04. 大嫌いのその先に
晴天の霹靂、寝耳に水、そんな言葉が脳裏を過ぎた。冷え切った冬の空気は無慈悲に肌の露出した部位を突き刺しては流れ、刺された部分は少しだけ朱に染まる。鼻と頬がほんの少しだけ赤くなったイルミを見上げれば、彼はジィッとアリスを見下ろした。
聞いたんじゃないの? とただ一言を向けられて思い返すのは昨夜の出来事。聞いた。確かに両親からイルミの婚約者が決まったと両の耳でしかと聞いた。
だが聞いたのはそこまでだ。
「……婚約者が決まったとは……聞いた」
「どうせ途中で聞くのやめたんだろ」
はぁーっと長めのため息をこぼしたイルミは一房落ちていた髪をかき上げる。それはもう鬱陶しそうにかき上げて、黒曜石の瞳が瞬きをひとつして、彼はまた真っ直ぐにアリス向き直り口を開いた。
「オレの婚約者はアリスだよ」
しっかりと、今度は名前で告げられた。アリスの名前だった。呼ばれ慣れた聞き慣れた己の名前だった。
幾度となく彼に呼ばれてきた自分の名前のはずなのに、まるで初めてイルミに名を呼ばれた気になった。それが痛かった。先程、心臓に針が刺さったかと思ったときよりも痛くて熱かった。肺に流れ込む全身を締め付けるような冷たい空気とは別に、温かさを帯びた何かが胸の奥にじわじわと入ってきた。
「アリスはオレのこと嫌いでしょ」
「うん」
そうだ、嫌いだ。
「オレといるとどうしていいかわからなくなるから嫌いなんでしょ」
「……うん」
その通りだ。
「暗殺者としてあるまじき気分になるから嫌いなんでしょ」
「……そうだよ」
イルミは告げる、淡々と事実を述べる。いつだってそうだった。
そうだよ、だからイルミが嫌いなんだ。暗殺者の妻となるべく育った己が揺るがされるから。彼が求める婚約者の条件から外れるから。子どものころはよくわからなかった気持ちは、大きくなるにつれて理解を深めてしまったから。
ひたむきに努力するイルミが愛しいだなんて、他人に思ってはいけないことを思ってしまうから。
そんなことを認めるわけにはいかないのだ。天下の暗殺一家ゾルディックに嫁ぐには、優秀であるためには持ってはならないはずのものなのだから。
そんなものを持たせるイルミが嫌いでたまらなかった。イルミと結婚すると宣言したあの日から、アリスの『嫌い』は加速度を増しては心を蝕んだ。
嫌い、嫌い、大嫌い。
イルミにふさわしくいさせてくれないイルミが嫌い。
だからアリス自身が婚約者になりたかった。
「うん、だからお前がオレの婚約者なんだよ」
家族になれば全部解決するからねとイルミは続けた。
「それに、アリスが最初に言ったんだろ。“オレの”嫁になるって」
その言葉は反則だ。
もう、無理だった。
どれだけ染みついた口の形を作っても、喉奥のしょっぱさはなくならなくて眼球の奥は熱くて鼻の奥がツンとした。溢れた。8歳以降流さなかったものが12年ぶりに決壊した。
伝わっていたのだ。
あの日イルミはアリスに言った。樹海の中で切り株に腰掛けて「弟が生まれたよ、オレは後継にはならない」と。
それがどうにも歯痒かった。能面の涼しげな横顔が、握りしめた拳が目から離れなかった。アリスは彼が後継だと思い込んでいた。
だってそうだろう。ずっと、ずっと見てきたのだ。イルミが文字通り血反吐を吐いて努力する姿を。これじゃ足りないと、常に高みを目指して不要なものは切り捨ててただ一点を見つめる彼を。
その横顔をただひたすらに見続けてきたのだ。
彼の努力を、矜持を、誇りを思えば幼いながらも涙が止まらなかった。だから叫んだ。ゾルディックの嫁となるべく生きてきた我が身を震わせ、目の前の大嫌いな男に幼き誓いを立てた。
イルミは心がないわけじゃない。彼はプロだ。一流の暗殺者になるべく肉体を心を鍛え上げていったのだ。感情は押し殺せ切り捨てろ必要ない。それを言えるのは、それができるのは、感情というものがどう湧き上がりどう動きどう作用するかを知っていたからだ。
ゆえに、きちんと真っ直ぐに、歪むことなく彼の心に届いていた伝わっていた。
“ゾルディックの”嫁となるべく育ってきたアリスが、それ以外に価値がないアリスが、“ゾルディック”ではなく“イルミ”を見ていると。
幼きあの日に涙ながら訴えた一言を、イルミは受け取ってくれていた。脈絡のないあの発言を、ともすれば子どもの戯言だと切り捨てるような台詞を、彼は今日という日まで覚えてくれていた。
「泣き虫はオレの嫁になれないよ」
でも今日は見なかったことにしてあげるよ、そう言ってアリスの濡れた頬を拭う指先は、いつぞやに頭を撫でてくれたときよりも分厚かった。12年ぶりに顔を出した泣き虫はイルミの指の腹だけじゃなく爪まで濡らしてしまうのに、その全てが止まるまで、イルミの手の温もりが離れることはなかった。
(「ミダゾラム」ポルカさんへ
Happy birthday!)
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