04. アバンチュールで終わらせて



 連れて行かれたのは河川敷だ。会場の範囲から外れてはいるが、河川敷は繋がっている。花火がよく見える位置からは離れているため、人がほとんどおらず街灯もあまりない。それでも、時間になって上がり始めた花火はここからでもじゅうぶん見えた。祭囃子も内臓に響いていたけれど、鳴り響く花火のそれとは比べものにならなかった。
 買ってくるものがあるから、キミはここにいなよ。ヒソカが言い残して、軽い足取りで去って行ったものだから、アリスはひとりヒソカを待っていた。
「ここでする気かしら……」
 まさかそんな。夏の火遊びとは言ったけどまさか野外で 汗だくなんだけど なんでもありな男だろうけど外で 確かに望んだけど! でも! と、とんでもない想像が膨らんでしまう。それは頭の中だけでなく顔にも出ており、まさに百面相で、ひとりごちらずにはいられない。どんどん上がっている花火を見る余裕もない。
 そしてふと、とんでもない想像とは裏腹に、ある思いが湧いてしまった。
 また来てくれなかったらどうしよう。
 だって、あのときだって来なかった。面倒なお願いを聞きたくなかったのかもしれない。いまも同じだ、自分のわがままだ。どうしようまた来てくれなかったら。そんなことになったら、あまりにも惨めじゃないか。
 遠くで花火の音がするけれど、辺りには誰もいなくて、ポツンとひとり待つには河川敷は静かで暗くて、ふつふつと溢れる不安に押しつぶされそうになってしまう。手を繋いで宥めてくれる人はいないのだ。
「キミはいろいろと顔に出過ぎだね
 不安が最高潮に達したとき、額にポスンと紙が当たる感触がして、アリスの視界が遮られた。
「置いて行かれたかと思った……」
 視界を遮っているものを避けたら、出店によくあるような、景品を入れるための大きめの紙袋だった。片手に紙袋もう片手に小さなバケツを持つヒソカがいた。夜空の大輪で照らされた前髪が揺れて、薄暗くてもとびきり綺麗な顔がよく見える。あの日もしヒソカが来ていたら、子どもの持つ小さな花火でも、こんなふうに綺麗なワンシーンが見えていたんだろうか。
「レディに恥をかかせる趣味はないんだけどな
「うそつき」
 来なかったじゃないか。幼い少女の誘いに来なかったじゃないか。
 もう少し待ってておくれよと、ヒソカはアリスから離れて川へと近づいていった。音もなく歩く背中をアリスは見送り、拳をきゅっと握る。あのときはその背中を引っ張った。ヒソカの広い背中に、華奢な少年の背中がぼんやり見えて、目の奥が熱くなってきては否応なしに自覚する。
 目の前にいるのは今のヒソカなのに、アリスに見えているのはかつての少年なのだと。
 あのときから、アリスの中にずっと消えてくれない幼き少女が居座っている。
 ねぇどうして? どうして来てくれなかったのヒソカくん。ずっとずっと待ってたのに。どうして来てくれなかったの。どうしてお別れも言ってくれなかったの。
 こんなにも時が流れて大人になったのに、心の一部にずっといる、時間が止まってしまった少女が胸の内で叫ぶのだ。それがどうにも恥ずかしくて、惨めでしかたがなかった。子どもじゃないもんと言い張ったあの頃も、もう大人なのだからと言い聞かせたときも、今このときも、アリスはずっと幼い少女のままだった。
「だいぶ待たせてしまったねぇ
 戻ってきたヒソカの手にはバケツがある。バケツの中には今しがた川で汲んできた水が入っていて、それを地面に置いたら紙袋から中身を取り出した。ガサガサと音を立てて出てきたそれは、縁日でよく売っている手持ち花火だ。
「これを買ってきたんだよ
 一体なんたる縁だろうかと、アリスは思う。カラッとした笑いすらも出てきそうだ。一体何年越しの花火だろうか。胸の内で幼き少女が喜んでいるのがわかる。一夏の思い出としては上出来じゃないか。これを前座に、この後ホテルに行って思い出を作ればいい。アリスが今日想定していたシチュエーションよりも、より一層完璧なシチュエーションのように思えた。
 さらに紙袋から取り出したライターで、ヒソカは二本の手持ち花火に火をつけ、一本をアリスへ手渡した。
 会話もなく隣り合って、何を言うわけでもなく二人でその場にしゃがむ。パチパチパチと音を立てて燃える花火は美しく、火薬の香りが鼻腔をくすぐった。遠くで光る花火よりも、うんと特別なものに感じるアリスがいる。
 渡された手持ち花火と、花火に薄ぼんやりと照らされたヒソカを見る。夏の夜の、じっとりした暑さなんて感じさせないくらい涼しげで、いつぞや見た水滴がかかった顔よりも随分と綺麗に見えた。
「この後はホテルにでも連れて行ってくれるの?」
「行かないよ
 飄々としたヒソカの即答に、アリスの気分がまたしても急降下する。行かないのか。待っている間は動揺してしまったが、まさかここでということではないだろう。ということは、そんな展開はなしだということだ。
 なんなんだろうかこの男は。
 今日一日で、随分と気持ちが振りまわされている。半分以上は、過去と現在を混同させて一人相撲をしている自身のせいなのだが、それでもやっぱり、思わせぶりな態度はよくないと思うのだ。そしてそんなことを思う自分がまた子どものようで情けなくて、なんと返事をしたらいいかわからなくなる。
 そんな想いを抱くアリスに、ヒソカは喉奥で笑いを噛み、空いている手をアリスの頭にポンと乗せた。その仕草は幼い子どもをあやすようで、よしよしとでも言っているようだった。
「そうだなぁ ボクなりの誠意だと思ってくれて構わないよ
 切れ長の目元がアリスを射抜き、まるでこれは決定事項だと嗜めているみたいだ。だけど次の瞬間に、ヒソカがほんの少し、ほんの少しだけ困ったように笑うから、アリスは頭が真っ白になった。

「アリスちゃんみたいなお子様には、この火遊びでじゅうぶんだ」

 本当に、なんなんだろうかこの男は。
 ずるい、ずるい、ヒソカはずるい。
 ヒソカくんは、ちょっと意地悪だ。
 時が止まったかと思った。時が巻き戻ったかと思った。
 ヒソカの声は低い声のままなのに、柔らかさは、声変わり前の少年みたいじゃないか。
 アリスは唇をキュウっと結び、手元のとうに消えた花火を見つめた。仮に火がついていても、目が霞んでよく見えないであろう、手持ち花火の先端を見た。瞬きをすれば一瞬は正常な視界に戻るけど、次々と視界を邪魔する液体がポタポタと地面に落ちた。
 ヒソカを見たくなかった。見られなかった。
 覚えていたのか。思い出したのか。大人になった今も、ヒソカにとってはお子様なのか。どれでもいい。どれでもよくない。だけどどれでもいい。今確かに、大人ではない幼き少女の頭を撫でられた。
 ポーンと、甲高いチャイムの音が離れた会場で鳴り響く。花火終了の合図が鳴ったのだ。
「ごめんよアリス
 女に恥をかかせたことへの謝罪なのか、あの日の幼き少女への謝罪なのか。頭上から聞こえる声は、もういつもと変わらない。 
 ヒソカと初めてした夏の火遊びは、淡い淡い、恋とも呼べない、小さな恋心の残滓が喜んで、幼きあの日へ終わりを告げた。


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