名前の瞳に映っているのが自分ではないことなど、とっくにわかっていた。

それでも追わずにはいられなかった。気づけば彼女の涙を拭うのは当たり前のようにこの手で、自分ではない誰かに胸を焦がす彼女を抱きとめるためにこの腕は存在していることもやはり当たり前だった。彼女が自分を見ることなどないことも、とっくにわかっていた。ごめんね、跡部。泣きはらした赤い目で彼女は今日も、この腕の中で笑う。かける言葉を探すことすら野暮な気がして、黙って頷く。俺にすればいい、なんて言えるわけがない。名前は静かに腕の中からすり抜ける。小さい体温が離れていく。それを引き止めることなんて、彼女がどこにも、あの男のところになど行かないように抱きしめてしまうことなど本当は容易い。それでもできない。臆病、なんて俺には一番相応しくない言葉。それでも彼女が関わればそれこそが俺に一番、お似合いの言葉だった。彼のところに行かなくちゃ。そう言う彼女の背中を押すのもこの手の役目だった。行かせたくない、いかないで欲しい、言葉にしてはいけない思いを殺して、早く行ってこいと発した声は震えていなかっただろうか。うまく言えただろうか。ありがとう、私、跡部のこと好きだよ。いつものようにナイフのような言葉で抉られ、それでも俺は笑顔でその背中を見送る。
叶うことのない、ボロボロにみすぼらしい恋心を胸に燻らせたまま、笑顔を貼り付けるたびに、また一つ傷が増え、ヒビが入る。いっそ叩き壊せたらどんなに楽だろうか。遠ざかる背中を見送り、廊下を鳴らす彼女の足音にそっと目を伏せる。無理やり飲み込んだそれは何も味がしないのに、ひどく重たく、そしてまた音なき音を立てて積み上がっていく。そう、どんなにあがいたところで、俺が彼女を好きで、また彼女があの男を好きであることは変わることのない事実なのだ。

そして俺はきっとまた、全てを押し殺して彼女の涙を拭うために笑うのだろう。




跡部が私のことを好いてくれていることは、結構前から気づいていた。

私が涙を流すたびにそれをぬぐい、落ち着くまで抱きしめてくれる腕の優しさの意味がわからないほど、私は子どものままでいたわけではない。狡猾だとなじられるだろうか。それとも彼は笑って許すのだろうか。私はそんな彼の優しさに付け入って甘えていただけだった。跡部に背を向けて走り出す。いつも私は彼に背を向けてから、振り返ったことなどなかった。その必要すら認識していなかった期間が長すぎたのだ。ふと足を止めて振り返る。不意打ちを食らった跡部が一瞬しまいそこねたその表情を私は初めて目にした。私にその資格はないけれど、泣きそうになった。跡部は歪めた顔をすぐにいつもの顔に戻して笑った。それはいつも私が見ている跡部のそれだった。本音を隠してでも優しい顔を向けてくれるほどに、私は跡部に愛されている。けれどきっと跡部は私がそれに気づくことを望んではいないのだろう。早く行け。動かした口元だけで読み取れてしまう彼の言葉。そうわかってしまうくらい私たちはずっと隣にいたのに、どうして彼を選ばなかったのかと訊ねられてもきっと私も跡部も納得する答えなんてどこにもない。どんなに言葉で縁っても、それは端からすぐにぼろぼろと崩れてしまうような、そういうものだと思う。
私があの人のことを好きになって、それでも私を諦めきることのできない跡部。ベクトルが向き合うことなんてあとにも先にもきっとない。けれど絡みきった私たちの間の糸が切れることはない、これから先ずっと。そう断言できてしまうくらい、私たちは一緒にいすぎた。私が跡部を選んでいれば、なんてたとえ話をしたところで、誰も救われない。ありえない話ほど、誰かを傷つけるものはないのだから。彼の瞳に向かって大げさなくらい大きく頷いて、私はまた走り出す。もう今度こそ振り返らない。

けれど私はきっとまた、気付かないふりをして彼の優しさに甘えるのだろう。




絡んだ糸は解けないままに

title by たとえば僕が


(2013/03/27)




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