02. 大嫌いのその先に



 嫌い嫌い大嫌い──。


 大粒の涙を零して泣きじゃくり、しゃくりあげながら叫んだのはアリスが8歳、イルミが12歳の7月だ。
 ククルーマウン頂上は7月といえどまだ十分に涼しさを残していて、緑の間を吹き抜ける風が肌には心地良く過ごしやすい季節だった。
 ゾルディックの広大な庭、樹海の中のお気に入りの場所。鬱蒼とした木々の間にある少しだけ拓けて大きな切り株のあるそこは、アリスとイルミが二人でよく遊んでいた場所だ。遊ぶといっても、訓練のひとつの鬼ごっこだったりかくれんぼだったり、はたまたその休憩に使う場所だった。そこで過ごした日々は数えきれなくて、そこに腰掛ける小さな影が二つ並んでいた日の出来事だ。

「弟が生まれたよ、オレは後継にはならない」

 彼の放った言葉はただの事実だったけれど、相変わらず自分を泣かせるイルミがアリスは嫌いだった。
 ただの独り言ともとれるこぼれた言葉だ。ただの事実を、なんてことはないといった顔で呟いたのだ。ただそれだけだ。
 乾いた風が黒髪を揺らして綺麗な横顔が見えた。針を使った訓練でマメが潰れては治りを繰り返し、厚みを増した掌は、5本の指で硬く閉ざされていて見えなかった。

 ゾルディックの後継は確かに決まっていなかったし、長男が継ぐといった決まりだって存在しない。だからイルミが後継でなくとも不思議ではなかった。無意識下でイルミが後継なんだろうと思っていたのはアリスの勝手なのだ。
 そしてアリスもゾルディックの誰と結婚するかということは決まっていなかったし、決める権利もない。それはアリスにもイルミにもわかっていて、そもそも後継になりたいとか誰と結婚したいかだなんて、きっとお互いに深く考えたことなんてなかった。
 それなのに、泣き虫な瞳は体液だけじゃなくて言葉まで溢れさせていた。

「わたしイルミのおよめさんになるから!」

 きっとこの言葉は正しくない。脈絡もなければ、付き合いのある家の娘としてもあるまじき発言だ。まずは「弟の誕生おめでとう」を言うべきだと理解はしていたはずなのに、どうしてもその言葉は先に出てこなかった。
 一瞬だけ、イルミの身体が揺れた。その揺れは、隣に座るアリスを見るために動いたせいかもしれないが、きっと違うと思った。だって、それを見てアリスの両目はまた熱を持っては瞬きを繰り返す羽目になったのだから。
 コテンと首を傾げたイルミはアリスを見つめた。真っ黒な双眸がアリスを映して、その瞳に映るアリスの泣き顔はきっと今までで一番クシャクシャになっていた。

「泣き虫はオレの嫁にはなれないよ」
「もうなかない!」
「今のままの強さじゃだめかな」
「まだつよくなるもん!」
「毒の耐性もいるよ」
「くんれんする……!」

 溢れる涙を拭うことなく叫ぶアリスを無表情にただ眺め、脈絡のないお嫁さん発言に、他にもあれはだめこれはだめ、これが必要とイルミは条件をつらつらと並べ立てていた。そのひとつひとつに、アリスはやってみせると応え続けていた。

 8歳の7月、このときから涙を流すことはなくなった。痛みを伴う訓練のときも、イルミを前にしたときも、喉にしょっぱさを感じたら瞬きの代わりに唇をキュッと結んで歯と咥内の肉を合わせた。しょっぱさが錆びついた味になるまで口に目の代わりをさせた。

 両親に言って、訓練の難易度を上げてもらい、耐毒の訓練も始めてもらった。難易度の上がった訓練はこれまで以上に肉体に負荷がかかり、毎日身体が悲鳴を上げた。
 泣き声は上げなかった。
 少しの量から始まった毒の訓練は味わったことのない苦痛だった。三日三晩熱が下がらない日もあって、胃の中が空になるまで吐いても吐き足りなかった。イルミのように吐血した日もあった。喉元に迫り上がってくる血液は胃液とまた違って嫌な味がした。それでも続行される日々の訓練と耐毒訓練に夜は決まってベッドの上でうずくまるしかなくて、何度も口の中を噛み締めた。

 そんなとき、決まってあの横顔を思い出すのだ。
 努力を重ね、ただ一点を見据えたあの横顔を。
 イルミはきっともっと痛かった。
 イルミはきっともっと苦しかった。
 目の前にいないのに泣きたい気分にさせるイルミが、アリスは大嫌いだった。


 ***


 朝日を瞼越しに感じて目を開ける。明け方眠りについたにもかかわらず、起きようと思った時刻に起きられるようになったのはもうだいぶ前のことだ。
 季節を何度も繰り返したアリスは、今日で20歳の誕生日を迎える。12年だ。イルミと結婚すると、イルミだけに宣言した日から12年。
 ようやく自覚が出てきたのねの喜んだ両親、いつでも息子達の相手になれると褒めてくれたゾルディック。だけど欲しかったのはその言葉ではなく、ましてや彼らからの言葉でもない。そうしてついぞ欲しかった言葉をもらえずに今日までやってきてしまった。

