03. 大人になれないの



「さっきからじっと見つめてどうしたんだい?」
 私を置いて行ったあなたのことを、思い出していたの。
 なんて言っても、きっとこの男は、キミとボクに思い出なんてあったかな? とどこ吹く風なのだろう。嘯くわけでもなく、覚えていないのだろう。
 アリスはんーんと首を振り答えた。
「ヒソカはうるさいの嫌いそうなのに、よく来てくれたなぁと思って」
「こういうたくさん人が集まるところは嫌いじゃないんだよ
「そうなの?」
「ウン だって考えてごらんよ
 首を傾げるアリスにヒソカは身を屈め、口角の上がった薄い唇をアリスの耳に寄せた。
「これだけ人間がいたら、一人くらいボクの玩具がいるかもしれないじゃないか
 穏やかな口調とは打って変わった粘着質な声。ひそりと囁く声に背筋が震えたのは、生存本能だ。圧倒的力を持つこの男は、他者を玩具扱いする危険人物に他ならないのだと。思い出と共に彼を想う心に、本能が警告を浴びせてくることはこれまでに幾度となくあった。
 大人になったヒソカと再会し、ヒソカという男の危険さは知っている。強者との戦いを最も好むヒソカは、いつだって楽しませてくれる相手を探している。偶然再会したのだって、獲物探しをしていたヒソカが、情報屋であるアリスを訪ねてきたからだ。
「そんなに怖がるなよ 生憎とキミはちっとも美味しそうじゃない
 言うや否や、一瞬体を震わせたアリスの腰をヒソカはぐっと抱き寄せる。
「きゃっ」
「ぶつかるよ
「あ、ありがと」
「どういたしまして
 ヒソカに抱き寄せられる前にアリスがいた場所に、酔ってふらふらの男がひとり。依頼通りとはいえ、今しがた危険な発言をしたヒソカに我が身を守られる。そのちぐはぐさに混乱を起こしそうになる。夏の熱気が思考を邪魔して、まわされた腕に意識がいく。震えたはずの背筋は支えられ、距離の近さに胸の奥が燻ってくる。その熱に、アリスはふるりと首を振った。
 今日ヒソカを誘ったのは、断ち切りたかったからだ。
 初恋とも呼べないような、恋に恋した、幼き少女の思い出に区切りをつけたかった。
 偶然再会したとき、ヒソカが初対面のようにアリスに振る舞まったから、アリスはなにも言えずに初めましての体をとった。忘れられた落胆と寂しさとが相まった。だけどもう大人だったから割り切った。子どもの頃の、ほんのひとときの思い出なんて、些細なことだからと。それでも時々、割り切ったつもりの記憶がひょっこり顔を出す。その度に、大人だからと冷静な自分を装った。
 思い出の中にいる少年は、不思議な雰囲気を纏っていたけれど、目の前に現れた男の人は、面影を残したまま随分と危険な人へとなっていた。
 アリス自身、いまの仕事に就くまで、就いてからも、いわゆる『よくないこと』はしてきた。『よくないことをする人』とも関わってきた。生きていく上で必要だったから。だから『よくない人』になってしまったヒソカを責めることも、どうしてと疑問に思うこともない。アリスだって『よくない人』だから。
 けれども同じ『よくない人』同士であっても、ヒソカはこれ以上関わってはいけない人なのだとアリスはわかっている。
 そしてなによりも、アリスはヒソカの中で何者にもなれないのだ。
 アリスに、ヒソカの玩具箱に入れるほどの強さはなかった。ヒソカの青い果実になれるほどの伸び代もなかった。ヒソカが夢中になるようなものは、アリスはなにも持ってはいなかった。
 ヒソカという男は、幼い恋心の残滓に引っ張られて、人生を賭けていい相手ではなかった。思い出にすべき人なのだ。
 だから今日、アリスは思い出にするためにここに来た。
 もうアリスは大人だから。
 夏の夜、お祭り、花火、二人の男女。一夏の思い出にはもってこいのシチュエーションで、過去なんて話さず自分だけの心にそっとしまい込み、新たに上書きして綺麗さっぱり終えてしまいたかった。
「せっかくだし何か食べるかい?」
 そんなアリスの想いなんてつゆ知らず、ヒソカは優雅にエスコートを続けている。
 本当に覚えてもいなければ、なんとも思っていないんだろうな。そんな仄かな切なさを胸にして、己が腰に添えられた腕に今夜抱かれるのだと、アリスは決意を灯した。
「この人混みだ 買ってくるから待ってるといいよ
 一歩踏み出し前へ出たヒソカの背中を、アリスは掴む。ヒソカの背中を掴むのは何度目だろうかなんて、そんなくだらないことも頭をよぎる。「ヒソカがいい」と名を呼び、あなたが食べたいなと言葉を繋げてみせれば、振り返ったヒソカが目を見開いた。
 見開いた目でアリスをじっと見下ろし瞬きひとつ。けれどもすぐにいつもの三日月眼に戻っていった。
「……おやおや
「ヒソカ。私と夏の火遊びしようよ」
「しかたのないコだねぇ
 ポーンと、甲高いチャイムの音が会場に鳴り響く。夏の夜はこれからだ。


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