「名前」
ツ、と頬に触れた指先と背後から降りかかった自分の名前に、一瞬反応が遅れてしまったことが敗因だった。うまく撒いたと思っていたのに、どうやらそれは私の思い込みで、彼のいわゆるインサイトとかいうやつにはお見通しだったということらしい。完全に後ろを取られた私は気づけば抗う隙もないまま、頬に触れていた指先にあっという間に絡め取られてしまっていた。
「は、離して…」
「離したらまた逃げるんだろうお前は」
決して強く拘束されているわけではない。
しかし強ばった体は脳からの伝令をうまく実行することができずに、いわゆる背後から抱きかかえられた状態である。頬に触れていたはずの指先が静かに下りて、首筋を撫でる。思っていた以上に冷たいその感触に、意思とは関係なく肩が揺れた。
「ああ、お前は本当に抱き心地がいいな名前」
「ッ、やめ…」
触れる指先は冷たいのに、触れられた場所から火照ってきてしまう自分に冷や汗がにじむ。もう一方の腕を私のお腹周りに巻きつけ、いつの間にか顎は肩に乗せられていて、近距離で囁かれる吐息のような台詞に、ざわざわと背中を何かが駆ける。
「なんで、こんなことするの…ッ、いい加減、離し、てッ…!」
ようやく体の強張りに多少抗えるようになった腕を振り、拘束を解くことを試みる。部室裏の普段なら誰が通りかかることもない、けれどいつ誰が通るかもわからない暗がり。誰かに助けに入って欲しい反面、誰かに見られて変な誤解をされたら困る。反する思いがぐるぐると胸の中を引っ掻き回して、それをすべて振り払うように彼の腕の束縛から逃れようと必死にもがいた。
そんな私の抵抗も、無駄だというのだろうか。一瞬緩んだ腕にそれこそ一瞬安堵した次の瞬間には背後の温度が消えて代わりに無機質な冷たい壁に押しやられている。両手首を掴まれ、ギリッ、手の甲がコンクリートに押し付けられ、思わず痛いとこぼせば、目の前の整った顔が嬉しそうに笑った。
「…なんで、うちの学校まで、押しかけてくるわけ」
「アーン?お前に会いに来るために決まってるだろ。なのに俺様の顔を見た瞬間逃げ出しやがったのはどこのどいつだ」
そう、何故、氷帝学園のキングと呼ばれるこの人が、わざわざ青学まで押しかけてきてまで私に会いに来るのか。私の何がこの目の前の人の気に召してしまったのか。特別何をした覚えもなかった。ただ、青学テニス部のマネージャーである私が一度、氷帝との試合の時に、部長であるこの人…跡部景吾に出会った…それからだ。
そもそも、テニス部だけではない、この辺一帯では跡部景吾という人物は相当有名な存在で、名前も顔も知らずともその整った顔でふらっと歩いていれば相当目立つはずなのに、何故こうも易々とこの学校を闊歩していたのか、誰にも見つからずによくこんなところまで私を追って来れたものだとか、思うところはたくさんあるけれども、とにかくこの状況から逃れることを最優先に考えなければならないことはわかっている。
「逃げるに決まってるでしょ?!大体私はアンタのことなんか好きでもなんでもないって言ったじゃない…!」
「俺がお前を気に入ったんだ。その時点でお前は俺のものになる義務がある」
「人の話を聞いて!」
跡部景吾という人はどうも人の話を真面目に聞く気が毛頭ないらしい。睨みつけると、さらに両手首に込められた力が強くなる。痛みに顔を歪ませる私を見てか、跡部はまた嬉しそうに目を細めた。
しかし、ふとその表情が変わった。唐突に真剣味を帯びたその瞳に射すくめられ、私はまた動けなくなる。金縛りとはまた違う。覗き込まれたその視線から、逃れることができない。
「お前、手塚が好きなんだろ」
