01. sincere岸京一郎幼馴染の所見



 春の匂いとタバコの匂いが混ざり合う。どこか上品で甘く爽やかな花の香りが風に乗って運ばれてきて、ありすの鼻先をやさしく撫ぜた。スンと鼻を鳴らしたところでなんの花の香りなのかもどこからやってきた香りなのかもわからないが、心地のいい春の匂いとは違ってタバコの匂いは明確に出どころがわかる。ありす自身の手元と、隣にいるスーツ姿の京一郎からだ。
 壮望会第一総合病院に喫煙所は存在しないものの、喫煙所のような場所はある。敷地内全面禁煙となった近年の病院ではよくある光景だ。病院職員に喫煙者というものはわりといるもので、そんな彼らが携帯灰皿を片手に一服する場所だった。大抵の病院では職員専用出入口の付近や職員駐車場の近くだったりと、つまりは施設関係者以外は立ち入らず人目につかない所にそれはある。壮望会では自販機とベンチがポツンとある職員専用出入口前がその役目を担っていた。
 建物と建物に挟まれた狭い通路の先に見えるのはまるで目隠しのように生えた木で、ベンチから木の向こう側は見えやしない。ありすは風に合わせて揺れていた枝葉を眺め、風が運んでくる香りにあの樹木の香りも混ざっているのかもなんてことをぼんやり思った。

