『所詮、私は水槽の中。』
『窓の向こうの、そのまた先の水平線の向こうに、届くわけがないのだ。』
「これ、名字さんのでしょ」
紙上を指し示す指は思っていたよりも骨ばっていて、ああこの人も“男の子”なのだと思わせるには十分だった。目線でその先を追う。確かに見覚えのある文字列がそこには並んでいた。
≪夕陽と魚≫
図書室の片隅にいつも平積みにされているそれを、あろうことか千石くんが持っていること自体驚きだったが、それよりも彼が指差すそのタイトル。
それはまぎれもなく、文芸部の部誌に掲載されている、私の、作品だった。
「えっ…と…」
「ああ、待って、誤解しないで!別にこれが名字さんのだからって、言いふらしたりしないからさ」
まだ私が作者であると認めたわけではないのに、彼、千石くんの中では確信があるらしかった。慌てたように目の前で手をバタバタさせる仕草は、なんだかその手と不釣り合いに幼く感じて、少し面白いと思った。
「えっと、そう、だね。うん。あまり言わないでおいてくれると嬉しい、かな」
「うん、任せて。俺こう見えて口堅いからさ!」
「…それで、あの…なんで…?」
なんで、私だとわかったのだろう。背中に流れる汗を嫌に意識しながら私は考える。
山吹中の文芸部は部員数も少なく、他の部活と兼部しながら執筆する部員がほとんどだった。ある人は運動部に、ある人は文化部に、別の部活に居場所を持ちながら、息抜きのように部誌に掲載する作品を提出する。そのため、全員がペンネームで作品を提出するのだ。文芸部での活動において、普段の自分とは切り離してほしい。この作品が私のものであると知られたくない。様々な部員の思いがあって、だからこそのペンネーム制だった。はずなのに。
千石くんはなぜ、この作者が私だとわかったのだろう。
「いやぁ、なんでっていうか」
眉根でうすくハの字を描きながら、千石くんは首をかしげる。
「この前、作文の宿題で名字さんのが発表されてたじゃない?あれになんとなく文章似てるなって言うのと…」
私はその言葉に純粋に驚いた。私は文芸部の活動で書く文章と、学校の課題なんかで書く文章は、わざと印象を変えているつもりだった。この人はそんなことも気付いてしまうのか。
しかし次の千石くんの言葉は、その驚きを軽く飛び越えて、私の真ん中をぶすりと突き刺した。
「話の雰囲気自体が名字さんっぽい気がしたんだよね」
その時、校舎の中を下校時間のチャイムが響き渡る。私の心臓はばくばくと波打つようにうるさかった。これは、この感覚は一体、なんだろう。混乱する頭を必死に働かせて、とにかく帰らなければと席を立つ。私たち以外誰もいない教室。私が机にかけた鞄に手を伸ばす。しかし、それを遮るように手が伸びてくる。それは私の手ごと、鞄の持ち手を包んだ。
「ねぇ、せっかくだから一緒に帰ろうよ」
千石くんの手は私のものより一回りも大きくて、少しだけ冷たい。私の心臓はうるさく飛び跳ねたままだった。
千石くんに彼女がいることは知っていた。隣のクラスの、可愛い子。接点もなかったから、名前はよく覚えていない。千石くんが下の名前に“ちゃん”をつけて呼んでいたという記憶が、微かに残っているくらいだ。
「…え、」
だから、私は戸惑った。掴まれた腕がゆっくりと解放される。無意識に半歩下がった足元から、砂がきしむ音がした。
はじめて一緒に帰ったあの日から、千石くんは部活がない時の帰り道を私と共にしたがった。例の『あの子』とは、部活の休みの日が違うから一緒に帰ることはあまりないらしい。特に断る理由もないから、私はその申し出に頷いていた。
いつも喋るのは千石くんばかりだ。文芸部以外に所属していない私は帰宅部も同然で、人に聞かせられるような話はあまりなかった。千石くんは話題の尽きない人で、道の分かれる十字路に着いて彼が「それじゃ、また明日ね」と言うまで、私はずっと相槌を打つだけだった。今日も、そのはずだったのに。
