02. 小さく淡く痛く



 近所にある公園はそんなに広い公園ではなかったし、地域の子どもも少なく、たいした遊具もなかった。けれども公園の真ん中に鎮座する噴水は、アリスのお気に入りだった。緑で囲まれた公園の中央に位置する噴水から、水が噴き出し流れ落ちるさまが好きだった。特に真夏になれば、青空、太陽、公園の木々、それらを背景に水飛沫がキラキラ光っていて、暑い中でもそこだけは清涼感があるのだ。
 不規則のようで規則的に噴き出す水は、見ているだけでも面白い。噴水の中へと入って、全身で水を楽しむことも楽しかった記憶もある。噴水の中に入ってはいけないと言われてはいたものの、そこはやはり子どもというもので、こっそり入って遊んでは叱られたものだ。とくにこの頃のアリスはなんでも自分の好きに振る舞う節もあり、叱られてもなんのその、人目を盗んで入っては叱られてを繰り返していた。
 ただ、このときのアリスはそれ以上に楽しいことがあった。
「ヒソカくん!」
「やぁ
 噴水の淵に腰掛ける、アリスより少し年上に見える少年に駆け寄った。
 ヒソカは不思議な子だった。いつから町にいたのか、どこに住んでいるのかも知らない。たまに公園に現れてはトランプをいじっている。誰といるわけでもなく、近づいてきた人間と当たり障りなく話してまたひとり。とても綺麗な男の子だった。綺麗な男の子は他にもいるが、どうにも誘われるように目がいくのはヒソカだけだった。
 夏の日差しに照らされた噴水を背に、涼しげな横顔が端正で、彼の後ろで跳ねる水滴に色鮮やかな髪色が反射して見えた。晴れ渡る空、公園の緑、光る水、美しい少年。そのすべてがまるで完成された芸術品のようで、吸い込まれるように少年へと近づいたのはだいぶ前のことだ。
「今日もあついね!」
「アリスは今日も暑苦しいね
「セッキョクテキって言うんだよ!」
「ハイハイ
 アリスは人一人分の空間を空けて、ヒソカの隣に腰掛ける。水気を背負えば蒸し暑い炎天下でも随分と涼しくて、駆けて火照った体が冷まされていく。
 ヒソカの口から、ぷくりとガムの風船が出てきて引っ込んでを繰り返し、彼の目線はずっと手元のトランプにあった。
 テーブルなんてない、ただ膝の上と彼の手のひらの上で行われる動きは、アリスがこれまで見たこともないような動きばかりで、アリスはヒソカの手の動きに夢中になるのだ。
 ファン、リフル、ウォーターフォール。すべてあとで知ったシャッフル名称だが、トランプなんてカードゲームでしか使ったことのなかったアリスからすると、彼の動きはまるで魔法のようだった。細い指先が器用に動くのを、食い入るように目で追いかけて、いくつかのシャッフルを見た後にはいつも感極まっていた。
「やっぱりすっごいね!」
 子どもの甲高い声はよく響く。しかも興奮状態ならなおさらだ。人一人分は離れていたはずの空間は、いつの間にか身を乗り出して見つめていたアリスによってとっくに埋まっている。ヒソカの耳には、さぞかしキィンと反響したことだろう。
 ヒソカはアリスに目線をやった。彼の目線にはなんの感情も浮かんではいなかったが、にっこりと笑みを浮かべてアリスを見た。
 頬を紅潮させ興奮冷め止まぬアリスに対し、ヒソカはまたぷくりとガムの風船を膨らませ、再びアリスに見えるようにトランプデックを出す。アリスの目線がトランプへ逸れたことを確認したら、わざとらしく腕を曲げたり伸ばしたり。その度にアリスの目がキョロキョロと動くのを見て、喉の奥をククッと鳴らした。
「見過ぎだよ
「だ、だって……!」
 視線を誘導されたことに気づいたアリスは、カッと頬が熱くなった。すでに興奮によって熱くなっていた頬が別の意味で赤く染まり、もにょもにょと口の中で言い訳る。
「ほんとにすごいもん」
「それは光栄だね
