04. sincere岸京一郎幼馴染の所見



 高校生のときに自覚した初恋は自覚した瞬間に散りさった。けれども自覚してしまった恋心は止まり方もわからずに、大人になればいいんだとありすは奮起したものだ。幸いにも京一郎はありすに対して“おにーちゃん”を崩すことはなかったから、これまで通り過ごすことができたのだ。
 進路はやはり変わらなかった。なりたいもので思い浮かぶものは他になくて、その道に進むことにして大学を選んだ。ありすが大学生になったとき、京一郎は医学部の6年生だったためにほとんど会えることもなく、それからも研修医2年、専攻医4年と忙しくあまり会えなかった。会えないのならばその間に大人になればいい。勉強に時間を割いて、自分を磨く努力をして、会えたときには目一杯背伸びして大人びていたつもりだったけれど、京一郎はいつまでもおにーちゃんであった。
 近所に住んでいたおにーちゃん。親同士が知り合いで、家族ぐるみの付き合いがあってと、それはそれは幼馴染としてありきたりの出会いだった。ありきたりの出会いから始まって、芽吹いた恋心はいま思えばなんてことはない刷り込みのようなものだったのかもしれない。
 だけど、大人になってからも崩れることも忘れ去ることもなく、積み重ねていった心は確かに恋だった。

 壮望会第一総合病院に併設されている店舗へ異動になったのは全くもって偶然だった。京一郎と勤務地が同じになることに心踊らなかったわけではないけれど、京一郎は公私混同はしない人間であったし、職場で会えずともいつでも会えるのだからと特段なんということもなかったというところだ。なによりいい大人なのだから職場にそんな浮ついた気持ちを持ち込んではならないとも思う。
 ありすが壮望会で岸の姿を見とめたのは、去年の秋口だっただろうか。喫煙所へ行くと少し肌寒くなってくる頃で、制服のエプロンの上からカーディガンを羽織って外に出るようになっていた。その日もカーディガンを羽織って休憩に入ろうとしていたら、店内から京一郎の声と店長の声が聞こえてきたのだ。
 職場が同じでもすれ違うこともないものだなとちょうど思っていたから、休憩前に顔だけだしてみようとカウンターから店内を覗き込む。
「こんなもん売らなきゃならん程経営難なの?」
「やめてよ人聞きの悪い!」
 店内には岸と店長と学生の女の子がいて、耳に入ってくる会話からありすは近づくことは思いとどまった。少女が患者の家族であることは明白で、患者がもう助かる可能性が低いんだということがわかって、それに岸が対応していることがわかったからだ。
 書店では、たまにこういったことがある。癌が治る方法が載っている本はどこだとか、テレビで紹介された治療の本はどこだとか。壮望会に来てからはその数は他店舗で問い合わせを受けた回数よりはるかに多くて、わずかな希望でもと縋って本を探す人をこれまでに何度も見てきた。病院併設の店舗に入荷される図書が他店舗と少し違うのは、医療現場で真に救いを求める人々へインチキ医療を提供なんてしてはならないからだ。
 ぐっと息が詰まる。この手の問い合わせのときは、いつだってそうだ。ありす自身大きな病気や怪我はしたことがなかったし、家族だって健在だ。彼らの胸のうちは想像するしかないのだけれど、想像するだけでどんなに苦しいだろうと思ってしまうのだ。
 そして、そのとき初めて、ありすは病理医岸京一郎をその目にした。
「その治療に効果はないよ」
「弁解はできない」
「力及びませんでした」
 真っ直ぐに、一切の目を離すことなく少女を見つめて言葉を紡ぎ、体の側面に両手を揃えて頭下げる。京一郎の仕事をありすは知らない。病理医という医者であるということしかありすにはわからない。けれども岸のその姿を見ているだけでどうにも胸が張り裂けそうだった。
 胸が痛くて、先ほど己の想像で息が詰まった時の比ではなくて、どうしようもない変えられない現実を突きつけられた気がする。言葉にならない感情が渦巻いて目頭が熱くなるものだから、彼らの会話は終わったようだったけれどこのままここにいてはまずいとそっと店内を後にした。
 外の冷たい風に当たってふぅと息をつく。熱くなった目元は落ち着いて、ありすはスマートフォン操作して画面を見つめた。
 病理医とは、生検や病理解剖などを行って病気の原因過程を診断する専門の医師。各診療科の医師は、病理医の鑑別をもとに、診断を確定させたり治療の効果をはかる。別名ドクターズドクター。臨床医の後ろ盾である。
 出てくるのは、そんな情報の羅列だ。京一郎が病理医という医者だと知ってから何度も見た文字列はもはや暗唱できる程に覚えていて、病理医ってどんな仕事? と問われたらあっさりと答えられることだろう。知識として概要は知っている。けれども辞書に載っている上っ面をなぞっているだけで、実態や実感としてはなにも理解していないのだと思う。
 あの腰折った背中にどれほどのものを背負っているかなんてありすには到底わからないのだ。
「遠いなぁ」
 ポケットからタバコを取り出し、火をつける。京一郎が吸っている銘柄と同じタバコは少し重くて、20歳になって初めて吸ったときに頭がクラクラしたことを思い出す。
 大人になりたかった、追いつきたかった、彼を理解したかった。
 百害あって一利なし、こんなものでも吸ってみたら大人なって追いつける気がした。歳の差はどうやっても埋められないけれど、近づけるものなら近づきたかった。
 何年経っても自分は追いつけないことを思えば、もう吸い慣れたはずのタバコが苦かった。


