「髪、切りなよ」

脈略もなく口にした言葉に、彼はペンを動かす手を止め、ノートから顔を上げた。

「なんだよ、唐突に」

宍戸は眉を顰めて、私を真正面から見つめた。なんだよ、と聞かれても、自分でも前後の会話との不一致はわかっている。

「いや、宍戸なら短髪でも似合うと思って」

これは前々から思っていたことだった。宍戸の髪は長く伸ばしている割には確かに痛みも少なく、きれいだった。それこそ女の私が羨ましいと思えるほど。とはいえ、別に今の髪型が似合っていないわけではない。二度目になるが、確かに宍戸の髪はきれいだと思うし、テニスボールを追いかける後ろ姿に、一つにくくった長い髪が揺れるのを見るのも好きだった。

「そうかあ?」
「うん。ていうか、単純に私の好みでもあるけど」
「なんだそれ」

ははっ。宍戸が笑う。彼の伸びた髪が微かに揺れる。
別に、今の髪型が嫌いなのではないし、かといって短髪の方がすごく好みというわけではない。ただ、宍戸なら短髪も似合うと思ったのだ。

会話が途切れる。宍戸は手を動かすことを再開した。宍戸が書き込むノートに、半分覆われているもう一冊のノート。そこに並ぶのは私の字だ。部活で疲れてまともに授業も聞いていない宍戸のために、なるべくわかりやすいようにまとめたノート。もう何度、こうして宍戸に写させているだろうか。

「宍戸」

今度はノートから顔を上げないまま、生返事だけが返ってきた。カリカリとノートを滑るペンの音だけが、私たち以外誰もいない教室に響く。

「…都大会、頑張ってね」


***


「レギュラー落ちた」

彼から電話があったのは、都大会が終わってすぐのこと。
電話口の彼の声は、普段のような自信に溢れた色は感じられなかった。

「ほんっと…激ダサだぜ」

その言葉に何と返していいのかわからなかった。いくつかの会話の応酬をした気がするが、全くといって頭に入ってこなかった。気がつけば、「じゃあな」という声と、着信が途切れたことを告げる機械音が鼓膜を震わせていた。

宍戸は、私にどんな答えを求めていたのだろう。一体、何と言って欲しくて電話をかけてきたのだろう。電話が切れてから私は一人でモヤモヤを抱えたまま、結局布団に入る時間になってもろくに眠ることもできないまま一晩を過ごした。

彼が、あの莫大な部員数のテニス部でレギュラーの座を勝ち取ったことを、自分自身の誇りのように思っていたこと、ずっとずっと側にいたからもちろん知っていた。だからこそ、軽々しく何かを口にできなかった。気休めの慰めは、今の彼に一番傷をつける。

次の日、結局宍戸にかける言葉が見つからないまま、学校に来た。寝不足の頭でふらふらと廊下を歩いていると、向こうに宍戸の姿を見つけた。同時に、宍戸がこちらを振り返る。

「しし…」

しかし、いつもなら私より先に「おはよう」と言ってくるはずの宍戸は、私と視線が合ったにも関わらず、表情一つ変えずに自分の教室へと入ってしまった。


***


「亮のやつ、髪切っちまったんだぜ」

宍戸と話をしなくなってから、二週間。長いようで短い日常をだらだらと過ごしていた私に、岳人の口から出たそれは、私を驚愕させるのに充分なものだった。

「…え、何それ」
「あ、やっぱ何も聞いてない?」

まるで天気の話でもしているかのような岳人の軽い口ぶりは、まさか冗談なんじゃないかと一瞬疑うほどだった。けれど、こんな冗談を岳人が言うメリットなんてない。そのことが妙にストンと腑に落ちて、けれど何かモヤモヤした。

レギュラー復帰を嘆願するため、自らハサミで髪を切り落とした。

それは、少し前の宍戸なら考えられない暴挙だった。私がどんなに言っても、絶対に切らなかった髪。ずっと自慢だったはずの長くて綺麗な髪。

それを、宍戸はテニスのために切ったのだ。

「あ、ほら、あそこあそこ」

岳人が指差す窓の向こう。宍戸の姿があった。岳人に言われなければ、絶対にわからなかった。それまでに、印象が違いすぎた。

「おーい、亮!」

岳人が手を振る。こちらを振り仰いだ宍戸の額には絆創膏が貼られていた。開いた窓から吹き込んできた風が、私と岳人の髪を揺らす。岳人の声に反応した宍戸は、ただそこで笑っているだけだった。


***


「いつも悪ぃな」

ようやく宍戸と話すことができたのは、それから数日経ってからだった。
テスト期間直前になって、私のクラスに駆け込んで来て手を合わせた宍戸は、まるで何も変わっていなかった。頼む、ノート写させて。いいよ。そのやり取りすら、何も変わっていなかった。

「別にいつものことじゃん」

私は笑う。宍戸も釣られて照れたように笑った。

「…髪、随分短く切っちゃったんだね」
「ん?ああ、まあな」

筆記用具を取り出す宍戸は、私の言葉に一度手を止めて、自分の髪を触った。

「そういやお前俺に髪切れって言ってたよな」
「…うん」
「実際に見て、どうよ」

俺の短髪姿は。
そう言って宍戸は笑った。久しぶりに間近で見た宍戸の笑顔は、どうしてだか別人に見える。先ほどと言っていることが矛盾しているのはわかっている。宍戸自身は何も変わっていないのに、髪型一つでこんなに印象が変わるものなのだろうか。

