あなたのことが好きでした。


震える手で書いたそれは、何度も何度も書き直してようやく妥協できるものになった。たった一文。それだけのために、私はA5の便箋を8枚ダメにした。ただ、よく見返せば、一番最初に書いた、ミミズのように弱々しく這う文字の方が、今の私を的確に表していたのではないかと思えてくる。そう思ったところで、もうそのミミズ文字は力いっぱい丸めて放り投げてしまったのだけれど。
風が髪をなびかせる。誰もいない屋上の隅、フェンスにもたれて私は空を見上げた。雲の流れが、目で確認できる程度に早い。眩しく見える空の色ほど、今の私にとって憎いものはない。



「俺、あいつと付き合うことになったから」

丸井は笑顔だった。
今まで何度だって丸井の笑っている顔を見てきたけれど、まるで別人のようだと思った。じゃあこの目の前で笑っている丸井は一体どこの丸井だ。「そう」私の口から溢れた自分の声はいつも通り平坦で、両の目がはっきりと映している笑顔とちぐはぐで、気持ち悪いと思った。


「…よかったね」



便箋を折る手はまだ震えていた。歯を食いしばりながら丁寧に、二つ折にする。真っ白い便箋は、真っ白は封筒へ、綺麗に収納されていく。
座り込んだ私の隣に、ちょこんと置かれた白い箱。中身なんて、見なくても大体想像がつく。白い箱の、上蓋をとめているテープにかかれたロゴは、丸井行きつけのケーキ屋だ。
白い封筒が風に飛ばされないようにしながら、箱に手をかける。淡々と開けたそこに入っていたのは、いかにも美味しいですよと、主張しているかのようなシュークリームが一つ。それと、おまけのように入れられたプラスチックの小さなフォークが一つ。
意識せずとも、自分の眉間にシワが寄るのがわかった。
…こんなことまで覚えているくせに。
あなたは最後まで、一度だって、私を振り返るなんてことはしなかった。



「これ、よかったら食ってくれよ」

差し出された白い箱。

「俺、名字に相談に乗ってもらわなかったら、あいつと付き合えなかったと思うからさ」

だから、そのお礼。

…丸井ブン太は、人に食べ物をあげるようなヤツじゃない。絶対的に、人から食べ物をもらう側だ。そのはずだった。だからやっぱり目の前で笑うあの丸井はきっと丸井であって丸井ではないのだろう。私は愕然とした。



プラスチックのフォークは無視した。手づかみで口元まで運ぶ。思いっきり口を開けて噛み付いた。勢い余って自分の手まで噛んだ。甘ったるい生クリームとカスタード、粉砂糖たっぷりのクッキーシュー、ほんのり鉄の味。ああ、気持ち悪い。
いつだったか、好きなケーキの話題になったことがある。もういつの話だか、正確なところは覚えていないけれど、あの子をデートに誘うのに、ケーキ屋に行きたいとかなんとか、そんな相談を受けていた時だった。唐突に「名字は何が好き?」と聞かれた。私はその質問に適当に答えた。第一、丸井のように甘いものが特別好きなわけではなかった。ただ、丸井が好きなあの子は、甘いもの好きが似合う典型的な女の子であったから、その相談に乗っていただけだった。

本当は、シュークリームなんて、大嫌いなのに。

「…気持ち悪い」

口の中に残る甘い匂いに、眩暈がした。
揺れる視界で、無理やり立ち上がる。カラになったケーキの箱が、風に煽られて転がった。中からプラスチックのフォークが転がり出て、そのままどこかへ行ってしまうのを、フェンスにもたれたまま見送る。
封筒を下に置き、上靴を脱いで重石にした。白い封筒は、端が既にヨレて、少しだけ黒ずんでいた。
背を預けていたフェンスを振り返り、両手をかけた。針金の網が指に食い込む。構わず、拳を握るように力を入れた。


あなたのことが好きでした。


覗き込んだ地面が、じわりと滲む。唇を噛むと、やっぱり甘ったるい匂いが鼻腔をかすめた。丸井が大好きな、甘い匂い。
堰を切ったように、涙が溢れ出した。ただただ、気持ち悪かった。靴下越しのコンクリートの感触も、指に食い込む針金の感触も、風が揺らす自分の髪も、口の中に残る生クリームの匂いも。


あなたのことが好きでした。


シュークリームなんて、本当は大嫌いだったのに。なんでそんな昔のことまで覚えてるの?たった一度だって、誰よりも隣にいた私のことを振り返りもせずに、あの子の元へ行ってしまったくせに。応援するなんて言って、甘いものが好きだなんて言って、嘘ばかり吐き出した私に、どうして笑いかけてから去って行ったの。いっそ一瞥すらくれずに消えてくれればよかったのに。
ギシッ、とフェンスが音を立てる。私は構わずフェンスに全体重をかけたまま声を上げて泣いた。
失恋から投身自殺なんて、臆病な私にできるはずがない。そもそも、そんな思考に陥ってしまうほど、ゆるふわな夢見る少女のような純粋な心なんて持ち合わせていない。上履きが踏みつける白い封筒の中身だって、最終的には丸井の手に渡る前に、私の手でゴミ箱の中に投げ入れられるのだ。揺れるペン先を必死に動かした時間は、ただの浪費にすぎない。嘘つきで臆病な私は、結局のところ、何もできやしないのだ。


「俺、名字のこと好きだわ」


丸井は、笑っていた。
きっと最初から私が好きな丸井も、丸井が好きな私も、みんなみんな嘘っぱちで、そんなもの、最初から死んでしまっていたも同然だったんだ。


「…うそつき」


――わたしは、あなたのことが嫌いでした。




title by 自慰
(2013/7/11)




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