 ヒソカは一定の笑みを浮かべたまま、ごそりとポケットに手を入れた。そして小さな包みを取り出し、手のひらの上に乗せてアリスへと差し出した。
「ガム、食べるかい?」
「食べたいけど、知らない人……から、食べ物もらっちゃいけないの……」
 アリスの声が尻すぼみになる。
 食べ物をもらってもよい『知っている人』というのは、アリスの親が知っている人でなければならないと、アリスは教え込まれていたからだ。この年頃の子どもならば当然のことだ。
 ヒソカと会ったときは、こうやって会話をして、遊んでもらってとしているが、親の教育はアリスの頭の片隅で生きていた。親に存在を話したことはあれど、会わせたことはないヒソカは、やはり『知らない人』に含まれてしまうのだろうかと、幼いながらの葛藤があった。同時に、親の教えとはいえど、遊んでくれるヒソカに対して、知らない人と言ってしまうこともつらかった。
「その知らない人に、今日までずっと話しかけたのはキミだと思うけど
「それはっ……そう、だけど……」
「アリスちゃんはボクの名前言えるかな? それともお子様には覚えられなかったかな
「ヒソカくんでしょ! いつも呼んでるじゃない! 子ども扱いしないで!」
 じゅうぶん子どもなのだが、揶揄いと見下しの含みを持たせ鼻で笑ったヒソカに、アリスは反射で言い返した。
 すると、ヒソカはニィっと口の端を吊り上げて言うのだ。
「知らない人じゃないだろ
 手のひらに乗せていた包みを開いて、取り出した中身をあっという間にアリスの口に突っ込む。
 口に物を入れられたアリスは、口を噤まざるを得ない。ガム特有のほのかな甘味が口に広がってくる。親の言いつけを破ってしまった罪悪感とともに恐る恐る噛めば、粘度のある塊が口の中で主張する。
「アリスに知らない人って言われて、繊細なボクの心は傷ついちゃった
「……絶対うそ。ヒソカくんはセンサイじゃない。センサイな人は、人に暑苦しいとか言わない」
「根にもってる
「根にもってない!」
 わざとらしく胸をおさえて『傷つきました』のポーズを取ったヒソカを、アリスは嘘つきとぼやく。ぼやいた心の裏で、無意識下で、どこかほっとした。知らない人じゃないと、ヒソカ言ってくれたことに安堵した。
「ま、アリスはお子様だからしかたないね
 ヒソカはクツクツと喉を揺らして笑い、ぷくりとガムを膨らます。そんなヒソカを見て、アリスは「お子様じゃないもん……」と頬を膨らませた。
 ヒソカくんは、ちょっと意地悪だ。
 アリスが懐いてからというもの、いつも適当にあしらわれ、構われ、揶揄われる。子ども扱いはいつものこと。してやられてばかりで、それゆえに、たまにはいいだろうとアリスは仕返した。
「えいっ」
 パシャリと背後の噴水から水を掬ってヒソカにかけた。子どもの手とはいえ両手で救った水はそこそこに量があって、見事にヒソカの綺麗な顔面を濡らす。膨らんでいたガムは水がかかる瞬間に引っ込んだ。
「ひどいじゃないか
「暑いからちょうどいいもん!」
 水をバシャバシャと勢いよくかけ続けるアリスに、ヒソカはなんの抵抗もしない。頭に、顔に、体にと、次々とかかって水浸しになり、光景は子ども同士の水遊びだ。冷たい水が体でぬるさをもって地面へと落ち、足元にぬるま湯が溜まったあたりでヒソカはゆらりと立ち上がる。
 ヒソカは、水をかけながらとうに立っていたアリスを見下ろした。そして、アリスの首根っこをむんずと掴む。
「お転婆さんだねぇ
「わわ!」
「暑いからちょうどいいね
 宙ぶらりになったアリスは噴水の中にポイッと投げ込まれ、バシャンと音を立てて噴水の水に浸かる。その姿は当然ながらヒソカ以上にびしょ濡れだ。噴水の中なので深くはないし、溺れることもない。ヒソカの投げ込み方が上手いのか、怪我なんてものもない。そしてこの年頃の子どもからすると、投げられるという行為はアトラクション的面白さもあるもので、なにより夏の炎天下、水遊びは楽しいのだ。
