01. 大嫌いのその先に



 願わくば、彼に心からの幸福を──。



 早朝の空気はガラスのように硬くて冷ややかで、窓から入る冷気が部屋着の織り目から肌を突き刺した。こんなにも寒い冬の夜明けなのだから窓を閉めてしまえばいいのにと、頭の片隅でぼんやりと過ぎるが身体が思うように動かない。
 きっとそれは、何もかもが寒さのせいだ。何もかも寒さのせいでかじかんで、寒さのせいで身動きが取れないのだ。きっとそうに違いない。吐く息は白の霞となっては消え、風も空気もそこらじゅうで凍ってしまいそうなのだから。

 「イルミの婚約者が正式に決まった」とアリスが両親から聞いたのは就寝前のことだ。その後に続けて両親が何か話していた気がするが、まともに聞かずに自室に篭った。そうか決まったのか、とうとう決まったのかと。ぐるぐるぐるぐる、思考が巡ってはあの綺麗な黒髪と黒い瞳が揺れていた。なんの色も映さない真っ黒な瞳は今なにを思っていることだろう。幸せだろうか。はたまた親の決めたことだからと、なにも言わずに受け入れたのだろうか。

 イルミは心がないわけじゃないのだと、アリスは知っていた。彼は一流のプロの暗殺者なのだ。そうなるべく、幼い頃から肉体を精神を鍛え抜いていったのだ。感情を乱さない術を、表に出さない技術を身につけただけだ。
 感情は押し殺せ切り捨てろ必要ない。それを言えるのは、それができるのは、感情というものがどういうもので、どのように湧き上がり、どう動き、どんな作用をするかを知っていたからだ。
 人というのは不思議なもので、心に鈍くなれる生き物だ。見ない聞かない感じないと暗示のように言い聞かせ訓練を積めば、どこまでも鈍く麻痺をして、それが常になっていく。能面と呼ばれる美しい顔はその表れだ。今となっては彼がなにを考えているかなんて、その表情からは読み取れないけれど、イルミの心はないわけじゃなくて見えないだけだ。他人にも、鈍くなってしまった本人にも。

 そんな彼ももういい歳だ。婚約者が決まったと言われてもなんら不思議なことはない。いつだって覚悟をしていたはずで、だけどどうしてだろうか。ぽっかりと胸に穴が開いて隙間に冷たい風が容赦なく流れ込んできて、これまでの自分の人生はなんだったのかと思えてくる。己はこんなことを思ってはならないはずなのに。

「イルミのばか」

 誰に言うわけでもなく独りごちた呟きが白く光って溶けていき、見えなくなったところで窓を閉めた。もう一眠りしよう。朝になったらおめでとうを伝えに行こう。そう目を閉じて布団に包まった。


 ***


 『ゾルディックの嫁は優秀でなければならない』
 それは天下の暗殺一家ゾルディックであれば当たり前のことだった。大抵は暗殺業を営む一家の娘を貰い受けるか、各々が気に入った女を娶るかの二択であり、そのどちらにおいてもゾルディックとしてやっていけるかということは必要不可欠であり絶対条件であった。前者の暗殺稼業の娘の中で候補はたくさんいて、その中でもアリスの家系では歴代ゾルディックの嫁を輩出してきた。
 それゆえに、アリスの人生は生まれたときからおのずと決められていたのだ。『お前はゾルディックに嫁ぐのだ』と。

 物心つく前から言われてきたこの台詞は疑問に思うことなく刷り込まれるもので、ただ漠然と将来はゾルディック家の男の子と結婚するんだと考えていた。それこそ雛鳥が初めて見たものを親だと思い込むように、己はいつかあの大きな重たい門の中の住人になるのだと、信じて疑うことなく日々の訓練に明け暮れていた。
 代々生まれた女児がゾルディックに嫁いだこともあり、家同士の交流もあって定期的に合同に訓練が行われることもしばしばあったし、決まった日でなくとも赴けば共に訓練をするような関係であった。

