目に映る世界の色がひどく濁っていることに気づいたのは、突然の出来事だった。具体的にどうこう言えない曖昧な何かが歯がゆく、それを誤魔化すように常に私は何かに追われるような日々を過ごしていた。私の全てであったはずの世界が突然輝きを失うことによって、私の足元はガラガラと音を立てて崩れていくようだった。私は危うく転びそうなくらいにせわしなく毎日を歩みながらも、そんな色の褪せた世界に嫌気がさしはじめていた。せめて、いっそのこと、このまま時が止まればいいのに、なんて。幼い頃はあんなに早く大人になりたかったのに。早く少しでも大人に近づきたくて、背伸びしていた少し前の自分の時間さえ、今思い返せば随分と勿体無いことをしたような気すらしてくる。そんな戻らない時間を思い返すたびに、以前とは違う種類の焦りが私を襲った。

教室の窓の向こうから、どこかの部活の掛け声が聞こえてきた。西の空はほんのり橙色に染まりつつあり、自分がこうして窓の外に何を見るでもなく視線を投げていた時間の長さを物語っていた。
手元に置かれた紙は白紙のままだった。『進路希望調査』なんてテンプレすぎるタイトルと、枠線のみが印刷されたB5のそれ。少し前まで握られていたシャープペンシルは無造作に机の上に転がって、私の右手はそれをもう一度つかもうとする意志のなさを象徴するように投げ出されていた。

あともう少しすれば、担任が戻ってくる頃だろう。未だに真っ白な『進路希望調査』を見て、いよいよ激昂するだろうか。それともまた、諦めたような深いため息をつかれるのだろうか。そのどちらも予想できたけれどさして興味の対象にはなりえなかった。何が進路だ。まだ中3だというのに、将来の何を決めろというのだ。ほとんどの生徒が持ち上がりで高校まで行くというのがわかっているというのに、紙の無駄、資源の無駄とは思わないのか。…そう思うのならさっさと第一志望の欄に『高等部進学』と一言書けばいい話なのだけれど、なぜかその一言が書けないでいた。だからこうして誰もいない教室に一人居残る羽目になっている。

その時、わあ、と窓の向こうから一段と大きな歓声が響いた。窓際とは言え席についたまま見える景色は空ばかりで、窓枠に手をかけて立ち上がった。ガタリ、と思った以上に音が響いた。

窓から見渡せる広い敷地内。風に乗って運ばれてきた歓声は、方向的におそらくテニスコートだろうと予想された。きっと氷帝のキング…跡部くんがテニスコートを舞っているのだろうと、黄色い悲鳴にも似た声援の所為で容易に想像できた。一応クラスメートのはずだけれど、あまりにも自分と住む世界が違いすぎる彼とは、クラスメートとは名ばかりで正真正銘の他人である。学園一の大物であり、彼が最も輝くコートという名のステージで、何人もの強敵と対峙してきた彼にとっては、こうやって一人教室に居残りその上紙一枚ごときにも勝てない私は、とるに足らない存在なのだろう、なんて考えて、なおさら虚しい気分になった。

窓枠にかけた両腕に体重をかけてみた。肘を真っ直ぐに伸ばして肩から重みを乗せる。手のひらに食い込んだサッシが痛い。夏のにおいの混じる風が頬を撫でる。小鳥が二羽、その風に乗って横切っていった。つられるように身を乗り出して見上げた空が、広く思えた。視線を落とすと見慣れた中庭が一望でき、覗き込んだそこには誰の姿もなかった。

ふと真下に見えた真っ白なベンチが、机の上に放置してある真っ白な紙を彷彿とさせて気持ち悪くなってきた。小鳥が鳴いている。それを飲み込むようにひときわ大きな歓声が上がった。気持ち悪い、と思った瞬間、薄れる足元の感覚。あっ、と思った時には、ぐらりと視界が揺れていた。まるでこうなることをわかっていたかのように、私の両の瞼は静かに降りた。そして、脳裏に浮かぶのは気分の悪くなるような白色、耳に残るのは不特定の生徒たちの悲鳴、




遠いような近いところで、シャープペンシルが床を弾く音がした。




誰かが私を呼ぶ声に、突然、意識を引きずり出された。強い引力に反射的に開いた目に映ったのは橙に染まった空。

振り返ると、肩で息をする、学園のキングの姿があった。紛れもなく、私の左腕を掴んでいるその手は彼、跡部くんの右手で、驚いた私は、しかしどこか他人事のようにその手をじっと見つめた。足元でコロコロと転がっていたシャープペンシルは、上履きのつま先にぶつかり、最後に小さい音を立てて動きを止めた。

「…死ぬつもりなのか」

彼の声は今まで聞いたことのないくらいに焦燥し、掠れていた。掴まれた腕が熱い。窓から吹き込んだ生ぬるい風に髪が煽られる。アイスブルーが頼りなさげに揺れる。ただ、その色が、今までこの目に映してきたどの色よりも綺麗に思えた。
どうしてここに跡部くんが?疑問だけがぐるぐると肺の内側を燻って、結局言葉として吐き出されることはなかった。跡部くんとは特別仲がいいわけでもない、ただのクラスメイトであり、そもそもクラスメイトを自称すること自体がおこがましいような気がしてくるくらいに、彼とは住む世界が違うと勝手に線引きしていたくらいだ。
初めて近距離で見たアイスブルーに憑かれたように、開きかけた口は異様なほどに乾いていた。気管が吸い込んだ酸素に圧迫されて軋んだ気がした。