その言葉に疑問符はついていなかった。確信を持って発せられたその台詞に、おそらく私の両の目は大きく見開かれていることだろう。ずっと胸の内で、誰にも言わなかった恋心。何故それを悟られてしまったのか。悟られるほどに跡部と過ごした時間が長いわけでは決してない。なんで、どうして、声にならない言葉の代わりに自分が息を呑む音がやけに響いて聞こえた。
「俺様にわからないことなんて、あるわけねえだろ」
特にお前のことなんてな。そう囁くようにつぶやかれた言葉。
その時、じゃり、と近くから音がした。それはあきらかに誰かが砂を踏んだ音だった。ハッとして、近距離の視線から引っペがし、その背後を見やる。
そこにいたのは紛れもなく、私がずっと追いかけてきた青いジャージ…
「て……――ッ!」
思わずその名前を呼びかける、しかしそれは喉から反射的にこみ上げた声にならない悲鳴に上書きされた。私が視線を空したと同時に跡部が首筋に顔をうずめてきたことに気づくのが遅れた。コンクリートに押し付けられた手の痛みとは別種のその痛み。キツく、そして一瞬のうちに吸いつかれた首筋から跡部の顔が離れる。至近距離から薄い吐息がそこにかかり、ひやりとした感覚が生々しく、今起こっていることの現実味を無理やり私に知らしめているようだ。
動揺して動けないでいる私の耳元で、舐めるように低い声が囁いた。
「…言っただろ。俺様にわからないことなんて、あるわけがない」
跡部の肩ごしに見える手塚の姿は、こちらの姿を認識しているようには思えなかった。しかし、いつこちらに気づくかわからない。誰かにこの状況から助けて欲しいとは思った。けれど誰かに見られたらまずいとも思った。なのに、よりによってこの場に一番来て欲しくなかった人が、私の視界から見えるところにいる。焦りが私の唇を乾かしていく。そしてそこでハッと気づく。まさか、手塚が近くにいるってわかってて…
いつの間にか手首が開放されその代わり、ぐい、と再び顔に添えられた手によって半ば無理矢理に視線を合わせられる。先ほど以上に近い距離。もちろんその背後にいるはずの手塚の姿など、見えはしない。
「お前は俺だけを見ていればいい」
気づけば押し付けられていた唇。慌てて肩を押してみるものの動揺が優って力が入らない。おそらく力が入ったとしてもそれは目の前のこの男には無力も同然なのだろう。息の仕方を忘れ、無意識に緩んだ唇に捩じ込まれたそれに、なけなしの酸素の全てを奪われていく感覚。避けようにも、いつの間にか後頭部に回された手のひらによってそれは叶わない。押し戻すための両手はいつの間にか、崩れ落ちないようにしがみつくためのものになっていた。
「…ッ、はぁ」
ようやく唇が離れた時、私は情けないほどに息があがっていた。跡部の腕に支えられ、やっと立っていられる状況。その事に対して、あがりきった息では何も言うことができず、そもそも頭の中がぼんやりしていて有益な思考回路が正常に機能してはくれていなかった。跡部の見ただけでもわかるくらい濡れた唇。それを、つい先ほども見たような心底嬉しそうな笑みを乗せて開いた。
「お前は俺のものだ」
もう、手塚の姿はどこにも見えなかった。この光景を果たして彼が見たかどうか、私が知る術などない。しかし、彼が見たかどうかなど、それこそ今となっては関係のないことなのだ。それをこの目の前の男もわかっていたのだろう。なんせ、それすらを私をつなぎとめる鎖にしようとしているのだから。
何が、私の何がこの男の気に召したのかはわからない。私は跡部が好きではない。私が好きなのは手塚だ。だけど、
「俺のものだ」
ちろりと口の端から覗いた跡部の舌は、獲物を前にした動物のそれを彷彿とさせた。乾いていたはずの唇は、目の前のそれと同じように濡れているのかと思うと、絶望的な気分になった。
そんな私の顔を見て満足したように、跡部はもう一度唇を重ねてきた。抵抗なんて今更、非力な私にできはしない。
酸素がないなら奪えばいいtitle by 怪奇
(2013/03/13)