。甘ったるくてあまり好きじゃないし、本当は丸井がさっきから飲んでるビールの方が好きだけど、会社の飲み会で上司から「可愛げがない」と言われてから飲み会の場ではこればかり飲んでいる気がする。口の中に残る甘い香りは、ああ確かに息がしづらい気がする。
遠くで元クラスメイトたちの喧騒が聞こえる。夜更かしした翌日の休み時間に耳に届くそれに似ている気がした。言葉として脳が認識しない音が遠のく感覚に、随分飲んだことを改めて自覚する。

「丸井は、自分のこと器用じゃないとか言うけど」
「うん」
「充分器用だとおもう」
「そうかぁ?」
「うん」
「俺は名字の方が器用だと思ってた」
「そうかな」
「でも本当は不器用だったんだな」
「……」

昔のことなんて、正直あんまり覚えてない。私はそんなに器用に生きていただろうか。ネガティブな息の詰まる生き方はあの頃から綿々と続いていたような気がしていたけれど、丸井からするとそうではないようだった。

「俺本当は中学の頃から名字と話してみたかったんだよな」
「……は?」
「いや、なんつーか、機会がなかったっていうか、教室でよく名字が笑ってるの見かけたから気になってたっていうか」

いや、なに言ってんだ俺。いつの間にか運ばれてきていたジョッキを持たない手で後頭部をかく丸井の耳は、髪の色に隠れて良く見えなかったけれど微かに赤いように見える。丸井の唐突な言葉に手に持ったグラスをテーブルに置く。丸井の言葉で少しずつ蘇るのを感じた。今日降りかかった小さな不幸たちが霞んでいくほどの楽しい思い出たち、自分と友人たちの笑い声、今より少しだけ小柄な丸井の楽しそうな表情、そして時折言葉なく交わる視線。

「いや……やっぱ俺器用じゃねーよ」
「?」
「話しかけるきっかけが欲しかったからって、説教垂れてどうすんだって話だよな」

自分自身が忘れていたようなあの頃の私の記憶と共に、言いようのないぬるい温度が胸に広がっていく。久しく忘れていたそれに乗っかるように、アルコールの回った私の脳は勝手に脈絡なく言葉を紡いでしまう。

「あのさ」
「……なんだ?」

「丸井って、飲み会でカシオレとか飲んでるイメージだった」

丸井が目を丸くして、すぐに細め、にぃと笑った。

「……ビールも嫌いじゃねぇけど、ほんとはお前がさっきから飲んでるやつ、いいなって思ってた」
「私も、ほんとはビールのみたいって思ってた」

丸井の表情を真似て、口角を上げてみる。丸井みたいに笑えてるかわからないけど、たぶん丸井が笑っていたので、それなりに笑えていたのだと思うことにする。あの頃はそんなに親しくもなかったはずなのに、それでもあの頃から確かに絡んでいた視線の先、私はこの空気が存外息がしやすいものだということに、今更ながら気が付いてしまった。

懐かしいあの頃みたいに、同じように笑うことはちょっと難しいかもしれないけれど、ちょっとだけ、ほんの少しだけ前向きに考えてみたくなった。今日これまでに出くわした小さな不幸たちは、今この瞬間とつり合いをとるためのものだったのではないだろうか、と。



大人になった丸井くんとサシ呑みしてみたい

(2019/09/08)




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