 そんなアリスが初めてククルーマウンテンの頂上、巨大な試しの門をくぐったのは4歳の時だ。家で訓練を受けているとはいってもまだ自力で開けることは出来なくて、両親に開けてもらって手を引かれたことを覚えている。応接間に通されて、促されるままゼノ、シルバ、キキョウ、イルミに挨拶をした。
 イルミに出会ったのはこの日だ。当時8歳であった彼の髪はまだ短くて、顔つきも幼くて、身体だって細かった。それでもアリスは彼を見上げていたのだけれど。子どもたちは庭で遊んでなさいと言われイルミについて行ったとき、彼は歩幅を合わせることもなくスタスタと先に歩くものだから、短い脚で見失わないようにその背中を追いかけた。
 ちょっとくらい待ってくれたっていいのにと、睨みつけたことはきっとイルミにもわかっていたはずだ。

「なにしてあそぶの?」
「……」

 長い廊下を進むイルミは問いかけに返事をすることもなく、まるでアリスがそこにいないかのように振る舞う彼に無性に腹が立っていた。けれども初めてやってきた屋敷内は広くて、ましてやもしかしたら彼が自分の結婚相手かもと思えば口を噤むしかなかった。
 だって、アリスはゾルディックの嫁になるためにいるのだから。

 廊下は特殊な造りをしてるんじゃないと思うほどにイルミの足音はしない。軽やかに運ぶ足取りはどう見ても普通に歩いているだけなのに、足を動かすたびにするはずの衣擦れの音も、着地と同時にするはずの踵の音すらなくて、目を閉じれば自分一人で歩いていると錯覚してしまいそうな気さえした。
 それがなんだか怖くて、目の前の背中が、この広くてどこまで続いているかわからない場所に自分を置いていってしまうんじゃないかと不安になったのだ。アリスは手を伸ばした。その背中に、裾に、捕まりたくなったのだ。

「なに」

 イルミの動きは早かった。アリスが手を伸ばして、その裾に触れる前にぐるんと首を捻ってアリスを見下ろした。黒くて大きな瞳がアリスを射抜いて、アリスの身体はその鋭さに硬直した。まるで悪いことして見つかってしまったときのように動かなくて、なんとか口だけを動かして伝えたのだ。

「おいていかないで……」

 パチリと瞬きひとつ。そうして一瞬考えるそぶりを見せたかと思ったらイルミはまた前を向いて歩き出した。音もなく、けれども今度はほんの少し歩幅が狭くなってゆっくりと。
 そうこうして庭と呼ばれる樹海についた頃には息が上がっていた気がする。「かくれんぼしようか」と言ったイルミに「うん」と答えたアリスは今となっては考えが浅過ぎる。「オレが隠れるからアリスが鬼ね。10数えたら探しにきなよ」そんな台詞で始まったかくれんぼは、当然のごとくイルミを見つけることは出来なくて、アリスは帰る時間になるまでイルミを探し回る羽目になったものだ。
 親に庭で遊んでこいと言われた以上、家ぐるみで付き合いのある娘を放置するわけにはいかない、けれども構うのは面倒くさ過ぎると、彼が仕向けたことだと知ったのは割とすぐのことだ。
 正直、なんて性格の悪い奴なんだと思った。ミルキという弟がいるらしいから、結婚するならイルミ以外がいいとひそかに考えていた。




 5歳、6歳、7歳、8歳とアリスが成長していくにつれ、イルミに会う量は増えていった。それはそのはずで、アリスの両親はアリスをゾルディックに嫁がせたいのだからことあるごとに用事を言いつけては彼らの家を訪問させた。
 べつにゾルディックに嫁ぐことを嫌だと思ったことはなかったし、そうであるべきで自身の役目はそれだと教育されてきたのだからなんの躊躇いもない。躊躇いはないが、アリスはイルミに会うのは少しだけ嫌だった。
 彼はいつも怪我をしていてそれが痛そうで、それなのに当の本人は変わらずのテンションでアリスを迎え、適当にあしらってくるのだ。

「いたくないの?」
「……べつに」

 彼の自室で本を読んでいた時に聞いたことがあった。その日の訓練は激しくて、訓練部屋の端から端までイルミの身体が吹っ飛んだのを見てしまったから。すぐに受け身をとって身を起こすその姿に、尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
 だって、アリスなら間違いなくその場に蹲って泣いてしまう。泣きながらフラフラになって立ち上がって、泣くなと叱責を受けるのだ。