「…跡部くんの目には、この世界はどんな色に映ってる?」

何も考えずに飛び出した言葉はまるでただの電波のような台詞だった。質問に質問を返すなんて、会話のキャッチボールすらまともにできていない。けれど、今目の前で揺れるアイスブルーから、視線を剥がすことができなかった。この瞳から見える世界はどんな色をしているのだろうか。私みたいな平々凡々の一般生徒には見えない色が、跡部くんには見えているんだろうか。先ほど窓枠から覗き込んだ地上の色よりも、綺麗な世界が。

「…少なくとも」

掴まれた腕が熱い。徐々にその熱は私の指先へと移動して、いつの間にか絡め取られていた。未だに外すことのできない瞳はひどく冷たい色をしているはずなのに、相変わらず腕は熱いままだった。

「お前がいなくなれば、色なんて容易く消えるだろうな」

薄い唇に乗せられた台詞は、どこのフィクションのものだと笑い飛ばしたくなるくらい、ひどく滑稽なように思えた。氷帝のキングが聞いて呆れる。クサイ台詞。ああでもこんなこと、きっと跡部くんだからこそ言えるのだろう。よく考えたら私の電波みたいな質問にきちんと答えてくれる跡部くんは、やはり優しい。そうだ、私は知っている。人の上に立つことがさも当たり前みたいな、住む世界が違うなんて思っていた跡部くんが、本当はすごく優しい人だって。ずっと前から知っていた。

「だから、死ぬな」

風が止んだ。跡部くんの声だけが鼓膜を震わす。窓の外から風に乗って流れ込んできたはずの、生徒たちの喧騒も、黄色い歓声も、小鳥たちの声だって、いつの間にか何も聞こえなくなっていた。乾いた唇を、再び開く。跡部くんの最初の問いに対するそれはおそらく、まぎれもない私の中の本心だった。

「――私、死にたくないよ」

ぐらりと、再び視界が揺れた。まるで本来そうあるべきであったかのように。左手の熱がいつの間にか遠ざかり、そのことがひどく私を動揺させた。無意識に伸ばした指先は、何も掴めない。急速に遠ざかる感覚の中、アイスブルーの光だけが、最後まで燻っていた。




そして、世界は暗転した。





機械音が一定のリズムを刻む。その音が、暗闇の中から突然、私という意識を引きずり出した。随分と長い夢を見ていた気がする。浮上した勢いで、その夢の断片はあっという間に跡形もなく霧散してしまったけれど。ただ一つだけ、ひどく彩度の低い世界だったことだけが、ぼんやりと暗闇の中で思い出された。

目を開けなければ、と思った。ようやく、薄く開いた両目に映ったのは、頭に響く機械音のように、まるであたたかみのない白。気持ち悪さすら感じるその色がやたらと眩しく感じた。

ふと、左手に重なる温もりの存在に気づいて、重たい頭をゆっくりそちらに向ける。すると見開いたアイスブルーと視線が交わった。その瞳は焦燥と震撼と、そして、おそらく安堵が揺れていた。

整った顔が、ぐしゃりと歪んだ。薄い唇が開いて、私の名前を呼んだ。しかし、私は彼の名前を呼び返すことができなかった。口元を覆う呼吸器の所為ではない。私は、彼の名前がわからなかった。そのことがなんだかとても罪深いことのような気がして、何か言わなければと未だはっきりしない脳を働かせてみるものの、思わず飲み込んだ息がひゅうと喉を鳴らしただけだった。

「…死ぬなと、言っただろうが」

彼の声は、ひどく震えていて、それはおそらく彼らしからぬものなのだろうと思った。覚えていないはずなのに、まるで、ずっと前から彼のことを知っていたかのように、そう思った。

彼の言葉を受け無意識に開いた口から溢れた声は、あまりにも小さく掠れていて、響き渡る無機質な音に飲み込まれて、自分の耳にも微かにしか届かなかった。


――わたし、いきてる。


どこからか吹き込んだ風が、目の前の彼の髪を揺らした。天井も壁も、気持ち悪いくらいに真っ白なのに、彼の双眸だけは、綺麗だと思った。記憶にはないはずなのに、まるで最初から知っていたような、けれど初めて見つけたような、綺麗な色だと思った。…あの、彩度の低い夢の中ならば、もっと映えたに違いない。そんなことが思考をよぎる。
と、同時に私が目の前のこの人は、今の私が貴方の名前も何もわからないと告げたらどうするだろうかと思った。怒るだろうか、呆れるだろうか…そのどちらも予想できるようで、全く予想ができないことに行き着いた。それが何を意味するものなのか、私にはわからない。激昂するだろうか。諦めたようにため息をつくだろうか。それとも、

ぐしゃぐしゃに歪んだ、しかし端正な頬に、一筋の光が流れた。スッと細められた瞳で、彼は静かに微笑んでいた。焦燥と震撼を削ぎ落としたその瞳には、安堵と、おそらく慈愛に似た何かが映っていて、あまりにも綺麗な表情に、何かがドクリと大きく波打った。時が止まったかのようなその光景に、私は視線が外すことができなかった。
静かに持ち上げられた左手が、彼の大きな手に握り締められ、長い指が手のひらに食い込んで痛い。その痛みに一瞬だけ湧いた既視感は、浮遊した直後に沈んでいった。ただただ、彼の視線から外らすことができないでいた。ああ、どうして私は彼の名前を呼んであげることができないのだろう。どうして私の体は起き上がることすらできず、ただ真っ白い天井を見上げることしかできないのだろう。何に向けていいのかわからないもやもやを無理やり飲み込むと、どこかで何かが軋んだ気がした。


ぱたり。アイスブルーから溢れた雫が、私の左手に落ちる。



指先だけが、ひどく熱かった。




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