 アリスはキャッキャと声をあげて喜び、もう一回やって! と噴水から飛び出しヒソカにせがんだ。
「いやだね 着替えたいしボクはもう行くよ
 心なしか楽しげだったヒソカはびしょ濡れになった髪を掻き上げ、アリスへ背を向けた。
 そんな背を、もう行っちゃうの? と濡れた小さな手が掴む。
 寂しいじゃないか、もっと遊んでよと。
 アリスはヒソカと過ごす時間が好きだった。会えば構ってくれる歳上のおにいちゃんは、ちょっと意地悪だけれど、子どもの少ないこのあたりでは貴重な遊び相手で、会えば会うほど彼のことが知りたくなる不思議な男の子は、アリスにとって少し特別なのだ。
 どちらのものかわからない水滴がポタポタと二人の間に落ちて、やはり口を開くのはアリスだった。引き留めたさから、そういえば! と思いついたことを口をした。
「ヒソカくん! 今日花火しようよ!」
「花火?」
「この前ね、ママに買ってもらったの。だからね、ヒソカくんも一緒にやろう。夜にここに来てよ」
「キミみたいなお子様が夜に来るのは危ないんじゃないかい? 夜はキケンがいっぱいなんだよ
「お子さまじゃない! でもママと来るよ! ママもヒソカくんに会ってみたいって言ってたもん!」
「……ママねぇ
 アリスの唐突な花火の誘いに、ヒソカは切れ長の目元を一瞬キョトンと丸くしたものの、続く言葉にすぐにまたスゥッと細く戻す。髪から滴る水滴が太陽の光とヒソカの瞳に反射して光り、少しだけ鋭く見える。
 ふむ、と何かを考えているそぶりなヒソカがいるが、アリスはといえば、名案だとも言いたげな得意顔だった。
 ヒソカくんと花火ができる。もっと遊んでもらえる。ガムをもらったときの知らない人発言も、ママに会わせたらもう知らない人ではなくなる。
 そんな単純で安直な思いが、隠すこともなく表情に全面出ている。
 ママがいたら大丈夫。ママに会わせたら大丈夫。世の中を知らぬ少女の世界は狭く小さいもので、その狭さを知らぬは本人だけなのだ。
「ね! 暗くなってから! 夜の八時くらいがいいかな! 待ってるね!」
「するとは言ってないんだけど
 面倒くさそうに、ほんの少しだけ困ったかのように笑うヒソカがいるけれど、アリスの中ではもう決定事項だ。好きに振る舞うアリスの短所ともいえる。ヒソカの返事も待たずにアリスはぱっと手を離した。
 こうしちゃいられない。帰ってからママに言って用意をしないと。はやる気持ちは止まることを知らずに早口でヒソカを捲し立て、アリスは足早に公園を後にした。
 そうして夜となり、結論だけいえばヒソカは来なかった。夜八時。噴水の鎮座する公園。緑色の葉を揺らす木々がすっかり夜色に染まって、星がよく見えるその場所に、ヒソカはいなかった。そして次の日も、その次の日も、いつになっても。アリスが大人になって町を出るまで、ヒソカがアリスの前に姿を現すことはなかった。
 夜の公園でアリスは泣いた。わんわん泣いた。共に来た母親の手をぎゅっと繋いだ。ポタポタと落ちる涙は昼間に落ちた水とは全然違った。しょっぱくてぬるくて、だけどなによりも冷たかった。母親から、ヒソカくんは用事ができちゃったのかもよ、と宥められても泣いて泣いて、涙は止まることを知らなかった。
 かなしかった。つらかった。一方的に言ったけど来てくれると思った。世界は自分を中心にまわっていると、信じて疑わなかった。鬱陶しげにしながらも、なんだかんだと構ってくれたヒソカくんを信じていた。少しだけ歳上のおにいさんは、自分ほどじゃなくても、自分のことを好きでいてくれていると思っていた。一緒に過ごすのが楽しいのは自分だけじゃないと期待していた。
 すきだった。淡い淡い、まだ恋とも呼べない、自覚もない幼い心が痛かった。


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