「ぜったいいたいよね……?」
「このくらいで痛がってたらなにもできないだろ」
「くんれんがいやにならないの?」
「そんなの考えたことないね。お前だってそうじゃないの」

 うるさいと、また読書にふけるイルミを横目でちらと見た。
 白磁のように白い肌に浮かぶアザはグロテスクな赤黒さと紫色で、口の端は切れて血が滲んでいる。見えていないところにもきっとあちこちにあるのだろう。そんな傷なんて存在しないと言わんばかりにいつも通りに動くイルミを眺め、その通りだと思った。
 自分達は決められたレールの上を走っている。それを嫌だと思うことも、違う道があるということも教えてもらわなかった。イルミは一流の暗殺者になるために、アリスはゾルディック家に嫁ぐために、これまでもこれからも変わらず過ごすのだ。
 イルミは暗殺者たるもの、ゾルディックたるものとして。アリスはゾルディックの嫁たるものとして。決して怠けることなく己を高めていく。
 そんな同じようで非なる彼の横顔を目で追うようになったのは、きっとひたすらに努力を重ねる彼への尊敬からくる幼いながらの憧れだった。



 訓練と称した樹海での鬼ごっこに慣れてきた頃に、イルミが突如血を吐いた時には驚いたものだ。走って追いかけていたイルミの速度が緩んで、白と黒のコントラストが映える大きな双眸が僅かに細まって、口から溢れる赤黒い血を見て目を見開いた。

「イルミ!?」
「うるさい」
「ひとよんでくるよ!」
「呼ぶ必要ない」

 平然と流れる血液を手の甲で拭って、口に残った唾液混じりの赤を吐き出し再開すると告げる彼に、せめて休まなきゃ鬼ごっこなんてしないと駄々をこねた。
 肩で息をしながらオロオロとするアリスを見て「……じゃあ5分だけね」と切り株に腰掛けたイルミは少し伸びた髪を耳にかけていた。

「今日の毒の量が多かっただけだから騒がないでくれる」
「どく……?」
「アリスの家はないの、耐毒訓練」
「……あるのかもしれないけど、まだうけたことない」
「ふぅん……お前結構優秀なのにね」

 ゲホリとまた咳をひとつして、これから受けるんじゃないのとイルミは黙ってしまった。涼しげな横顔に滲む汗から目が離せなくて「きつくないの?」と投げかければ「このくらいできつかったら親父みたいにはなれないよ」と黒い瞳がキロリと光っていた。
 アリスはイルミのこの目が嫌いだった。
 怪我をしても血を流してもただ一点を見据えて、まだ足りないと貪欲に求めるこの姿を見るたびに、尊敬や畏怖だけではなくよくわからない気持ちがぐちゃぐちゃになって、いつも眼球の奥が熱くなってくるのだ。そうして決まってそんなアリスを見てイルミは鬱陶しげにため息をついてくるのがお決まりの流れだった。

「なんでお前はいつも泣くの」
「わかんない……」
「そんなんでうちの嫁の有力候補とか信じられないね」

 確かに技術とかは申し分なく育ってるとは思うけどと、つぶやいてはまたため息をこぼす。
 そうなのだ。この段階でのアリスの立ち位置は彼の言う通りで、アリスは確実に訓練をこなして成長していた。ただひとつ、どうしてだか彼を前にすると心がうまくわからなくなる。訓練中の痛みで涙を流すことも多かったけれど、何よりもこのイルミと共にいるときは、彼が努力をしている姿を見たときは、文字通り血の滲むような努力の片鱗を見つけてしまったときは、痛みなんてなくても喉の奥がひりついてきてしまってどうしようもなかった。
 滲んだ汗をイルミが拭うのに合わせてアリスも目元をゴシゴシと擦った。涙よ止まれと祈って手の甲を押し付けて。
 この瞬間だけは、お前は失格だと言われているみたいな気分だった。己の存在意義を否定されているような気持ちになって、自分でもイルミを見て泣いてしまう理由はわからないからイルミのせいだと言いたくても言えなくて、彼が嫌いだった。

「イルミの……ばか……」
「馬鹿はアリスだろ。痛いのもきついのもお前じゃないのに」

 溢れる涙を振り払うよう揺らした頭に乗せられる、傷だらけの掌の温度は温かかった。


  - back - 
TOP
- ナノ -