02. sincere岸京一郎幼馴染の所見



 京一郎はありすの初恋の男の子だ。
 近所に住んでいたおにーちゃん。ありきたりの出会いから始まって、淡い淡い恋心はずっと小さく積もっていったものだった

 通学路に面した公園は人々から親しまれているという表現がまさしく似合う公園だったように思う。そこかしこから楽しげな声が聞こえ、声の元を見守る人々がいて、木々が生い茂り、整理された花壇には色とりどりの花々が咲き誇っていた。屋根付きで一休みできるベンチと公衆トイレもあり、ブランコや滑り台に砂場まで揃っていた公園は開放感に溢れていた。
 小学生だったありすは夏休みの自由研究をしに図鑑を持って公園へ行った。植物の観察か虫の観察か、公園へ行けば何かしらがあるだろうと昼食を食べて家を出た日だ。その日は特段熱くて、雲ひとつない夏晴れで熱中症注意報が出ていた日で、帽子を忘れてしまったが少しくらいいいかとわざわざ家に戻ることはしなかった。日差しが強く、風もなく、たまに吹いても熱風でしかない。暑さのせいか人もいなくて、そんな中どの花にしようかなんの虫にしようかと公園内を彷徨い歩いていたときに地面に黒い点が連なっているのが見えた。
 蟻の行進だった。誰が落としのかもわからない飴玉に群がって巣穴へと続いていた。ちょうど夏休み前に理科の授業で昆虫の定義を習ったばかりだったので、蟻は昆虫……そんなことを思いながらもっとよく見たくてありすは図鑑を胸に抱えたままその場に蹲った。
 耳を劈きそうな蝉の鳴き声がそこらじゅうから降ってきて、太陽の光がジリジリと熱く首筋が痛かった。体を動かしているときにはわかりづらいものだが、ギラついた太陽に熱された小さな体はカッカと熱く全身の毛穴から汗が吹き出していて顳からたらりと顎先に伝う。
 蟻が巣穴に帰る、巣穴から飴に行く。その列をただぼんやりと眺めていたときだ。
「おい」
 照り返しの強い地面に正面から暗い影が映り、身を焦がすような光が遮られて一瞬の涼しさを感じた。そっと肩に手をかけられて、ありすは反射的に顔を上げる。途端にちょうど熱風が吹いて、俯いて落ちていたありすの髪がぶわりと舞った。
 中学の制服を着た京一郎が立っていた。癖毛で畝っているグレーがかった黒髪が熱い日差しに晒されて、毛先に光の反射がキラキラしていて、太陽を背に顔を覗き込んでくる京一郎がいた。
「大丈夫か?」
 汗をかいた京一郎は走ってきたのか少し息が上がっていて、どこか焦った表情でありすを見下ろしている。けれども京一郎が言った意味がわからなくて、京一郎が焦っている理由もわからなくて、だからなにを言えばいいかもわからなくて、ありすはただぱちくりと京一郎を見つめることしかできなかった。
 切れ長の目元は髪色と同じ。肩に置かれた手はありすよりも幾分か大きくて熱く、伸びた腕は細長くも成長期の少年らしさがある。日に焼けたのか少し赤い肌を見て痛そうだなとぼんやり考えていたら京一郎の唇がまた動く。
「大丈夫か?」
 先程と全く同じだった。そしてぶつぶつと口の中で「人を……」「救急車……」「日陰に……」なんて言っているのが聞こえてきたものだからありすはハッとして遮るように答えた。よくわからなかったけれど救急車という言葉から病人だと思われているということだけはわかったからだ。
「だいじょうぶ! アリ!」
「……?」
 咄嗟に出た勢いの良すぎる返答は勢いが良すぎて色々と混ざってしまって、一瞬驚いた京一郎は頭に?をつけて返してきた。二人の間には完全に疑問符が浮かんでおり、むしろ京一郎の方が困惑気味にも見えた。
「あ、アリがいて」
「……アリ?」
「うん」
 ほら、と足元の蟻の行列を指差す。京一郎はありすの指の先を見、それから一瞬の間をあけてふーっとゆっくりと息を吐き出してありすの正面に同じように身を屈めた。汗が浮かんでいた彼の額からポタリと一滴落ちて、地面に染みを作る。「アリを見てたの」とこぼすありすをじぃっと見つめ、切れていた息を整えながら京一郎は問う。
「……暑くないか」
「あつい」
「あー、頭痛かったり」
「いたくないよ」
「頭ぼーっとしたり」
「んーん」
「なら、いい」
 フルフルと首を振ったありすを確認したら、京一郎は学生服の胸元を掴んでパタパタと扇いだ。それからグッと膝を伸ばして立ち上がる。ありすはまた京一郎の影にすっぽりと入ってしまって、見上げた彼の背景が眩しくって目を細めてしまった。
「熱中症になるぞ」
 逆光で顔がよく見えない彼のぼそっと呟く声が耳に響く。声変わり前の少し高めの少年の声は大きな声というわけでもないのに、京一郎の落ち着いた話し方のせいかやけに聞き取りやすい。そこでようやくありすは心配されていたことに気づいた。今日は暑いから。熱中症注意報が出ていたから。ありすが蹲っていたから。
 公園の入り口から、ともすればもっと手前から走って駆けつけてくれたのだ。
「けいくんありがとー」
「ん……」
 へにゃりと笑ってるお礼を言うありすに京一郎はただじっとありすを見下ろして、まるで自らの影の中に小さな塊を閉じ込めているみたいだ。
 公園中から蝉の声がする。ミンミン、ジージー、夏の音が鼓膜に響いては反響する。呼吸をすれば鼻奥の粘膜が暑さを教えてくるし、太陽は目を瞑ってしまいそうなほどに光り輝いていて、空気に晒された手足はジリジリと焦げそうだ。
 五感はこんなにもすべて正常に機能しているはずなのに、目の前の京一郎との空間は、彼によって作られた小さな世界はそのすべてを置き去りにしたみたいに凪いでいた。



