01. アバンチュールを始めましょう



 腹に響く重低音。鼓膜を震わせるよりも早く、ズンと内臓に届く太鼓の音は力強い。甲高い笛の音は体に振動こそないものの、重低音にかき消されることなく、その旋律を轟かす。縁日でごった返した人々の喧騒の中では、聴いている人間がいるのかいないのか定かではないが、飲めや歌えやどんちゃん騒ぎな場では、ちょうどいい拍子になっている。
 アリスはじっとりと背中に浮かぶ汗を服の中で感じとり、ふぅとため息をひとつ吐いた。夜とはいえど、夏の、しかも祭囃子流れる会場では、熱気も孕んで暑さも一入だ。
 土手に出来上がった長蛇の列をゆっくり進み、人々の隙間から左右両端に立ち並ぶ出店を見る。ときおり見える出店と出店の境界からは、河川敷に座っている人々の影が見えた。
 いつから始まった祭りなのか歴史は知らないが、年に一度のこの夏祭りでは花火が上がる。会場付近から並ぶこの出店が目当ての者もいれば、花火が上がる二時間も前から河川敷で場所取りをするほど、花火を楽しみにしている者もいるらしい。
 この祭りにアリスが足を運んだのは初めてで、地域の人間がごった返しているとは聞いていたが、こんなにも多いとは思っていなかった。ヨークシンシティで行われるドリームオークションほどではないにしても、この辺りにこんなに人間がいたのかと思うほどだ。
「人が多いねぇ
 ガヤガヤとした雑踏の中でも聞き取りやすい、頭上から落ちてくる声はヒソカのものだ。アリス以上にこのような場所には到底縁のなさそうなヒソカだが、今日のヒソカは髪を下ろして奇抜なメイクもなく、白シャツに黒いパンツというラフなスタイルだった。
「お祭りだからね」
「キミの目線じゃ人の背中しか見えなさそうだ
 アリスより、というよりもほとんどの行き交う人々よりも、頭ひとつ分は高い位置に顔があるヒソカは目線が違う。人の背中しか見えていないアリスと違い、ヒソカには遠くまで見えていて、屋台の場所の把握も楽勝だ。アリスはたまに人とぶつかる肩が痛いけれど、大きな体躯の主であるヒソカの場合は、ぶつかった人間のほうが痛そうだった。
「ヒソカがいつものピエロメイクにスート衣装だったら、周りが避けて視界良好だっただろうな
「こっちを指定したのはアリスじゃないか
「そうだけど」
 ぶつくさと文句を垂れるアリスに対し、ヒソカは口の端だけでクッと笑う。メイクをしてなくとも標準装備な薄ら笑みは、夏の夜の暑さなんて感じさせないくらいには涼しげだ。
 付き添い兼ボディガード。情報屋であるアリスがヒソカに依頼した内容だ。祭りに紛れて調べたいことがあるからついてきてほしい。一般人に紛れるように、奇抜な格好はやめてねと。全くもって大嘘なのだが、アリスにはヒソカをデートに誘う口実が他に見つからなかったから仕方なかった。断られるかもしれないと思ったけれど、意外にも気が乗ったらしいヒソカが二つ返事で了承したので、祭りへやってきたというわけだ。
 アリスはどうしてもやりたいことがあったのだ。
 ポーンと、甲高いチャイムの音が会場に鳴り響く。二十時に花火が上がる今日は、一時間おきに時間を知らせるチャイムが会場で鳴るようになっていて、今のはちょうど十九時を知らせるチャイムだった。
 アリスがちらりとヒソカを見上げれば、うん? と言葉なく首を傾げられる。
 とびきりいい顔の造形だとしみじみ思う。けれどもいつ見ても胡散臭く見える男で、何を考えているかわからなくて、気まぐれで、嘘つきで。ぺらぺらの嘘で人を振り回すずるい男で。こんな男のどこがいいのかと自分でも思うアリスだが、やはり初恋というものは引き摺るものなのだ。
 ヒソカは過去を語らない。過去にあんまり興味がないからだ。たとえ今日この祭りで誰かを殺したとしても、その人間のことだって明日には忘れていることだろう。けれどもヒソカとて、彼の人生で関わった人間すべてをこの世から抹消しているわけではない。
 強者との戦闘をなによりも楽しみとしている彼は、その時点では強者ではなくとも、これから先が楽しみな者は生かしてきたし、逆に歯牙にもかけない者は相手にしなかった。その者たちは今も生きている。もっといえばヒソカが人間として生きている以上、人知れぬ山奥でインフラストラクチャーも使わず、衣食住の何から何まで完全自給生活でも営まない限りは、必ず人間と関わることになる。それくらい、社会は人で構成されている。
 つまり、今この世にごまんといる人間の中で、かつてヒソカと関わりを持ち、ヒソカの過去のワンシーンを知っている者はいるのだ。束の間の時間であっても共に過ごし、刹那を共有した人間。たとえヒソカが忘れてしまっても、ヒソカをしかと覚えている者は存在する。
 それが、アリスだ。
 アリスがヒソカと共に過ごしたのは、アリスが十歳かそこらの頃だっただろうか。


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