 その日の夜は新発売のカップ麺を持って京一郎の部屋を訪ねた。一緒に食べようよと誘えば京一郎は頷いてくれる。きっと、京一郎はわかっている。何年も抱き続けたあからさまな恋心を気付かない人ではない。だって、その証拠に子どもじゃなくなったいま好きの一言を言わせてはもらえたことはない。そんな雰囲気に、彼はさせない。
 今日はこんなことがあったとか、テレビで見たワイドショーの話とか。ほとんどありすばかりが喋っているが京一郎もたまに相槌はくれて、他愛もない話をして終わるだけの日常だ。そんな話をしていたらあっという間に食べ終わって、ありすは食べ終わった容器やカップを片付ける。幼馴染の境界はいつだって明確で、食べて片付けたら帰宅を促されるのだ。
「けいくん、片付け終わったから帰、」
 キッチンで軽く片付けて、リビングにいる京一郎に声をかけると京一郎はソファに座ったままうたた寝をしていた。普段、通常装備のように眉間に刻まれた皺は今だけは伸びていて、寝顔は案外あどけない。胸元で腕を組んで眠る彼の目元にあるうっすらとしたクマが見えて、ありすはそっと近づく。
 京一郎の足元に膝をつき、近くにあったブランケットをそっとかけて無防備な寝顔を見つめてみた。きりりとした眉、通った鼻筋、薄い唇。人生の半分以上の年月見てきて、今もなお好きだと思う。髪と同じ色の瞳は今は瞼によって閉じられていて、その奥にある意志の強い眼差しを思い出す。そして同時に、書店で見た彼を思い出したらなんだか胸の中がぎゅうっとして喉の奥がしょっぱくなる。
 書店で京一郎を見たことは彼には言わなかった。言えなかった。
 あれを見たときに思ったのだ
 なんて強い人なのだろうと。彼の強さは知っていたつもりだったけれど、強くて、愚直で、誠実で、だれよりも強く脆く見えてしまった。
 あのお辞儀は、己の不甲斐なさも、悔しさも足りないものも、その脆さすべてを隠そうともせずに曝け出した心からのものだ。あの肩と背中にどれほどの重圧を抱えているのかなんてわからない。わからないけれど考えずにはいらなくて、考えて考えて、ふと思ったのだ。
 彼の敵はきっとあらゆる病魔で、すべてに打ち勝つためには彼一人の人生一度では足りないほどに途方もない道のりで、それでも彼はその一度きりの人生で何かひとつを成そうとしているんじゃないかと。そう思えば、自然と湧き上がる思いがあった。

 彼と肩を並べて同じ方向を向いて、一緒に背負ってくれる人がいてほしい。

 そしてその役目は己では無理なのだ。
 医療のなんたるかも知らない人間では彼が背負うものを共に背負うなんてことはできないし、支えるなんて到底無理な話で、何かひとつでも京一郎に頼られた記憶すらない、いつまでも近所の歳下の子になにができるものかと。
 目の奥が熱くて下を向く。ぼたぼたと落ちる水滴がこれまで溜め込んできたものを捨てている気分になった。
「……なに泣いてるの」
 頭上からの声にビクッと体が揺れる。顔が上げられない。言えるわけがない。
『勝手に好きになって、まとわりついて、現実を知って静かに失恋しました。』陳腐でくだらない一人相撲だ。もっと言えば、とうに失恋していたのだ。告白もさせてくれないことをまだ好きでいられると思い込んでいたのだ。
 これ以上京一郎を自分の一人相撲に突き合わせてはならないと、ありすは俯いたまま口を開く。
「今日いろいろあって疲れちゃったのかも」
「さっきまで何も言ってなかっただろ」
「けいくんに言うことのほどでもないかなって」
「……言いたくないなら聞かないけどさぁ」
 ギシッとソファから立ち上がった京一郎はティッシュ箱を取ってきてありすの手元に置いた。
「お前に泣かれると困る」
 ありすの正面に屈み、箱から数枚ティッシュを取り出したらありすの顔にぐいっと押し付ける。面倒くさいに違いない。少しうたた寝していて目が覚めたらいきなり泣いている幼馴染がいるのだ。そうでなくとも泣いている女なんて彼にとっては面倒臭いはずで、それなのにこんなときでも正面から向き合う京一郎に涙腺は馬鹿になったかのように溢れ出て止まらない。
「けいくんはっ……優しいね」
 ズビズビになった鼻を啜って言っても返事はなく、ただコツンと頭を小さく小突かれる。全く痛くない拳はいつだったか落とされたゲンコツを思い出して、幼き日々が頭を駆け巡って、あの頃となにも変わらない手の優しさが痛くて、変えなきゃならない想いを否応なしに自覚した。
「私ねぇ……とあることから卒業したの」
 明日からは、ただの幼馴染。これまでもただの幼馴染だったけれどと思うと自嘲したくもなったけど、長い長い片思いはもうおしまいだ。
 大好きなおにーちゃんにさよならを。


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