「どんな人なんだろうな」

 大嫌いな男の婚約者はどんな人なのだろう。きっと強くて優秀で、誰もが認めるような人なのだろう。暗殺術も体術も優れていて、ゾルディックの嫁としてやっていけるような、きっと素敵な人だ。
 そしてきっと、イルミをわかってくれる人。彼という人に、わかりづらい心に、寄り添ってくれる人。きっとそうだ。そうであってもらわなくては困るのだ。
 喉の奥がしょっぱくなって、習慣づいた口の形を作った。もう味が変わるまで噛み締める必要はなくなったけれど、なんだか癖づいてしまった動作だ。

 身支度を済ませて鏡を見た。背が伸びてあちこち丸みを帯びた体型にあの頃の面影はない。それなのにあの日イルミの瞳越しに見た己の面影が、今日に限って見えた気がして深呼吸をひとつする。大丈夫だ、今度は間違えない。第一声はおめでとうだと、胸に強く強く言い聞かせた。

 アリスの家からククルーマウンテンの頂上までは走っていけばそんなに時間はかからない。けれども今日はおめでとうを言いに行く日だから、せっかくだから買い物をして贈り物を買おうと思った。
 大嫌いなイルミにおめでとうの品を選ぶのは、彼の誕生日以外では初めてだ。毎年必ずお互いの誕生日にはプレゼントのやり取りをしていて、プレゼントは毎年変わらず本だった。
 もしかすると、イルミは律儀だから今日のアリスの誕生日もプレゼントを用意しているのかもしれない。もしそうならプレゼント交換のようになってしまうなと、少しだけ頬が緩んで、そのまま家の玄関の扉を開けた。

 開けた先から、明け方よりは暖かい、だけどやっぱりひんやりとした空気が流れ込んできて、同時に視界にいるはずのない人物が飛び込んできた。

「あれ? 出かけるところだった?」

 ドアの外に、イルミが立っていた。立っていたというよりは、今きたところといった方が正しいかもしれない。
 腰まである長い髪をなびかせて「や」と、白い吐息と共に顔の横に手を出したイルミがアリスを見下ろした。

「聞こえてるの?」
「……あ、うん。ちょっとびっくりした」
「気配くらい察知しなよ。いくら家でも気を抜きすぎじゃないの」

 ちくりと、小言がひとつ。いつもならなにかしら言い返すアリスだったけれど、今日はそんな気分になれない。なれないどころか、まだ見たことのないイルミの婚約者はきっとそんな小言も言われないような人なんだろうとすら浮かんでしまった。

「なにしに来たの?」
「なにって、お前今日誕生日でしょ」

 はいこれ、と片手に持っていたラッピング済みの紙袋を手渡された。ずしりと腕に広がる重みと四角い形状から、今年も分厚めの本だということがわかってお礼を言った。
 彼から誕生日プレゼントをもらえるのは、これがきっと最後だ。

「ありがとう。私まだイルミのお祝いの品買ってないから今から買いに行くの」
「オレの?」
「うん、婚約決まったんでしょ」

 自らの口から婚約という言葉を出して、その重みに舌が空回りそうだった。
 婚約、結婚の約束のこと。目の前のイルミ=ゾルディックと結婚の約束をした人がいるのだと、言葉に出すと夜より朝より現実味を帯びてのしかかってきた。

「あ、聞いたんだ、ようやくって感じだよね」
 
 そう頷く彼は嬉しそうでも嫌そうでもない。つまりイルミにとっては不足ない相手だということだ。それはそうだ。アリスだってそう思っていたのだ。
 けれどもイルミ自身の口から語られてしまえば、突きつけられてしまえば、心臓にちくりと針が刺さった感覚だった。
 そして「おめでとう」と言えたと思ったら、また喉の奥がしょっぱくなってきた。今日のイルミは普通なのに。普通じゃ居られないのはアリスだった。
 だからやっぱり自分をこんな気分にさせるイルミが嫌いでたまらないのだ。

「おめでとうってなに?」

 コテンと首を傾げたイルミが問うた。黒髪が一房かけていた耳から落ちて頬を掠めれば、白と黒のコントラストが光って見える。癖になった口の形を作って、その顔を見上げればわざとらしいほどに疑問符を浮かべているイルミがいたからまたアリスは繰り返すのだ。

「婚約したんでしょ? だからおめでとう」

 ゾルディックから認められた人、イルミの言った条件をおそらく全て満たしたであろう人、きっとその心に寄り添ってくれるであろう人、そんな素敵な人との婚約おめでとう。
 彼の誕生日に言ってきたおめでとうとは全然違う気持ちのおめでとう。
 どんな気持ちかなんて自分でもよくわからない。彼の幸せを思う気持ちは確かに存在するのに、いろんな気持ちが重なり合ってはぐしゃぐしゃに混ざり合ってよくわからない。
 昔からそうだ。イルミはいつだってアリスをよくわからない気持ちにさせる。だからアリスはイルミが嫌い。嫌いで嫌いで、大嫌い。

 そんなアリスの気持ちなんてお構いなしなイルミは顎に手を当てて、一瞬だけ考えるそぶりを見せた。

「オレの婚約者、お前なんだけど」


 - back - 
TOP
- ナノ -