 ありすがいつもより少し遅い時間にとった昼休憩だった。簡単に昼食を済ませ、食後の一服として足を運んでベンチに腰掛けていたら扉が開いた。ガチャリとドアノブが回る音とギィィと蝶番が軋んだ音がして、この時間は他に人が来ると知ることになった。
 まさかそれが、院内での有名人岸京一郎とは思わなかったが。
「お邪魔してます」
 煙を吐き出したありすの挨拶で先客に気づいた岸は軽く会釈しつつベンチに目線をやった。グレーがかった鋭き瞳にありすを映すと切長だった目元を大きく見開く。
 まるで信じられないものを見たかのように、ともすれば彼にしては珍しくも焦りを携えた顔だった。
「……」
 視界を正すようにぱちくりと瞬きをして凝視した後、瞳と同じ色の癖っ毛が生えた頭をガシガシと掻いた。薄く開いた口からは「はぁぁ」とあからさまなため息が聞こえてくる。
 ベンチが軋みそうな勢いでどかっと座り足を組む。揺れが隣のありすにも伝わって、ありすの指先に挟まれたタバコの先端から灰が落ちた。
「あ」
 ありすは制服である青いエプロンの上に落ちた灰を手でサッと払う。火種は落ちていないため燃えてはいないが、払って擦れた部分がほんのりと白くなった。
「……スミマセン」
 エプロンをちらと見た岸はぽつりと言う。彼の眉間には深く皺が刻まれおり、不機嫌よろしくタバコに火をつけた。口の中に煙を含み空気と共に肺へ送って吐き出す。深呼吸にも似た呼吸の深さは喫煙者を落ち着かせるものがある。
 ひとくち、ふたくち。ベンチに座る二人の口から出るのは白い煙だけで会話はない。その無言の空間を破ったのは京一郎だった。
「聞いてない」
「言ってないもーん」
 他人行儀に挨拶をした先程までの雰囲気を一変してありすはケラケラと笑った。吸い終わった1本を携帯灰皿に押し付けたら、悪戯が成功した子どものようににんまりと京一郎を見る。目線を受けた京一郎は「はぁ」と再びため息を寄越した。
「ね、驚いた?」
「……それなりに」
「転勤だよーう」
 ほら、とありすはエプロンにつけているネームプレートを京一郎へ見せた。
【そら書店 椀田】
 壮望会第一総合病院には書店が併設されている。大きな病院には売店のほかに書店やカフェ等が併設されることもあり、壮望会には全国に店舗を持っているそら書店が入っていた。書籍や雑誌、コミック、児童書など多岐にわたって取り揃えられているため一般の人々も多く利用する。定期購読の申し込みや取り寄せ対応もできるため入院患者からの評価も高い。そして実験プロトコルの手引書など医学専門書も取り扱っている上に注文受付にも対応しているので、病院職員で公私共に利用する者も少なくはなかった。
 一般的に書店は正規職員よりバイトスタッフで回されることも多いが、各店舗に正規職員は数名配属されている。そら書店は店舗間でそれほど転勤がある企業でもないが、人員補充などからやむを得ない転勤等はある。そしてまさしく人員補充で異動してきたのがありすだ。
 しかしいくら併設されている施設とは言っても、一介の書店員が補充されたところで病院職員たちに通達されることもない。もし補充を知ることがあるならば書店に立ち寄った際だろう。
 そんなことはありすも京一郎もわかっていることで、それでも京一郎が聞いてないと言うには理由がある。
「サプライズ成功!」
 ありすは岸京一郎の幼馴染にあたる。京一郎は「ただの腐れ縁」と言ってはいるが、5つ年下のありすを子どもの頃から知っている仲なのは事実だった。
「サプライズにする意味がわからない」
 むすりとした表情を隠そうともしない京一郎は呆れた物言いだ。
「偶然会ったら面白いかなって」
「偶然もなにも、職場もマンションも同じならすぐわかったことだろ。たまに飯だって一緒に食ってる」
 子どもの頃、ありすと京一郎は家が近所だった。親同士が知り合いで、家族ぐるみの付き合いがあってと、ありすと京一郎の出会いはそれはそれは幼馴染としてありきたりの出会いだ。ありすは子どもの頃から、大学生になっても京一郎に懐いてまとわりついていたのをしかと覚えている。その都度年下の女子の相手なんて面倒臭いと言わんばかりの京一郎に適当にいなされていた。
 京一郎が大学生になって家を出てから会う回数はグッと減ったものの、それでも顔を合わせればありすは京一郎に寄っていった。
 ありすが京一郎の住むマンションに引っ越したのは、彼女が社会人になってからだ。一人っ子であったありすは両親から可愛がられていたし、若干の過保護もあって大学までは実家にいたのだ。つまるところ京一郎の家ともそれまで交流が続いてあって、就職して家を出る際にどこに引っ越すかという話で職場の近くを探していたら京一郎の母から打診があった。京一郎と一緒のマンションにすればいいじゃないかと。京一郎のマンションは確かにまだ入居者を募集していたし、ありすの以前の職場に近かった。京一郎に伝えた頃にはほぼ決まっていたかのようなもので、元来面倒くさがりな京一郎は拒否するのも面倒だったのだと思う。京一郎の母と、ありすの母と、ありす。女3人集まれば姦しいとはこのことで、この3人が結託したのならば何を言っても無駄なのだと京一郎はこれまでの経験からよく知っていたのだろう。あれよあれよいう間に引っ越しが完了して、それからはたまに一緒に夕食を食べたりしていた。
 だから、京一郎の言わんとすることもよくわかる。
「でもけいくん1年気づかなかったじゃん」
 ポカンと、京一郎の口が開く。眉間の皺が薄くなった彼からは「はぁ?」と声が聞こえてきそうだ。今度は京一郎のタバコの灰が落ちた。
「……1年?」
「異動して来たの去年だもん。休憩時間にここに来るのも1年経つよ」
 一箇所しか喫煙所ないのに案外すれ違わないものだねとありすは続けた。
 この場所はありすが異動してきたばかりの頃に書店を訪れた医者に教えてもらったのだ。ちょっとした雑談から喫煙者だということを認知し合い、案内してくれた。ここを使っている人はほとんど医者や看護師、稀に入院患者だけれど、同じ施設職員なのだから問題ないと。実際に他の医者や看護師に何度か遭遇したこともあるが、何か言われたこともない。むしろ喫煙者同士は喫煙所がない辛さを知っているために妙な連帯感があるのか、挨拶以外の会話こそほぼないものの互いにベンチを譲ったりライターを貸したりとわりとこの空間に溶け込んでいた。
 今日も普段と同じ時間に休憩とってたら会わなかったかもとありすは朗らかに笑う。春は異動の季節だ。おそらく京一郎はありすがつい最近壮望会にやってきたと思ったことだろう。
「最初はすぐ言おうと思ったんだよ? でも忙しくてなかなか言う機会もなかったし、機会ある頃にはべつにいま言わなくてもいいかなってなっちゃって……病院で会うこともなかったから」
「見つからないことが楽しくなって今日まで黙ってたんだろうよ」
「ピンポーン!」
 楽しげに笑うありすを横目に「僕には理解し難いな」と京一郎は短くなったタバコを携帯灰皿に押し付ける。
「ま、遭遇したところで僕は他人ですが」
「わかってるよー」
 遭遇しても他人。わざわざ聞くまでもなくありすは想像がついていた。ありすは幼馴染である京一郎のことはそれなりに知っているつもりだが、医者である岸のことはなにひとつとして知らなかった。
 そんな彼の名を、岸京一郎の名を壮望会へ異動してきてからありすが耳にしたことは一度や二度ではない。
 書店や喫煙所を訪れた医者たちの会話から彼の名前はよく聞いた。医者である彼らには守秘義務があるため、書店を訪れたときも喫煙所にありすがやってきたときも患者の話はしない。しているところにありすが現れればピタリと止んで他の話へ移行する。
 たまに己の存在が会話を中断させてしまうことを申し訳なく思うこともあったし、実際にすぐ退散しようとしたこともある。しかし彼らは本来この場でする話ではないから気にしなくていいとありすへ告げた。それゆえに下手に退散すると逆に彼らに気を使わせてしまうと判断したありすは遭遇したときは何食わぬ顔で一本吸ったら退散するようにしていたのだ。それでもやはり気は使ってしまうものでなるべく遭遇しない時間を選んではいたが。
 気をつけていても休憩時間はまばらなため会うこともある。そんなときの彼らの会話から何度岸京一郎の名を聞いたことか。耳をそばだてているわけではなかったし、むしろ聞かないようにと思ってはいたが聞こえてくるものは聞こえてくる。妖怪カンファ荒らしだとか傲岸不遜のトラブルメーカーだとか、けれども誰しもが岸京一郎を認めているだとか。
 今回の会話は岸の方から幼馴染として話しかけてきたのでノーカンだが、よくも悪くも耳にする京一郎の名にありすはもし遭遇しても話しかけてはならないと思っていた。
「私そろそろ仕事に戻るねー」
 けいくんは厳しい。けいくん自身にも他人にも。だけど幼い頃から知っている自分にはほんの少しだけ甘い。
 ありすが京一郎に対して思っていることだ。そんな人の弱みになるようなことは、あってはならない。
 ベンチから立ち上がって伸びをする。両腕をグッと万歳するかのように上げて、京一郎の前を通って自販機の前に立つ。ポケットから小銭入れを取り出し、小銭を自販機へ。ボタンを押して取出口から2本取り出した。1本はブラックコーヒー、もう1本はミルクティー。ありすは新しいタバコに火をつけていた京一郎へブラックコーヒーを差し出した。
 タバコを持つ手とは逆の手で「ドウモ」と受け取る京一郎へニカっと笑い、ありすは今ならいいだろうと言ってみたかった台詞を口にしてみた。
「お疲れ様です、岸先生!」
 刻まれる眉間の皺と吐き出される煙を背に立ち去ると春風が吹く。やわらかな花の香りよりも自分と同じ銘柄のタバコの匂いが鼻先を掠めていた。


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