04. 負けない女は解かれた



 見慣れない白い天井が視界に広がった。身体に感じる感触は柔らかい寝具の類で、ベッドの上に寝ていることを把握し、覚醒しきらない頭を使って現状を整理する。
 まず、意識を失う前にはイルミがいたはずだが今はいない。服は着ている。指先、手、腕、爪先、脚、順に力を入れると筋肉はきちんと収縮し異常もないようだ。
 ゆっくりと起き上がり辺りを見渡した。部屋は広く、出入口と思われるドアがひとつと、ドアと反対側の壁には複数の大きなカーテン付きの窓。カーテンの隙間からは木の枝と空が覗いており、ここが一階の高さではないことが見てとれる。
 目の届く範囲をさらに確認すると、自身が座っているキングサイズのベッド、隣にサイドテーブルとサイドチェア、少し離れたところにソファやテーブルがあった。それら全ては目を凝らすと高級感溢れる造りをしていて、ひょっとしてここはイルミのいやまさかとすぐさま浮かんだ考えを否定した。
 もし自分の置かれている状況がわからなくなった場合は常に最悪の状況を考えて行動しろ。生き延びることだけを考えろ。その後はオレがなんとかする。数年前、任務中に彼に言われた言葉が頭を過ぎる。

 コンコンッ──。

 ドアがノックされ、全身に緊張が走った。意識をドアへ向け警戒する。それと同時に寝起きの身体を奮い立たせて全力で窓の方へと駆け出していく。脚が縺れそうになるけど止めるわけにはいかない。
 入ってくるのがイルミならそれでいい。だがもしそうではないなら、予期せぬ事態の可能性が高いため逃げる一択だ。幸いにも窓があるので何階だろうと飛び降りれば問題ない。一番まずいのは捕まることだ。窓を開け放ち、私は身を乗り出した。

「ストップ。逃げなくていい」

 耳にかかる吐息と艶やかな黒髪、腰に回された温もりに安堵を覚えた。ゆっくりと息を吐き出して、身を委ねる。だって、後ろにいるのはイルミだ。
 そのまま彼の脇に抱えられた。荷物ように私を持って歩くイルミはベッドへ向かっているようだ。

「ちゃんと教えてたこと覚えてたんだ、えらいね」
「ここどこなの?」

 喋りづらい体勢ではあるが、とりあえず疑問を投げかけるとベッドに座らされ、彼は答えながらサイドチェアに腰掛けた。

「オレの部屋」

 先程脳裏に浮かんだ考えはやはり正しかったらしい。しかしそうなるとさらに疑問は出てくるというものだ。なにから訊ねればいいものかと思案していると、彼の掌が額に触れすぐに離れた。

「寝てたのは丸一日。目が覚めたなら問題ない、さっきも走ってたしね」
「なんでイルミの部屋なの?」
「お前の家もう引き払ったから。今日からここに住むんだからいいでしょ。あ、ちゃんと荷物は執事に言って全部持って来させてるから安心していいよ」

 何を言っているんだこの男は。開いた口が塞がらないとはこのことだ。家を引き払う、ここに住む、その言葉に気絶する前の彼の爆弾投下を思い出す。そうだ、彼は私をうちの嫁になると言ったのだ。

「あの、記憶間違いじゃなかったらなんだけど私を嫁にするって言った?」

 恐る恐るイルミを見れば姿勢良く座ったまま、先程の動きで少し乱れた長い横髪を耳にかけていて、その所作の美しさにどきりとしてしまう。が、今はそんな場合ではないのだ。ときめきを鎮まらせ彼の返答を待った。

「言ったよ。もう充分でしょ」

 何も充分ではない。そもそも何が充分なのかもわからない。彼は余計なことは言わず用件のみを言う人であるけれど、用件のみでは今回のことは付き合いの長さを以ってしても理解の範疇を越えてしまっている。
 一から説明をしてほしいと伝えれば、やや間をおいてイルミが口を開いた。

「だからさ、オレたち結構長い付き合いだよね。それは理解できてるだろ」

 同意の頷きを返し続きを待つ。

「この数年でお前がオレしか意識できないようにしたはずなんだよ。針が刺せないから、それはもう地道と言っていいほどに時間をかけてしっかりと」

 わかっていたことだが、実際にイルミ自身の言葉で聞かされると胸が痛い。痛みなんて感じないはずなのに、どうしてこんなにも締めつけられてしまうのか。痛い場所を庇うように胸元の服を握りしめてしまう。

「最初のほうに考えてたんだよ。アリスを手放さないためにはどうするのが一番手っ取り早いかって。うちで囲えばいい。そうすれば誰にも手出しできないからなんの心配もない。ゾルディックの人間に手を出す奴なんてそうそういない」

