プルタブに指を掛けて引くと炭酸が逃げる音が部屋に響いた。何も考えずに煽るように流し込むと、案の定、

「…!げほ、ごほごほ…」

…むせた。

一つ息をついて、今度はゆっくりと口に含んで飲み込んだ。甘い柑橘の香りが鼻腔をかすめる。

「…あーあ」

アルミ缶を机に置くと、さきほどよりも幾分か高い音が鳴った。背もたれに後頭部をのせ、築15年の貸しアパートの天井を仰いだ。なんとなしに口から漏れた溜息は、誰に聞かれるでもなく部屋の空気に溶けていった。
しばらく、もう一口を飲む気にもならず、その体勢でぼーっとしていると、来訪者を知らせるチャイムが鳴った。壁掛け時計が示す時刻は午後11時を回っている。こんな時間に一体誰が…。
だるい上半身を起こして玄関へ向かう。サンダルを引っ掛けて、扉の覗き穴を覗く。そこにいたのは、

「…え、なんで」

見覚えがありすぎる、けれどそこ…私の部屋の前にいるにはあまりにも不似合いな人物が立っている。慌てて扉を開けると、少し伏せがちだった視線が私のそれとかち合う。

「よう」
「…跡部」

邪魔するぞ、と跡部は部屋の主である私の許可もなく、私の横をすり抜けるとさっさと靴を脱いで中へ入っていく。その男物の革靴でさえ、この玄関には不釣り合いで、それをちらっと見てから慌てて玄関の鍵を閉めなおして跡部の背を追った。

「ちょっと!何勝手に上がり込んでるわけ」
「相変わらずボロいとこに住んでんな」
「…うっさい」
「ていうか、また飲んでんのか」

跡部は無遠慮なことを言いながらどんどん部屋の奥へ入っていき、ダイニングのテーブルに置かれたアルミ缶を手にした。私がさっき一口飲んだそれだ。

「…また奴と喧嘩したのか」
「跡部には関係ないでしょ」
「あー、はいはい」

跡部には何でも見通されてしまう。彼氏と何かあるたびに、お酒をあおるのは、成人を過ぎてからというもの、私の癖になりつつある。外で飲むと付き合わせる人に迷惑をかけるから、最近はもっぱら家で一人自棄酒だ。

「あんまり飲み過ぎんじゃねーよ」
「いいでしょ別に。そんなんじゃ酔わないし。たかが3%でしょ?」
「…お前、そこそこ強いからな」
「何よ」
「別に」

何か言いたげな跡部の手からアルミ缶をひったくって口をつける。その時、ガサリという音によって跡部のもう一方の手に下がる白いビニール袋の存在に気づく。

「……」
「なんだよ」
「…跡部と、コンビニのビニール袋って恐ろしい程似合わないね」
「そうか?」
「別に褒めてないし」

袋にかかれた柄はこのアパートから数分とかからない場所にあるコンビニのものだ。この跡部が歩いて、自分の生活圏内のしかも庶民の代名詞とも言えるコンビニに寄ったのか、と思うとなんだか変な気分である。

「で、何しに来たの?」
「別に。お前の顔が見たかっただけだ」
「…なに、それ」
「まあ、とりあえず座れよ」

…我が物顔で座っているけど、一応この部屋の主は私だ。跡部は何食わぬ顔をして、背後の食器棚からグラスを取り出してテーブルの向かいの席に腰掛ける。コンビニの袋から取り出したワインは、彼がいつも家で飲んでいるものに比べたら捨て値に近いはずなのに、我が家の安物のグラスに注いだそれを持つ姿すら様になってしまうのだから、ほとほと腹が立つ。

「なあ」
「…何」
「いつになったら俺は応えてもらえるんだ?」

グラス片手にまっすぐに向けられた視線にから逃げるように俯く。

「…それなら、もう返事はしたでしょ」

アルミ缶の縁を指でなぞる。シュワシュワと、炭酸が弾ける音がする。

「所詮私なんて、コンビニの袋と缶チューハイが似合う女だよ」
「俺はそんなお前が好きなんだ」
「…優雅にワイングラスに赤ワイン注いで飲んでる男の横で、缶チューハイ飲んでる女ってどうなのよ」
「別にいいんじゃねーの?」

間髪入れずに言ってのけた跡部の台詞に、顔を上げる。昔から憎たらしいくらい端正な顔。真っ直ぐな視線は、あの頃からずっと変わらないのに。

「…跡部って」

視線をそらさないまま、口を開いた自分の声は思った以上に掠れていた。

「アーン?」
「跡部って、そんな奴だったっけ?」

私が知っている跡部景吾は、初めて出会った頃の跡部景吾は、こんなふうに好き好んで彼の言うボロいアパートなんか来ないし、わざわざ歩いてコンビニに寄って安いワインなんて買わないし、そもそもたかが庶民の女の一人なんて見向きもしないような、そういう男だった。何が彼を変えたのか、気づけば雲の上の存在だったはずの彼は、地に足をつけてこうして私の目の前にやってきた。

「…変わったと思うなら、それはお前のせいだな」
「……」
「俺を変えた責任とって、そろそろ俺に振り返ってもいい頃合だと思うんだが?」
「…バカじゃないの?」

シュワシュワシュワシュワ
それすら耳障りで、私は耳を塞いだ。バカじゃないの。なんで私なの。私なんか釣り合うわけもない目の前の男は、そんな私の様子を見て、おもむろに席を立った。

「そんなんじゃ酔えねぇんだろ?」
「まあね」
「…いっそ自棄酒なら、別の、もっと強いやつ飲めばいいだろうが。酔いたいんだろ?」
「でも、これが好きなんだもん」

確かに、彼氏とは喧嘩ばかりしている。けれど、私には彼のような人がちょうどいいのだ。友達の延長みたいな、軽い“お付き合い”。上手くいけばその先も考えられるだろうけど、今の彼とはそんな未来なんて全く見えない。安い付き合いだとは思う。けれど、私みたいな安い女は、その程度で充分なんだ。

だからこれ以上なんて、望まなくても。

「…名前」

気づけばすぐ近くで、私の名前を呼ぶ声がした。艶っぽいその低い声に引きずられるように顔を上げると同時に掠めた熱。ワイン特有の渋味が、あっという間に唇をこじ開けてしまった。声を出す暇すらなく、突然のことに力の入らない腕は、抵抗するでもなく動かせないまま。いつの間にか後頭部に添えられた跡部の左手が、無意識に逃げようとする私を捉える。

「っあ、と」
「…まどろっこしいんだよテメーは」

ようやく離れた唇で、息をつけば、跡部はほとんど乱れていない口調で吐き捨てるように呟いた。
口ぶりと反して、跡部の瞳が揺れる。切なげにひそめられた眉。自信家で、傲慢な彼を、こんな表情にしてしまうのが自分だということを、再認識する。優越感とは違う、けれど限りなく近い感情が、未だ酸素の足りていない頭を支配し始めているあたり、もう既に酔い始めているのかもしれない。

「酔えばいいじゃねーか。全部、忘れさせてやる」

…ああ、でも、もしかしたら。

(本当はずっと前から、)





…炭酸が抜けきってしまったであろう、甘いだけのチューハイは、あとで流し台に流してしまおう。

それきり考えることをやめた私は、再び近づいてくる跡部を静かに受け入れた。




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