 公園の木々の葉っぱが黄色く変わる頃、焼け付くような日差しはどこへ行ってしまったのか肌を掠める風が涼しく爽やかになった。中学の制服に身を包んだありすはまだまだ子どもではあったが、成長期も相まって随分と女の子らしい姿になっていた。ひらりとしたスカートから伸びる脚を閉じてベンチに座ったら、カバンから取り出した図書館の本を開いて目を走らせる。この頃は学校帰りに公園のベンチで本を読むのが日課になっていた。本自体は家に帰って読めばいいのだが、それではダメなのだ。
「おい」
 高校から帰ってくる京一郎が、この道を通るから。本にかかる綺麗な夕日に正面からぬっと影が映ったらありすはパッと顔を上げる。
「けいくんおかえりー」
「おかえりー、じゃないんだよなぁ」
「だって今帰りじゃん」
「さっさと帰れって意味なんですが」
「待ってたんだよーう」
「待つなって言ってんだよ」
 高校の制服を見に纏った京一郎はガシガシと頭を掻く。呆れたため息をつき「いつも言ってんだろうよ……」とごちたら踵を返して歩き出す。ありすは本を閉じて、ゆっくり進む背中を追いかけるのが習慣になっていた。
 西日が京一郎の横顔を照らしていて、変わらずの癖毛がオレンジに透けて見えるのが好きだった。
「君の頭はエメンタールチーズだな」
「エメ……? ……スカスカってこと!?」
「それがすぐわかるくらいの頭を持ってるならもう少しべつのところに頭を使ってくれませんかね」
 追いついてきて隣を歩くありすをジロリと見つめる切れ長の目元は厳しい半分呆れ半分だ。呆れというよりも諦めに見えるのは、ありすが歩幅を大きくしなくても隣を歩けるからだろうか。ゆったりと歩いているだけなのに体が温まってくるのは、まだ秋口で本格的に涼しくなったからではないからだろうか。
「心配するだろ、おばさんが」
「金曜日だけだもん」
「僕だって毎週早いわけじゃない」
 近所のおにーちゃんに懐いたまま成長したありすはことあるごとに京一郎にまとわりついた。来る日も来る日も京一郎を見つけてはまとわりついて構ってもらう。実際のところたいして構ってくれたわけではないのだろうが、元来面倒くさがりな京一郎はされるがままで、それを構ってもらえていると喜んでいた。
「でもそんなこと言っていつも公園の中に入ってきてくれるよね! いたっ、」
 ごつんと頭にゲンコツひとつ。何度も落とされたことのあるそれはたいして痛くないけれど、つい痛いと言ってしまうありすがいた。
「じゃないといつまでもいるからだ。近所で誘拐事件なんてあったらたまったもんじゃない」
 ぶつくさと言う京一郎に、ありすはへにゃりと笑う。京一郎に甘えている自覚はあった。口は悪いし、なんなら凶悪顔だし、いつだってぶっきらぼうだけれど、彼の根底にあるのは優しさなのを知っているからだ。
「ふふ! けいくんありがと!」
 無愛想で、口を開けば皮肉が飛んできて、だけど自分に甘い京一郎。夕日に照らされた帰り道のこの時間がずっと続けばいいと思った。


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