「せ、んごく、くん…?なんで…」
「うーん、なんでっていうか」
酸素を求める魚さながら、開いた口のふさがらない私と対照的に、彼はけろりとしていた。あの日、私の作品を指摘したときと同じく、首をかしげる。
「名字さんが可愛かったから、かな」
なんで、どうして。私の中で疑問詞ばかりが浮かんで消える。心臓が燃え上がったように熱い。
指が、私の頬に触れる。やっぱり冷たい指だった。ねぇ、と囁く声が私の燃える心臓の縁を撫でる。彼が次に何を言うのか、私はわかってしまう。夕焼けと同化したような千石くんの髪が、すぐ近くにあった。
「目、瞑ってよ」
目蓋の裏側が夕焼けに染まる。千石くんと私は、二回目のキスをした。
そして、千石くんから一緒に帰ろうと誘われることはピタリとなくなった。私からは誘えなかった。私には彼に差し出す楽しい話題もなければ、一緒に帰ろうなどと誘えるだけの関係だって、何もないのだから。ただ、木曜日の放課後が近づくたび、意外と真面目に授業を受ける彼の背中を見つめるだけだった。
宿題で使う参考書を忘れたことに気付いたのは、ちょうど図書室を出ようとしたときだった。窓の向こうで、部活終わりの生徒たちの騒ぐ声が遠く聞こえる。私は教室のロッカーを目指して昇降口とは逆方向に足を向ける。3年の教室の引き戸の大半は開けっ放しになっていて、そこからもれるオレンジ色が廊下を彩っていた。
誰もいないと思っていた教室に人の気配がする。静かに中の様子を伺った私の、あ、という声は、音になるかならないか微妙なところで空気に溶けていった。そこにいたのは千石くんと、隣のクラスの『あの子』だった。
「清純、」
聞こえてきたのは、あの子にだけ許された呼称。私の胸の奥で、砂を踏んだような音がした。
千石くんが、彼女と別れることはなかった。そして、千石くんと私の関係は、何も変わらなかった。3年3組に所属するクラスメイトで、片やテニス部のエース、片や半帰宅部の文芸部員。何度か一緒に帰って、たった二回、キスを交わした、それだけの関係のままだった。
己惚れていたのかもしれない。もしかしたら彼が、彼女よりも私を選んでくれるかもしれないと、少なからず期待をしてしまった。けれど、よく考えてみれば、彼は何と言っていただろうか。
「―可愛かったから、かな」
まるで、長年飼い続けている水槽の中の金魚を愛でるように。
もしかしたら、千石くんはわかっていたのかもしれない。私が彼に抱いていた思いを、感情を…この話に比喩したものを。だとしたら、あれは、あのキスはなんだったのだろう。同情、気紛れ、それとも何か別の。
確実にわかるのは、『あの子』に視線を送る千石くんの表情は、明らかに彼氏のそれということだった。あの日彼が私に向けた表情、あの時は同じものだと思っていた。けれどこうして目の当たりにしたらわかる。違ったのだ。それでも、違うとわかっていてもなお、夕陽に照らされた教室で机を挟んで向かい合う二人の姿に、いつぞやの私が重なる。私は息を飲んだ。
ふと、タイミングを見計らったように、千石くんがこちらに気付いた。視線が交わると、彼は首をかしげる。ふにゃりと笑ったその目の奥にあるものが何なのか、理解したくなかった。
「…――ちゃん」
私から視線を外した千石くんが、彼女の名前を呼ぶ。ん?と彼女が顔を上げるのを見た途端、彼が次に何を言うのか、私はわかってしまった。
私はその場から踵をかえした。参考書の存在はすでにどこかに飛んでいた。心臓が痛くて、痛くて、私は学校の廊下だということを忘れて走り出していた。私の上履きの音を掻き消すように、下校時間を知らせるチャイムが鳴る。
所詮、私は水槽の中の魚。
窓の向こうの、そのまた先の水平線の向こう、あの夕陽に届くわけがないのだ。
title by 不眠症
後味悪いものでも良いとのお言葉に甘えました笑
波那さんありがとうございました^^
(2016/01/28)