キャンバスに塗りたくられたその色を見て、思わず眉をひそめた。イーゼルに立てかけられたそれの前に置かれた、絵の具が飛び散って汚れた椅子に腰掛ける名字はにこにことそんな俺の表情を眺めている。
この間言ってた絵、見に来ない?教室で丸井とどうでもいい話をしていたとき、唐突にやってきた彼女は今目の前で浮かべているような笑顔でそう誘ってきた。お前名字と仲良かったっけ?人の返事も聞かないまま去っていった名字の後ろ姿を見送るとすぐさま丸井が訊ねてきた。いや、と曖昧な返事をすれば丸井はなんだそれという顔を隠しもしなかった。実際、名字が来るまで、彼女とかかわったことなどすっかり忘れていたし、絵のことも彼女が去って間をあけてからようやくゆるゆると思い出したところだったというのに。
彼女が美術部に所属しているということはなんとなくは知っていた。仮にも同じクラスであるのだから、そのくらいの個人情報は何もしなくても耳に入る。ただ、3年に進級して初めて同じクラスになり、それでも席がとりわけ近くになるわけもなく、要するに特に関わるきっかけのないまま時は過ぎていって、いわゆる俺らの関係はクラスメイトという名前にとどまっていたはずだった。

「仁王くんの絵を描きたいの」

そう、彼女に声をかけられるまでは。
テニス部に対してそれなりの数の女子生徒があこがれの念もしくはそれ以上の何かを向けられているというのは自惚れでもなんでもなく自他共に認める事実として存在しているが、そういう思いを持った女子生徒にも俺はどちらかというと関わりにくい存在であるらしい。丸井みたいに食べ物をくれる女子ならほいほい笑顔を向ける奴みたいなのはよくそういう子らに囲まれていたりもするが。とにかく簡単にまとめれば用もなくというか仮に用があったとしても、ほいほい近づいてくる女子はそういないわけで、だから名字に唐突に話しかけられたときはつい一瞬気を抜いて素で驚いてしまった。

「…なんで俺なんじゃ」
「あ、別にモデルしてほしいから時間ちょうだいとかそういうのないから心配しないで」
「…」

面倒くさいという表情を露骨に出したためか、手をひらひらと振った彼女はその時も笑っていた。一応許可だけもらえればあとは勝手に描くから迷惑はかけない。そう言った彼女に、勝手にしろと言ったのは2週間ほど前の話だった。

そして絵を見に来ないかと誘われた今日、放課後。部活もちょうど休みだったため彼女が所属する美術部の部室にやってきたわけだ。彼女も返事を待たずに自分の席に戻ってしまったし別に来る義理も何もなかったのだけれど、気づいたら足が向かっていたことに理由をつけるならばいわゆる気まぐれというやつだ。人がいる気配があまりしない、美術室と書かれたプレートの下がる引き戸に手をかけると、ガラガラと思った以上に大きな音がした。入口に背を向けたキャンバスの向こうから顔をのぞかせた名字は少し驚いた顔をしてからすぐに破顔した。来てくれたんだね。そして手招きされるままにキャンバスの前に立った俺は思わず息を飲んだ。そして冒頭に戻る。

「…これは何ぜよ」

目の前に広げられていたそれは、黒。
キャンバス一面に塗りたくられたその色は、すべての光を吸収する黒、黒、黒。これが俺の絵?思わずつぶやいてしまった台詞。これは、何なんだ。

「私から見た仁王くんだよ」

未だに彼女は笑っている。部活用だろうか、腰に巻かれたエプロンには色とりどりの色が散っていてしかしその中には黒という色はあまりついていない。美術室全体を見渡してみる。歴代の部員がつけたのであろう、お世辞にも美術にはてんで興味のない自分には汚いとしか思えない色がところせましと散っている。もう一度キャンバスに視線を向ける。あきらかに異質だと思った。汚いくらいカラフルな室内に、真っ黒なキャンバスが一枚。戸惑っているんでしょ?その彼女の声にびくりと肩が揺れる。そんな様子を見て、彼女は笑顔を貼り付けたまま彼女は続けた。

「私が仁王くんを描こうと思ったのは、私が仁王くんを〈知らないから〉なんだ」
「知らない?」
「うん。仁王くんって、自分のことを隠すのがうまいよね」
「…そりゃ、」
「うん、知ってるよ。コート上のペテン師さん」

窓から吹き込む風がやけに生暖かい。なのに、ネクタイを緩めた首元をかすめたそれは背筋をすっと凍えさせた。奇妙すぎる感覚。

「私から見た仁王くんはとってもよくわからない。何を考えているのかわからない。自分を隠すのがとっても上手い人。だから私はまだ貴方の色を表に出すことはできないと思ったの」
「…まだ?」
「そう、まだ、ね」

聞き逃さないなんてさすがだね。嬉しそうに名字はさらに笑顔を濃くした。反面俺の顔は少し引きつっているのだろう。分かっていてもそれを隠す術を持ち合わせていない。目の前に広がる黒に、なぜか心がざわつく。異名の通り、自分を隠して相手を欺くことがなによりの存在意義であるのに、わからないと言われている通り、それが成功しているはずなのに、このどうしようもない焦燥感はなんなのだろう。
ふと、彼女が傍らに置かれた画材ケースから鈍色に光る何かを取り出した。

「…ねえ仁王くん。私は絵が完成したなんて、言ってないよ」

ガリッ

唐突に薙いだ右手に握られたパレットナイフ。音を立ててキャンバスをえぐったそれの痕には、一筋の青が覗いていた。突然のことに何も言えない俺に、名字は振り返るとまたにこりと微笑んだ。

「今日、私は仁王くんの新しい顔を知ったよ」
「…」
「君は自分を隠すのがうまいんじゃなくて、自分を知られるのが怖いんでしょ。少し話をしてみて、確信できた」
「…俺は、」
「それでもこの絵はまだまだ完成には程遠いんだよね。本当は私だけで完成させようと思っていたんだけど、やっぱり本人がいた方がちゃんと描けると思うの」

だからさ、

「この絵を完成させるの、手伝ってくれない?」

一筋覗いた青。気づいた時にはもう遅かったのかもしれない。この部屋に足を踏み入れてしまった時点で、勝敗なんて目に見えずとも明らかだ。目の前にいる少女と言葉の上で何かを賭けた記憶なんて当たり前だが何もない。それでも負けたと思った。
彼女の手には、先端に少しだけ黒がこびりついた鈍色の光。おそらくこの黒がすべて彼女の手によって切り払われる頃には、俺はすでに俺ではなくなっているのだろう。



(2013/03/18)




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