これこれと同じ設定



「わたしをおいていかないで」

 昔確かに聞いたその舌足らずな声を思い出したのは、ひどく当然のことのように思える。それを記憶の中から引き寄せてしまうほどの引き金に指をかけていたことに、気付くのが少しだけ遅すぎたんだ。


「亮のやつ、髪切っちまったんだぜ」
「…え、何それ」

 単なる世間話の延長のつもりだった。一拍、息を飲むような間が何故かその時敏感に頬に刺さった気分で、きっと自分は世間話としての選択を間違えたのだと理解した。
 しかし一度口から滑り出したものを逆再生できるような超人的なすべなど当然できるわけもなく、調子のいい俺の舌はぺらぺらと言葉を重ねていく。…宍戸がレギュラー落ちしてから2年の後輩と遅くまで特訓を重ねていたこと、レギュラー復帰の嘆願のため、髪を切り落としてしまったこと。

「おーい、亮!」

 窓の向こう、見えた姿に手を振る。外から吹き込んできたぬるい風が俺の前髪を揺らした。ちらりと隣をみると、感情を無理やり閉じ込めたような目があいつを見下ろしている。ゆらゆらと不安定に揺れる目と微かに噛んだ下唇。名前の表情に、自分のことを棚に上げている自覚をしつつ、眼下の宍戸にひどく苛立ちを覚えた。

 なあ、亮。そこから名前が今どんな顔をしているのか、ちゃんと見えているのか?


***


 名前が宍戸のことを好きなのは、ずっと前から知っていた。
 幼稚舎の頃、家が近所というだけの理由で俺たちと一緒に行動することが多かった名前。いつも居眠りばかりしているジロ―はともかく、俺や宍戸よりずっと足の遅い名前は、それでも一生懸命、俺たちに追いつこうと必死に追いかけてくる女の子だった。

「ねぇ、まってよ」

 息を切らせながらそう言った#名前#に、少し先を走る俺はすぐさま立ち止まる。振り返ると、いつだって、泣きそうな顔をしてこちらを見つめていた。

「わたしをおいていかないで」

 小さな手のひらがこちらに向かって伸ばされる。名前は昔から一人が嫌いだった。俺たちが離れていくのをひどく怖がっていた。そして救いを求めるように伸ばされた、その手を取るのはいつだって、

「おまえをおいていったりなんてしねぇよ」

 いつの間にかぎゅうとにぎられた手、途端に安堵しきったような表情を浮かべる口元。その手を取るのはいつだって宍戸の役目で、いつだって名前の視線は俺の肩越しの宍戸に向けられていた。
 俺の方が近くにいるのに、俺はお前から遠く離れたりしないのに、そう思っても名前は宍戸を選んだ。ふにゃりとやわらかい目を眺めながら、俺は考える。名前が宍戸を選んで、宍戸も名前を選んで、二人がお互いを選んだのなら、それでいい。

 名前が宍戸のことを好きなのは、ずっと前から知っていた。

 ――だから名前が笑顔でいられるなら、それで良かったんだ。


***


「髪切ろうかな」

 その言葉に、平静を保つのが精いっぱいだった。今にも涙に崩れそうな横顔、夕陽が伏せられたまつげの輪郭を縁取っている。今この場にいない背中に向かって、わたしをおいていかないで、そう言っているようにも聞こえた。

「『失恋』なんかで切ったら、勿体無ぇよ」

 名前のきれいな長い髪。ずっとずっと、好きだった。名前が笑っていられるならそれで良かった。瞼の縁から一粒二粒と零れたそれを拭うこともせず、名前の目が俺を見る。肩越しのあいつではなく、俺だけを映したその目は…不謹慎だろうか…それでも、とても美しいもののように思えた。

 教室の窓の向こうから、テニスボールが弾く音がする。いつもいつも耳にしているはずのそのリズムが、この場では不協和音のように思えてくる。…なあ、亮。そこから、そんな遠くから、名前が今どんな顔をしているのか、ちゃんとわかってんのか?見えているのか?

「岳人、」

 か細く頼り無い声が俺の名前を呼ぶ。侑士ならば、跡部ならば、こんな時もっと気の利いた台詞でもいえるのだろうけど、生憎俺にそんなすべなど持ち合わせていない。ままならない感情に押されるままに、名前の肩を手繰り寄せる。

 …今はまがいものだって良い。それでも俺は今、こいつの手を取ると決めた。あいつが離した名前の手は、俺が掴んで絶対に離さない、一人になんてさせない。何処にも行ったりなんてしない。名前の静かな嗚咽を感じながら、俺は下唇を強く噛みしめる。


***


「わりぃ!さっきの数学、助かったわ」
「もー、ちょっとは真面目に授業聞きなよ」
「だってよ、ねみーもんは仕方ねぇだろ?」
「まあテニス部が大変なのはわかるけどさぁ…」
「そういや名前、ノート変えたのか?」
「…うん。前の数学のノート、どっかいっちゃった」
「へぇ」

 ずいぶんと短くなった髪が目の前で揺れる。まるであいつのようだと思った。

「そろそろチャイム鳴るよ。教室戻ろう、岳人」

 そして名前が笑う。俺の目を見て笑っている。迷うことなく俺の手を取って歩き出す。

 このひどく痛む幸福感に、どういう名前を付ければ良いのか、きっと答えは誰にも教えてもらえないことを、ずっと前から俺は知っている。




 


(2016/07/26)




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