07. sincere岸京一郎幼馴染の所見



「ありすは僕しか好きになれないんだろ」

 薄暗い街灯から音がジジジっと音がした。昔聞いた蝉の音ではないけれど、蛍光灯が老朽化すると鳴る独特の音は少し虫の音に似ているかもしれない。そんなことがどこか冷静な頭の片隅に浮かんでは消えて、まるで現実逃避をしているみたいだ。
「なに……それ」
 唇が戦慄き手足が震える。感情が昂って視界が歪む。
 これは、怒りなのだと思う。先程まで怖くてたまらないと怯えていた心なんて飛んでいってしまうほどに腹の奥底からぐつぐつと燃えたぎる感情が渦巻き迫り上がってきて、ありすの口から爆発したかのように飛び出した。
「よくそんなことが言えるね!?」
 なんでなんでなんで。
 散々気づいていないふりをしたくせに、なぜ今になってそんなことを言うのか。それもこっぴどく振るわけでもなくただ現実を突きつけるとはどういうつもりなんだと。言われなくても己が一番わかっていると。
「僕もそう思うよ」
「だったらなんで!」
「でも、お前が言ったことだ」
 京一郎の記憶力をこんなにも憎く思ったことはなかった。『仮に誰かを好きになるとしてもけいくんしか好きになれないと思う!』確かに言った。自覚したあのときに滑らした言葉を忘れたことなどない。まるで呪縛のようにこの歳になるまでありすの心の中には京一郎しかいないのだから忘れることもできない。けれどもそれに続いた言葉も、同様に忘れてはいないのだ。
「お子様は相手にしないって言った!」
「ああ」
「だから! 私は他の人のこと好きになるんだもん!」
 ああいやだ。こんな泣き喚いて子どもみたいでみっともない。だからけいくんは私を相手にしてくれない。だから私じゃけいくんを支える存在にはなれない。
 怒りに任せて叫べば次に湧いてくるのは虚しさで、突きつけられた現実が痛くて悲しくてどうしようもなくて、ありすもう何を言えばいいかもわからなって俯いて歯を食いしばった。ボタボタと落ちる雫が地面に染みを作るけれど、霞む両目ではそれが幼き日に見えた思い出と重なりすらもしてまた涙が溢れた。こんなときまで出てくる思い出が辛い。あのときはありすの涙ではなかったけれど、似た光景なだけで思い起こされる記憶が憎い。それほどまでに積み重ねてきてしまった心が切ない。
 どれだけそうしていたのか。時間にして数秒だったのかもしれない。それとももっと長かったかもしれない。ふぅと、京一郎が息をついたのがわかってびくりと体が震えた
「子どもに見えないから困ってる」
 京一郎が屈んでありすの顔を覗き込む。伸びてきた大きな手が頬を包んだらかさついた親指が涙を拭って上を向かされて、ありすはそのまままっすぐに彼の顔を見つめる羽目になる。小突くわけでもなく触れてきた手のひらがあり得ないほどに優しい気がした。
「いま何歳よ」
 眉間に皺がよって、キリッとしているはずの眉が少し下がった京一郎が困ったように言うものだからありすは答えを口にした。京一郎より5つ下。けっして埋めることのできない差を持った年齢だけをぽつりと答えて、きゅっと唇を一文字に縛る。
「とっくにお子様じゃない」
 ジジジっと街灯の音がまた聞こえた。いつの間にか道ゆく人は誰一人いなくなり、駐車場へ続く道に二人っきりだ。夜の静けさの中に、まるでこの世で二人ぼっちになってしまったみたいだ。
 意味を噛み締めた。岸京一郎は嘘をつかないと、ありすは知っている。愚直なまでに誠実で、容赦がなくて、無駄なことは言わず、厳しくて優しいのが岸京一郎だ。それがわかるほどの年月を重ねてきたことは事実で、わかるからこそ噛み締めて噛み締めて辿り着く答えはひとつだ。何年越しの想いかなんてもうわからない。なぜだかわからないけれど報われたということを理解しても、だからこそありすは岸京一郎に幸せになってほしいと願うのだ。
「でも私じゃなんにもできない……っ」
 ボロボロと溢れる涙は止まることを知らずに流れ出て、だけどありすは必死に絞り出す。
「私じゃ岸せんせーのこと支えられないだもん!」
「……それやめてくんない?」
 ゴシゴシとありすの顔を擦り京一郎は言う。困ったような顔は今度は少し不機嫌だ。
「せんせーっての」

 僕は君の前で医者でいたことはないよ。

 途端、頭の中がクリアになった気がした。京一郎の言葉にずっとぐるぐると頭で回っていたものがストンと落ちたかのように落ち着いた。
 京一郎は一度たりともありすに医者として接したことなどなくて、理解を求めたことなどなくて、いつだってただの京一郎でしかなかった。
 勝手に仕事中の彼を見て彼に相応しい人を決めつけて、京一郎ではなく誰を見ていたんだろうか。
「仕事のことは君の心配するところじゃない」
 心配せずとも仲間はいると。君だって仕事を僕に支えてほしいとか思ってないだろと。
 人には理解できないことがあって当然で、それぞれの領分があるのが当たり前で。
 京一郎はそんなことをわかりきった上でありすに向けている。
「わかったならお見合いと婚活はやめとけ」
 こくこくと頷くありすの頬から手を離す。
 京一郎はありすの手を取って歩き始めた。
 手を取られて歩くのは初めだった。背中を追いかけるわけでも、合わせて隣を歩くわけでもない。こんな距離は初めてだった。繋がれた手に添って、導かれながら京一郎を見た。
 ずっとずっとずっと好きだった。
 ただの京一郎が好きだった。
 医者としての彼をすごいと思うし、支えたいと思う。だけど京一郎はそんなのいらないと。
 ただの京一郎は自分を望んでくれた。どうしてとかいつからとか聞きたいことはたくさんある。だけどいまはそんなことどうでもよかった。
 この温もりが信じられなくて、夢でも見ているんじゃないかと今一度確かめたい衝動に駆られて、出てきたのは仕返しのようなセリフだ。
「……私の頭エメンタールチーズだからちゃんと言ってくれなきゃわかんないよ」
「そんだけの記憶力があればわかってほしいもんだ」
 京一郎は眉間に皺を寄せてガシガシと頭を掻く。彼が眉間に皺を刻んだり頭を掻いたりするのはいろんな場合がある。
「週末帰るか」
「どこに?」
 面倒なとき、不機嫌なとき、困ったとき。
「……実家以外にどこがある」
「なんで?」
 そして、照れているときだ。

「オジョーサンを僕にクダサイってやつを、しなきゃならんでしょうよ」



(「ミダゾラム」ポルカさんへ
 Happy birthday!)


 - back -  
TOP
- ナノ -