03. 大嫌いのその先に



 イルミには理解し難い存在がいた。理解し難いとはそのままの意味である。
 幼き頃からゾルディックの嫁の有力候補と言われていたアリスのことだ。
 アリスは子どもの頃にゾルディックを訪問してきた。4歳にもなるのに試しの門も開けられないような奴がなぜ候補に上がるのだと不思議でならなかった。
 親に言われて庭に連れていく途中で、その足の遅さに一瞬驚いたほどだ。見上げてくる視線が苛立ち混じりの不安で満たされて、そんなのでこの先やっていけるのかと、彼としてはお節介ながらに思ったものだ。他人にそんなことを思うものではないはずなのにだ。
 ただ、このときイルミにはミルキという弟がいた。小さな弟の面倒を見る中で、庇護欲というものが育ったせいだろうと結論づけ、親に言われたこともありそのまま自身の歩くペースを落としてやった。なにを思おうと、それが表にでなければ問題ないのだと。

 イルミには不快な存在がいた。不快とはそのままの意味である。
 共に訓練を受け、共に休憩時間を過ごすアリスのことだ。
 アリスはよく泣く。訓練中も痛かったら泣く。苦しかったら泣く。それはもうよく泣く。だが泣くだけで訓練をやめることも嫌だということもなく、身体は動かしていたし、涙もろいという個体差だろうからそのうちおさまるだろうとイルミは思っていた。
 イルミが不快だったのは、休憩中にアリスが泣くことだ。毎度毎度、痛くないのか、苦しくないのかと、イルミの傷を見てアリスが泣くことだ。心配そうに見上げてきて、濡れた瞳で見上げてきて、まるで自分が見透かされている気分にもなって不快だった。痛いのも苦しいのも自分であって、ましてやそれを表に出してるはずもない。
 それなのにアリスはいつだって自分を見て泣く。ともすれば、訓練中より泣くものだから手がつけられなかったし、なによりその泣く姿を見て得も言われぬ気分になるものだから、感じたことのない気分になるものだから、イルミはアリスが不快だった。うるさいと言って黙らせていた。

 イルミには認めたくない存在がいた。認めたくないとはそのままの意味である。
 いつだってよく泣き、イルミのために泣くアリスのことだ。
 イルミにはわかっていた。彼女がなぜ泣くのかを。いや、わからされたと言った方が正しいのかもしれない。会うたび年を重ねるたび、憧れ以外の無自覚の目線を寄越す彼女は本当に感情制御が下手だと思っていた。
 けれどもそれをとやかく言うつもりはなかった。泣かれて己が陥る気分にももう慣れてきたからだ。ただその慣れたものは決して表出してはいけないものであったし、なにより家族以外に持ち得て良いものではなかった。
 アリスは弁えている。彼女の立場を理解して弁え、振る舞い、努力を怠らない。そこはイルミも認めるところだった。認めるところではあったけれど、彼女に対する心を認めるわけにはいかなかった。
 そんなアリスが初めて立場のラインを超えて叫んだあの姿を、イルミは忘れたことはない。自分と結婚すると泣き叫んだ彼女の姿を忘れたことはない。ゾルディックであれば誰でも構わないはずの彼女が、後継者でもなくなった己を個として扱い、無自覚の身を震わせてイルミを選んだあの瞬間を忘れたことはない。

 イルミには認めさせたい存在がいた。認めさせたいとはそのままの意味である。
 あれ以来目まぐるしく努力を重ねるアリスのことだ。
 イルミと結婚するためだけに、イルミの言った条件を着々とこなしているアリスのことだ。泣くことのなくなったアリスのことだ。涙の代わりに血を流すようになったアリスのことだ。
 アリスを、特別に想うイルミのことだ。
 候補としてようやく自覚が出てきたようでと喜ぶ彼女の両親も、いつでも自分達兄弟の誰かの相手になれると誉めた両親もわかっていない。
 あれは、自分のものだ。
 兄弟の誰でもない、後継者のキルアのものでもない。イルミだけのものなのだ。弟たちはかわいい、年の近い弟も離れた弟も、家族なのだからかわいい。けれどもアリスは弟たちにはやりたくない。
 彼女のたゆまぬ努力はイルミのためにあり、その心は自分に向いている。その事実を知らしめたかった。

 ある夕食の日のことだった。

「そういえば、そろそろアリスさんが20を迎えるんじゃなかったかしら」
「そういえばそうだったな」

 ゾルディック家の食事は家族全員揃うわけではない。揃うときもあれば揃わないときもある。この日の食事はゼノ、シルバ、キキョウ、イルミの4人で行われていた。

「彼女は優秀じゃからの。誰の相手でも問題ないわい」
「優秀さを考えたらキルアの相手でもいいんだがな」
「あらあなた、でも年の近さで言ったらミルキがいいんじゃなくて?」

 口々に、ずいぶん好き勝手言ってくれるとイルミは思った。そしてシェフの作った料理を黙って口に運びながら、言うならここだと、長年言わずにいたことを伝えるならここだと手にしていたフォークを置いて、その黒き瞳をキロリと光らせ家族に向けたのだ。

「オレだよ」

 瞬間、全員が口を閉ざしたものだ。それもそのはずだ。
 数年前から婚約者を決めろとせっつかれていたイルミは、その相手全てを蹴ってきたのだから。どの娘もゾルディックとしてやっていけるほど優秀であったし、器量も申し分ない。にも関わらずイルミはその全てを受け付けることなく却下してきた。重箱の隅を突くようにあれがだめこれがだめと理由をつけては断ってきた。
 反抗期という反抗期もないままに育った、家のためであれば二つ返事で了承するイルミが唯一として拒否してきたことが、婚約者選びであった。

「いいよね父さん」

 待っていた。ずっとずっと、アリスが大人になるまで待っていた。
 家族になればあの心を認めさせてやれる。
 家族になればこの心を認めてもらえる。
 このときを、イルミは12年待ち続けていた。


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