「うん、似合ってる」

宍戸はやはり照れたように笑っていた。ここ数週間一言も話をしなければ目が合うことすらなかった私に、宍戸は数週間前と何も変わらない笑顔を向ける。何かが決定的におかしいのに、何がおかしいのかわからない。私が知っている宍戸は、こんなふうに笑うやつだったっけ?何もかもが曖昧になっていく違和感。

「…私も髪、切ろうかな」

呟いた言葉は、宍戸の耳にちゃんと届いたらしい。少し動かし始めた手を止めて、宍戸はノートから顔を上げた。ちょっとだけ目を見開いて、何故か困ったような顔をする。節ばった手のひらが伸びてきて、私の髪に触れた。

「名前の髪、せっかく綺麗な髪なんだから、勿体無ぇよ」

思わず俯く。無性に、泣きそうだった。

「宍戸さん」

ふいに、他に誰もいないはずの教室に、私たち以外の声がした。
振り返ると教室の戸口に、見知らぬ男の子が立っていた。銀髪で長身の彼は、柔和そうな顔に少しだけの困惑を浮かべてそこに佇んでいた。

「どうした、長太郎」
「すいません。ちょっと打ち合いでもと思って…」
「…あー…」

どうやら、噂に聞く宍戸の新しいパートナーだったようだ。これまでシングルスプレイヤーだった宍戸がレギュラー復帰してからペアを組み始めたと岳人が言っていたっけ。
長太郎くんの誘いに、言葉を濁しながら手元のノートに視線を向ける宍戸。そんな宍戸の手元から、自分のノートを引っこ抜いた。

「お、おい」
「行ってきなよ。ノート、貸しておいてあげるから」
「でもよ…」
「明日の朝、返してくれればいいから」

閉じたノートを差し出すと、一瞬逡巡した瞳はすぐに定まり、宍戸はノートを受け取った。

「…じゃあ、悪ぃな」

いそいそと荷物をまとめ始めた宍戸をただ見つめる。…そういえば額の絆創膏といい、顔やら腕やらに、やたら生傷が増えたな。

「宍戸」

立ち去ろうとする宍戸を、呼び止める。すぐに宍戸は立ち止まって振り返ってくれる。どうした?とその目が言う。

「関東大会、頑張ってね」

『…都大会、頑張ってね』
そう言ったあの日、宍戸は何て答えたっけ。

「…おう!」

こんなふうに、笑って頷いたんだっけ。


***


「あれ、まだ帰ってなかったわけ?」

いつの間にか、岳人が教室の戸口に立っていた。先ほど長太郎くんが立っていた場所と同じ位置。怪訝そうに首をかしげる岳人に、私は宍戸に言ったものと全く同じ台詞を向けていた。

「私、髪切ろうかな」
「…何、急に。失恋でもしたのか?」

岳人の言葉に、妙にストンと違和感が腑に落ちる感覚。私はそれを生唾と一緒に飲み込んだ。失恋…あながち間違いじゃないかもしれない。
テニス部でレギュラーであることを誇りに思っていた宍戸。長くてきれいな髪を揺らして、テニスボールを追いかけていた宍戸。私はそんな彼がずっと好きだった。幼稚舎の頃からずっと、その後ろ姿を見てきた。

「…うん。私、失恋したみたいだ」

宍戸は何も変わっていない。けれど変わってしまった。
きれいな髪は無残にも短くなってしまって、シングルスプレイヤーからいつの間にかダブルスプレイヤーになっていて…

『当たり前の事言うんじゃねーよ、勝つに決まってんだろ』

…ああ、そうだ。宍戸はあんなふうに、素直に笑って頷かなかった。さも勝利が当たり前のように、まるで頑張れと言うこと自体が無意味であるかのような顔をしていたじゃないか。

「名前」

いつの間にか岳人は私の目の前に立っていて、私の髪に指先が触れる。

「…『失恋』なんかで切ったら、勿体無ぇよ」

彼と同じ台詞を口にする岳人に、じわりと視界が滲む。
…岳人はもしかしたら知っていたのかもしれない。宍戸と同じく、幼稚舎からずっと一緒だったから。

宍戸は何も変わっていない。けれど変わってしまった。

それは決して悪い変化ではなく、むしろいい変化だった。私はそれを喜ばないといけないはずなのに、どうして涙が出てくるのか。

(髪、切って欲しくなかった)

宍戸のきれいな長い髪が好きだった。広いコートに一人で立ち向かう背中が好きだった。ちょっと傲慢に笑うその表情が好きだった。私が切ってと言っても切らなかったのに、彼はテニスのためなら何の躊躇いもなく髪を切り落としてしまった。そして彼は変わってしまった。遠くに行ってしまった。

(切るなら、私のために切って欲しかった)

窓の向こうから、テニスボールが弾く音がする。大好きだったはずのその音すら、憎らしいと思ってしまう。そんな自分がたまらなく惨めで、涙は次から次に溢れていった。



  

(2013/7/17)




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