03. sincere岸京一郎幼馴染の所見



 吐く息は白く、風が吹かぬとも服の織り目から感じる空気が冷たい頃、高校の制服を纏うありすはマフラーを巻く。大学生になった京一郎は家を出て、今では顔を合わすのは年に数回になっていた。それでもたまに帰ってきたときは母づてに京一郎の帰省を知り、ありすはるんるんと彼の家に行くのだ。
 このときはちょうど2月で、バレンタインにはまだ早いものの世間は少しずつイベントに浮き足だっていて、学校帰りに買い物をして京一郎の家に寄った。
「けーいーくーん!」
「家の前ででかい声出すな。インターフォンを知らないのか」
「インターフォンだとけいくん出てこないかもしれないじゃん」
 迎えてくれた京一郎にお邪魔しますと一言言って玄関に上がる。京一郎がいなくても母と来たことのある岸家は慣れたもので、おばさんは?と聞くと買い物に行ってると返ってくる。自室へ戻る京一郎の後を当たり前のようについていき、部屋に入ってあたりを見渡せば以前に比べて随分と部屋のものが減ったようにありすは思う。
 京一郎はベッドに腰掛け、ありすは机の上に広がっている参考書に目をやった。
「勉強してたの?」
「ああ」
「何書いてあるか全然わかんない」
「そりゃそうだろ」
 分厚いねぇとありすは参考書を手に取りぱらぱらとめくってみる。当たり前だがちんぷんかんぷんだ。医大生の参考書を読んで意味がわかるはずもない。己の持っている参考書とはだいぶ違うとありすは思う。高校生にもなれば進路の話が出てくるもので、最近ではいろんな大学を調べていたありすはふと京一郎へ言う。
「けいくんが将来お医者さんになったら、けいくんが欲しい医学書は私が用意したげるね」
「突拍子もないな」
「私ね、司書か書店員になろうと思ってさー」
 参考書を元の位置に戻して、机の前にある椅子にありすは座る。ギシリと椅子を軋ませて京一郎を見れば「へぇ」と相槌が返ってくる。
「進路か」
「なんとなくだけどねー。ほら、中学の時にけいくん待ってるときさ、私ずっと本読んでたじゃない? いろんな本見るの楽しいし、案内してくれた司書さんや書店員さんの仕事に興味出た感じというか」
 ぷらぷらと足を揺らして京一郎をじっと見る。なんだよと言いたげな京一郎と目があって、ありすはこてんと首を傾げた。
「けいくんはさ、なんでお医者さんになろうと思ったの?」
 周りにいる人々はどうやって将来を決めたのだろうか。進路という分かれ道を前にすると誰しもがぶち当たる壁に行き着いたとき、ありすはあやふやながらにこんな感じかなぁとなりたいものが出てきた。将来実際にその職種につけるかもわからないものが思い浮かんだだけで進路を決めていいものなのか。ふと、とっくに進路を決めて先を行く京一郎の話を聞きたくなった。こんな選び方でいいのか、間違いじゃないかと。
 京一郎は少し考える素振りをしてありすをじっと見る。高い鼻筋の両側にある鋭い瞳がありすを見つめきて、ありすはまるで自分の不安を見透かされた気分に陥った。
「さぁね」
「さぁねじゃなくて教えてよーう」
 返ってきたのは明確な答えではなくて、ありすは口を尖らせる。けいくんの意地悪、椅子を揺らしていじけると再び京一郎の唇が動いた。

