これと同設定



「なぁなぁ亮〜」

休み時間、名前を呼ばれて振り返ると、いつもなら授業中との区別もなく寝ているはずのジローが、まさしく寝起きといった風に目をこすりながら顔を上げて、こちらを見ていた。

「んだよジロー」
「名前ちゃんって、あんなに髪短かったっけぇ?」
「…は、」

ジローは、俺を見ていたわけではなく、俺の背後、つまり先ほどまで俺が向いていた方に視線を投げていた。ほぼ反射的に振り返り、その視線の先をたどった。
その姿は、すぐに見つけることができず、しかし、しばらく生徒がごった返す廊下に焦点を彷徨わせると、ようやく彼女の姿を確認することができた。背中にかかる長さのあったはずの、黒く癖のない髪は、肩上の長さにまで切り揃えられていた。


***


「髪、随分短く切っちゃったんだね」

俺が長かった自分の髪の毛を切り落とし、レギュラー復帰を果たした後、名前はそう言って、なぜか少しだけ困ったように笑った。その言葉に、俺は以前彼女に言われた台詞を思い出した。そして、彼女に聞いた。

「そういやお前俺に髪切れって言ってたよな」
「…うん」
「実際に見て、どうよ。俺の短髪姿は」
「…うん、似合ってる」

名前にそう言われて、俺はその時、満更でもない気分になっていた。前、髪を短くしたら似合うと言われた時には、考えても見なかったし、未だに短い自分の髪に違和感を感じることもあったけれど、名前が似合うと言ってくれるのなら、ケジメとして切り落としたこの髪も、そう悪くはないと思った。

そう思ったけれど、名前はなぜかあまり嬉しそうじゃなかった。名前は短髪の方が好きだと言っていたはずなのに。

「…私も髪、切ろうかな」

なぜだか泣きそうな顔をしてそう呟いた名前は、これまで見たことがないくらい儚い存在のように思えた。彼女から借りていたノートを書き写す手をとめ、俺は思わず彼女の髪に触れていた。

「名前の髪、せっかく綺麗な髪なんだから、勿体無ぇよ」

それは俺の本心だった。幼稚舎で初めて出会った頃から変わらない、名前によく似合う長くて癖のない黒髪が、俺は好きだった。名前は俺の言葉に肯定も否定もしないまま俯いてしまった。やっぱり泣きそうな表情の名前に、どうすればいいのか、俺は思案した。


***


あの後長太郎が教室にやってきて、名前から写し終わらなかったノートを借りて、その場を後にした。結局、彼女がどうしてあんなにも不安定な表情をしていたのかは、わからないまま。

「なんか、亮みたいだC〜」
「…え?」
「名前ちゃん、ちょっと、変わったみたE〜」

もう一度ジローの方を振り返ると、ジローは半ば目を閉じかけながらむにゃむにゃと言葉を発していた。ジローはほとんど独り言のように続けた。

「最近、岳人といっしょにいること多くなったよね〜…」

「名前ー!」

ジローの言葉を意味を噛み砕き終わるとほぼ同時、これまでノイズとしてしか入ってこなかった周りの話声の中から、唐突に彼女の名前を呼ぶ声が浮かび上がる。振り返らずともわかった。岳人の声だった。

「わりぃ!さっきの数学、助かったわ」
「もー、ちょっとは真面目に授業聞きなよ」
「だってよ、ねみーもんは仕方ねぇだろ?」
「まあテニス部が大変なのはわかるけどさぁ…」

一度はっきり認識すると、途端に二人の会話が明瞭に聞こえてきた。岳人の手から名前の手に渡る一冊のノート。ケタケタと笑う岳人に、名前は呆れたような笑顔で応じていた。そんな彼女の肩上で揺れる毛先に、もやもやとした違和感がぬぐいきれない。彼女のあの表情は今までだって何度も見てきたはずなのに。あの日だって、いつものようにノートを貸してくれたあの日も、いつものことじゃんって笑って…。

ここまで考えて、ふと気づく。そういえば、あの時に借りた数学のノートを、まだ返していなかった。次の日に返してくれればいい。あいつはそう言っていたのに。

返すタイミングなんて、いくらあってもよかったはずだった。なぜなのだろうと考える。同じ学年、ましてや隣のクラスなのに。それでなくても、俺やジローのいるC組に、名前はよく遊びに…。

「そういや名前、ノート変えたのか?」

俺なんてまだページ半分残ってんのに。岳人の言葉にハッとする。それはたぶん、俺が名前のノートを借りっぱなしだから…。
けれど名前は岳人に思いもよらない言葉を返した。

「うん。前の数学のノート、どっかいっちゃった」

その瞬間、岳人の肩ごしに名前と視線がぶつかった。交わる視線がに懐かしさを感じた途端、俺はふとあることに思い当たる。…名前は、俺に会うことを避けているのではないか。

ジローは、名前が変わったと言った。昔から、俺の後ろについて回るような大人しい子どもだった名前。けれどいつだって俺のことを気にかけ、いつだって隣に立って応援してくれていた名前。クラスが違っても、常に彼女は俺の一番近くにいた。けれど今、彼女は俺の隣にも後ろにもいない。教室と廊下だけの距離なのに、まるで遥か前方に名前がいるような心もとない感覚。

ジローは、変わった名前を俺のようだと言った。そうだ、俺も変わったんだ。自分の傲慢さで試合に破れたあの日から。長太郎と共に更なる高みを目指して歩み始めてから。俺はそれまでの自身の技量に胡座をかいていた自分を恥じ、変わろうとした。

ふいに、交わっていた視線が外される。俺と目が合っていたことなど、つゆにも感じさせない笑顔で、名前は岳人に笑いかける。

「そろそろチャイム鳴るよ。教室戻ろう、岳人」

岳人の手を取ると、短くなった髪を揺らし、名前は廊下の向こうへ消えていった。

手を引かれ、あとに続くように去っていった赤い髪の幼馴染の姿も見送ってから、俺はようやく自覚した。俺はあの手を、自分の弱さと同時に自ら振り切ったのだと。

無意識のうちに名前だけは何も変わらないのだと思っていた。俺が変わったとしても彼女だけは何も変わらず、ただ傍にずっといてくれるものだと思って疑わなかった。けれど、それは間違いだった。少し前までの俺が、自分の才能を過信していたことと同じように、俺はまた、同じ間違いを繰り返したのだ。

俺が変わり、名前も変わった。もうあいつは俺の隣には並ばないし、後ろをついてくることもない。そのことが、ただただひどく寂しく、そして虚しい。

午後の授業の開始を告げるチャイムが鳴る。早々に夢の中へ旅立ったジローは、いつものように俺の背後で寝息を立て始めていた。



  

(2014/06/05)




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