05. 負けない女は闘わない



 いつからだろう。私の存在価値はこの念能力だけだと思い込んでいたのは。もう思い出せない。
 彼は一度だってそんなことを言ったことはなかったのに。憶測だけでなく、もっと早くきちんと向き合えばよかった。いつだって用件のみを伝えるイルミだけれど、わからないときは説明を求めれば、仕方ないなと必ず教えてくれていたのだから。言葉足らずな彼の心を、勝手にわかった気になっていた己が少し恥ずかしい。
 私の顔を包み込む彼の両手が温かい。時折親指で払うように涙を拭われて、漸く視界が取り戻せてきた。

「落ち着いた?」

 鼻を啜り、大きな手の中でこくりと頷く。

「そう。で、どうする? なる? 死ぬ?」

 ようやく泣き止んだ矢先に結婚か死か。脅しにしか聞こえないはずのプロポーズは、いまの私には甘美な響きを持って全身に染み渡った。
 答えなんてひとつに決まっている。だからこそどうかもうひとつだけ教えてほしい。それがわからなければ、きっと私はこれから先ずっと不安に駆られてしまうから。

「いつから私のどこが好きで選んでくれたの。ゾルディックに嫁いでもなんにもできないのに」

 能力ではなく私が欲しい。そう言葉をくれたけれど、家族第一の彼から出る言葉とは到底思えない。暗殺一家の嫁がこれで務まるはずがないことは、イルミが一番わかっているはずだ。
 じっと待っていると頬にあった手は離れ、彼は座ったまま胸の前で腕を組みため息をひとつ溢す。

「べつにアリスのこと好きじゃないんだけど」

 聞き間違いだろうか。それとも先程の出来事が私の記憶違いか。期待が膨らんでしまっていたために、脳に襲いかかる衝撃を受け止めるのに僅かに時間がかかる。

え?」
「なにかしてほしいとも思ってない」

 膝の上で拳を握り見据えると、彼の表情は変わらず、ただ淡々と事実だけを述べていた。
 言葉通りに受け取り推測で考えてはならない。嫌というほど思い知らされたばかりだ。その意図を、真意を知らなければならないと大きく肺に空気を送り込む。

「好きじゃないならイルミが私を欲しいと思う理由を知りたいの」
「それに答えたら奥さんになるの?」
うん、なる」
「言質とったからね」

 ゆっくりと組んでいた腕を伸ばし、そのまま私の拳を両手で包み込んできた。握りしめた掌を優しく解かれて、そのまま力が込められたのがわかる。
 そして感覚が、なくなった。思わず自身の両手を見ればしっかりと彼の手が添えられていて、私との間には薄いオーラの膜。自らの念が発動していることに、何をされているのかを理解する。

「ほら、やっぱり壊れないし逃げない。これが理由」

 言葉とともにまた温かな感覚が戻ってきた。五感からも発言からも間違いない彼からの攻撃に心が酷く動揺し、必死に落ち着けと胸の内に言い聞かせる。理由だと言ったことに集中しろ。きっといま彼は重要なことを言っているはずなのだと鼓舞した。
 そう鼓舞して彼の言葉を待った次の瞬間だ。

「昔からさ、オレの大事なものってすぐ壊れたりどこか行ったりするんだよ。なんでだろ。どれだけ大事にしてあげても反発して離れていくんだよね」

 寂しい。
 そう聞こえた気がする。勘違いでもいい。『寂しい』ではないのかもしれない。けれどもなぜかはわからないけれど、イルミの心に、今、触れた。そう確信だけが持てた。
 ドクドクと脈打つ鼓動がうるさい。身体中を駆け回る血液の熱ささえも煩わしい。邪魔をしないで。今の私は、彼の一言一句を聞き漏らすわけにはいかない。

「初めに会ったとき、針投げたの覚えてるだろ。お前が自分の念べラベラ喋ったときね。あの時結構びっくりしたんだよね。針が刺さらなかったこともだし、逃げないんだって。大抵の奴は逃げるのに」

 区切り、あのときは驚きが顔に出てた気がするよははは、と無表情に笑う彼を眺め回想する。私の記憶の彼は瞬きをひとつしただけなのだが、おそらくそのことを言っているのだろう。

「あのときさ、なんだろうこいつなら壊れないって思ったんだよね。きっとこいつはどこかに行ったりしない、いなくならない。欲しいな、これはオレのものだって。あの感覚は不思議だったね、いまでも意味がわからないし」

 頭の中で、ピースの嵌る音が鳴り響いた。バラバラだったパズルの欠片がひとつひとつ繋がっていって、形になっていくかのような感覚だ。

「わからないけど、欲しくて手放したくないっていうのに変わりはないんだよね。何かしてほしいっていうのもない。今まで通りたまに手伝ってもらうくらいだ。その条件で親父たちの許可も下りた」

 きゅっと手を握る力が緩み、彼の長くて綺麗な指と私の指が絡み合う。それだけで心地良く、すべてが満たされていく。
 大半の人が言うかもしれない。それは能力が欲しいと言ってるのでは、と。だがそれは違う。彼が欲しいのはあくまで私だと、しっかりと刻まれた。能力を持ち得る私だからこそ、彼の異常な執着心とも言える愛情の受け皿になれる。もはや理屈ではなくそう直感した。
 もう、充分だ。世界中の誰が否定しようとも、イルミ本人が否定しようとも、断言できる。

 私は今、彼から最上級の愛の告白を受けている。

「あ、でもひとつ訂正しておく。アリスのこと好きじゃないって言ったけど、奥さんになったら好きだし大事だよ。家族だからね」

 衝動的に腰を上げ、腕を伸ばして彼に飛びついた。首に腕を回し、肩に頭を乗せてイルミを力の限り抱きしめる。そうせずにはいられなかった。結構な勢いでその身体に飛び込んだはずなのに、難なく受け止められて彼の腕に支えられている。
 どこまでも言葉の足りない不器用な彼。育った環境故に、自覚なき想いを持て余し、愛情と執着が混ざり合ってしまった彼が愛おしい。きっとこの先もイルミが自覚することはないのだろう。
 けれども確かに、私は彼の心を受け取ったのだ。

「あー、びっくりした。一瞬顔引っ叩かれて死なれるかと思った」

 させないけどね、と耳元で抑揚のない声が響く。
 そうだった、先程頭に血が上り、自分で死んでやる宣言をしたのをすっかり忘れていた。

「そんなことしないよ。死んだらイルミのこと守ってあげられないからね」

 顔を彼の肩に埋めたまま呟けば、案の定の返事が聞こえてきた。

「アリスに守られるほど弱くない」

 伝わらなくていい。

「でもアリスが死なないように心がけるのは悪くないね」

 絶対にイルミより先に死んだりしない。

「服毒訓練だけはしてもらおうか。それなら今よりも死ぬ確率を下げられるし」

 私は今日、新たな決意を胸に灯す。
 顔を上げ、力を緩めて横にある顔を覗き込む。そこには同じようにこちらを見つめる彼がいて、思わず笑みが溢れてしまった。

「イルミの奥さんなら、そのくらいは仕方ないからしてあげる」

 先程彼にされたように、サラサラの黒髪に指を差し込み、後頭部に手を添え引き寄せた。私の力ではびくともしないはずなのに、従ってくれることがこそばゆい。そっと近づけて、目を閉じて触れるだけの誓いをたてる。私にしかできないことだ。いなくならない。どこにも行かない。死ぬようなことはしない。

「これからもよろしくね」

 貴方の心は、私が守る。


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