SHRの終わりと共に廊下へ足を踏み出す。
他の教室からも続々と生徒達が廊下に溢れ出てくる。
がやがやとした喧騒の中、何故それが私を示す代名詞であるのかわかってしまったのか、慣れというのはまったく恐ろしいものである。

「せんぱーい!」
「!…げっ」

女子に似つかわしくない声を上げてから、私は肩にかけた鞄をしっかりと持ち直すと、その姿と逆の方向へ踵を返した。

しかし文化部と運動部のしかもエースの差ともいうか、いとも簡単に捕まってしまう。文字通り、ホールド状態。

「切原くん!はーなーしーてー」
「名字先輩逃げるのがいけないんッスよ」
「だああもう逃げないから!離してよここ廊下!学校!」
「ちぇー」

しぶしぶといった感じで両手の力を緩められた瞬間、さっとその腕から逃れて一定の距離を保つ。そんなに避けられるとさすがの俺も傷つくッスよーとへらへら笑うこいつは一つ年下の後輩である切原赤也である。

「で?何の用かな切原くん?」
「そうそう、来週からテストじゃないッスか!だから先輩に英語教えて貰おうと「じゃ、私帰るねー」ちょ、ちょっと待ってください先輩!」

みなまで聞かずに立ち去ろうと思ったのだけれど、鋭い反射神経によって阻まれてしまった。
この切原赤也という後輩は試験前に切羽詰ると必ず私のところへやってくる。というのも去年、図書室で超簡単な英語のプリントを前に頭を抱えていた切原くんを、すっごく気まぐれで助けたのが原因。私は英語が得意だからあんな中一の超簡単な英語の問題が解けないなんて…と、少々善意が働きすぎてしまったようだ。人はそれを哀れみとも呼ぶ。

しかし悲しきかな、切原くんはそれから毎回こうして私のところに英語を教えてくれと駆け込んでくるようになってしまった。
私だって鬼じゃないから、できることなら教えてあげたいのは山々だ。切原くんも救いようのないバカではないから教えて理解できれば飲み込みは早いし教えがいはある。

でも、でもね、切原くん

「…この間のテストの前にも言ったよね、切原くん」
「なんスか?」
「…私もテスト前は切羽詰まってるって!」

そう、私だって英語が不得意な切原くんのように、壊滅的に苦手な科目というものがあって、それが数学。
たまに同じクラスで近くの席の仁王くんが気まぐれで教えてくれたりもして、部分的には大丈夫そうだけれど、それ以外ほとんど手付かずの状態なのだ。だから切原くんの気持ちもわかる。苦手なものはどうしても後回しになるって。でもさ、ここからが君と私の違うところだよ。私はとりあえずは誰にも迷惑をかけないように、こうして真っ先に家へ帰り、参考書を広げてプリントとにらめっこするという大事な予定が待っているわけである。君と違って自分自身で努力だってするんです。

「だからね、切原くんの勉強を見てあげる余裕なんてないわけ。わかる?」
「ええー!」
「えーじゃなくって、私も困るのよ。ていうか、教えて欲しいならもっと早くくればいいのに」
「部活が…」
「私だって部活あったわよ」

私だって活動停止期間直前まで部活あったわ!クラリネット吹いてたわ!じゃなくて活動停止期間最終日になんで私のところに来るのよっていう話をしているのよ。最低でも3日間はあったでしょう3日間は。
前回は彼の押しに負けてつい勉強を見てしまったけれど、今回ばかりは私も譲れない。今回3年の数学のテストは初日の一限だ。

「…ごめんね切原くん私も数学と戦わなきゃいけないから、君も頑張って戦ってね」
「せんぱ〜い…」
「じゃ、そういうことで」
「わー!待ってください先輩!」

「〜ッだから!私は帰るの!離しなさい切原赤也!」
「違うんです先輩!ちょ、聞いてくださいよ!」

再び引き止められてしまい、掴まれた手を離せと暴れると、なんだかよくわからないけれど違う違うと連呼された。

「じゃあ今度は何?!」
「お、俺今回のテスト自分で頑張るッス!!」
「?うん、頑張って」

なんでそれをわざわざ私に宣言する必要が?いや頑張るのはいいことだよ。それを止めようとは思わないしっていうか私が自分で頑張れって言ったんだし。

「だからもし俺が平均点以上取れたら」
「取れたら?」
「先輩のアドレス教えてください!」
「…は?」

一瞬空気がとまった気がした。切原くんはほっぺたを赤く染めてこちらをじっと見ている。唐突に周りの喧騒がよみがえり、そこでハッと我にかえる。ここは学校の廊下だった。しかし周りが廊下のど真ん中で止まっている私たちの会話を、特に気にしている様子はなかった。

「…ていうかなんで私のアドレス?何の価値もないでしょうに」
「俺にはあるんです!」
「ふーん?じゃあ今教えようか?」
「いやいやいやそれじゃあご褒美の意味がないッス!」

なんだそれ。
でもまあ、うん、悪くはないかもしれない。

「…8割」
「…え?」
「切原くんが英語で8割、私が数学で8割取れたらアドレス交換しよう」
「マジッスか!?」
「マジマジマジも大マジ」
「やりぃ!」

じゃあ、そういうことで!先輩も数学頑張ってくださいねー!
そう言い残して切原くんは今にもスキップしそうな軽やかな足取りで、かつ尋常じゃないスピードで廊下の向こうへと駆け抜けていった。ああ、ここ3年の階なのに真田くんとかに見つかったら怒られるよー切原くん。

「…さて」

ようやく切原くんから開放されたと思った今はもうだいぶ廊下の喧騒自体が収まってきていた。私は昇降口へと向かうべく階段を下りていく。心なしか、私の足取りも先ほどの彼のように軽く感じた。

さて、可愛い後輩のアドレスを手に入れるために、私も頑張らなきゃね。





試験が終わり、私は仁王くんから聞き出した番号に電話をかけた。話によると平均点は超えたものの惜しくも一点私の出したボーダーに届かず目に見えて肩を落としていたらしい後輩は、少し間をあけてから電話口に出てきた。
開口一番に誰?と言ってきた彼に名字だけど、と返してやると電話口の向こうの声が急激に上ずっていた。焦る姿が容易に想像できて思わず笑ってしまった。

だって切原くん。君の最初の条件は平均点以上だったからね。ご褒美くらいあげてもいいでしょ?それに、

私は手元にある答案用紙にちらりと視線を落とす。赤文字で書かれた「81」という数字。なんでなんでと慌てる後輩に、私は素直に答えてやることにする。


「私だってご褒美ほしかったんだもん」



(前サイト掲載:2012/07/29)




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