「僕から聞いて安心しようとするなよ」

 瞬間、意志の強い目元がありすを射抜き、普段のやる気なさげな京一郎よりも少し強いトーンが耳を打つ。その声に、背筋が思わずしゃんとした。
「自分で考えて見つけないといけないことだ。ちゃんと悩んできちんと考えろ。僕に委ねるな」
「……はい」
 見透かされた心にピシャリと正論が放たれる。進路は人の答えを聞いて答え合わせをするものではない。自分の行く末なのだから、その責任は自分にあって、誰かに委ねていいものでもない。それなのに甘ったれた自分の問いを考えると、ありすは考えなしだった自分に反省した。
 しゅんとしたありすに京一郎は「あー」と頭を掻く。
「ちゃんと考えた上での相談ならいいよ」
 ベッドから立ち上がり、鋭かった目元を緩めた京一郎は項垂れたありすの頭をコツンと小突いた。まぁ頑張ってみなさいよと言う諭しにありすは素直に頷いた。
「うん。けいくんありがとう」
「いーえ。そういや何しにきたの」
「あ! そうだった!」
 打って変わって、ありすは顔を上げた。話題を変えたのは京一郎であるが、キリッとした空気が止んだ途端に現金なものだ。だがありすは、というよりこの年頃の少女のというものは案外こんなものなのだろう。参考書で進路に頭がいって忘れるところだったと鞄からゴソゴソと荷物を取りだした。
 学校帰りに購入した、バレンタインデーのチョコレートである。綺麗にラッピングされたそれを両手で持って、喜んでくれるかなどうかなと胸を高鳴らせた。
「はい! ちょっと早いけどバレンタ、」
「いらない」
 一刀両断だ。
 京一郎は心底面倒くさそうにありすをあしらい、再びベッドへ腰掛ける。それに対してありすはぷくりと頬を膨らませ、せっかく用意したのに!とむくれてしまう。
 いらないという京一郎はいつものように軽口で言うものだから、ありすも負けじと応戦を始める。
「せっかく用意したのに!」
「そういうイベントは他でやってろ」
「あげる人けいくんしかいないもん!」
 ありすに親しい男の子なんてとくにいなかった。この歳になればクラスの誰彼がかっこいいだとかそんな話はよく聞くけれど、ありすはそんなときいつも「けいくんのほうがかっこいいけどな」と内心思っていたくらいだ。世間がバレンタインと浮き足立っている中、あげる人といえばありすは京一郎しか思い浮かばなかったのだ。
 すると眉を下げて、少し困ったように京一郎が薄く笑う。

「……そのうちちゃんと好きな男ができるまでとっとけ」

 その言葉にドクンと心臓が脈打った気がした。
 好きな男と聞いて、心臓が跳ねた。だって、けいくんはいつだって好きだから。この好きはなんなのかなんて、あまり深く考えたことはなくて、ただ好きだから、世間が浮き足立つバレンタインに京一郎へチョコレートをあげたくなった。それだけだった。
 好きな男……とありすは京一郎を見つめた。幼き頃からよく見てきた人を、近所のおにーちゃんを。
 秀でた額、通った鼻筋。意志の強い切れ長の目元に、薄い唇。少し面長で固そうな頬、癖っ毛のある髪。細いけれどしっかりした体つき、自分を何度も小突いた大きな手。いつの間にか低くなった声はいつまでも厳しく優しい。
 目も前にいる人は近所のおにーちゃんだったけれど、もうずいぶんと前から、男の人だった。
 好きなんだと、思った。目の前の京一郎のことが好きなんだと。これまでずっと漠然として朧げであやふやでしかなかった心の形が姿を現して、ありすの心臓がうるさいほどに暴れ始めたのがわかって半ば叫ぶように口から吐いて出た。
「か、仮に誰かを好きになるとしてもけいくんしか好きになれないと思う!」
「……」
 部屋の空気が一瞬固まったのは気のせいじゃない。なんてことを口走ったのだとも思う。けれどもこんな感情は初めてで、それがうまくコントロールできるはずもない。あえて言うのであれば好きと言わずによかったとそこだけは安堵したのも束の間、ありすは目の前が真っ暗なった。

「だったら尚更いらないな。僕はお子様は相手にしない」

 容赦のない追撃はこれから先にまで釘を刺したのだから。


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