 喉が引き攣り、鼻がツンとして目の奥が熱くなる。彼の言葉は凶器だ。どんな攻撃よりも、いとも簡単に私を的確に貫いてくる。

「で、それからは実績づくりだ。ほぼ一般人のアリスを嫁がせるには実力でうちの人間に認めさせるしかないからね。事あるごとに同行させて結果を親父たちに報告して、先日ようやく許可が降りたのにヒソカが馬鹿なメール寄越すからさすがにオレも焦ったよ」

 イルミの手が伸びてくる。頬に添えられ、親指で顔を擦られて湿り気を感じ、己が涙を流していることを遅れて理解した。無理だ、止められない。

「ヒソカに会わせたのはオレのミス。そこはオレのせい。アイツならその念の弱点に気づくのなんて簡単だってこと忘れてたんだよ。でも実際は何もなかったんだから泣くことないだろ」

 見当違いも甚だしい。私を泣かせてるのはイルミだ。声を大にして主張してやりたいけど喉からは鳴咽しか出てこない。悲しい、切ない、苦しい、悔しい、そのどれもが形にならない。

「だから奥さんになりなよ」
いや絶対に嫌っ

 嗚咽混じりに必死に紡いだ。冗談じゃない。いくら彼の掌の上で転がされていたとしても、この気持ちは私のものだ。一生道具としてイルミのそばにいるなんて耐えられない。これほどまでに残酷なプロポーズがあってたまるものか。

「断るなら殺すよ。手放すくらいなら今この場で殺す。他の誰かに渡すなんて冗談じゃない」

 触れている頬に力を込められたのがわかる。イルミの言葉はすべて本気だ。けれども私にだって譲れないものがある。

っ冗談じゃないは私の台詞よ能力が欲しいから結婚するって言われて了承するはずがないでしょっ」
「何言ってるの」
「殺されてもあげないから。闘えないけどね、命掛ければ一撃だけは闘えるんだからっ一生道具として生きるならイルミのその綺麗な顔引っ叩いて自分で死ぬわよ」

 一度死を覚悟すると強気になれるものだと、激情とともに頭の中が冷静になってくる。ボロボロと溢れる涙をそのままに、激情と冷静という相反するものが両立してしまうとは妙なものだ。
 ぱちくりと瞬きする綺麗な顔がいっそ憎い。何を驚いたように反応しているのだろうか。

「オレがいつ、アリスの能力が欲しいって言った」

 言ったではないか。
 凄く便利で厄介だから他の人間には知られたくない。
 毒見も今後も依頼することはありそうだから。
 抱えてる間はなにも避けなくていい。
 殺してもデメリットしかないから殺す気がない。
 針が刺せないから地道にオレしか意識できないようにした。
 私を手放さないためにはどうするのが一番手っ取り早いか考えた。
 すべてイルミに言われたことだ。
 それらを一息に投げつければ私の肩は上下して全身で息をする。もう涙は止まったけれど、イルミの手はいまだ添えられたままだ。

「やっぱりその思考回路は理解できない。オレは一度たりとも能力が欲しいだなんて言ったことはない」

 瞬間、頬に位置していた手が後頭部に回され引き寄せられた。視界がイルミで埋まり、唇に彼の温度が分け与えられている。今度は私がぱちりと瞬きする番だった。ゆっくりと離れ、手を戻す彼を呆然と見つめてしまう。イルミは何をした。彼はどうして不機嫌な顔をしているの。

「便利で厄介だから他の人間は欲しがる。オレの奥さんにするつもりなのに知られて欲しがられたら面倒だ。毒見して死なないようにしないと実績積ませられない。抱えてる間は敵に捕まることはないんだから、下がらせているときみたく敵のアリスに対する意識も攻撃も避ける必要ない。奥さんにするつもりなのに殺したら意味がない」

 一度言葉を区切り、とうとう両手で顔を挟まれた。

「あとはなんだっけ。ああ、針刺して操作できないんだから自力でその気にさせないといけない。能力を利用しようとする奴らを誰も近寄らせず、アリスを手放さず絶対に手に入れるにはうちに嫁がせるしかない。なんで事細かに言わないとわからないの。変な解釈しないでくれる」

 怒涛の勢いで情報が頭に流れ込んできた。その情報量に脳はフリーズ状態になったと思う。猛りだっていた激情はどこかへいき、冷静さも迷子になってしまった。

「オレが欲しいのはアリス。ねぇこれ以上どうしろって言うの。どうやったらお前はオレのものになるの。ならないなら本当に殺すよ」

 脳の再起動が始まって、膨大な情報をひとつひとつ処理していく。ひとつ解るとまたひとつ呑み込んで、噛みしめるとずっと胸の奥底にあったしこりが溶けていく気がした。

 イルミが欲しいのは能力ではなく私。

 普段は最低限のことしか言わない彼だから、ずっと発言の意図を私なりに考えてやってきて、問題なく意思疎通ができていた。それなのにまさかすべて意味が違うと誰が思うだろう。
 真っ直ぐに射抜いてくる黒き双眸には確かに私が映っている。彼の世界に私はいた。たった一つ不安は残るけれど、手に入らないなら殺すと異常なまでの独占欲を剥き出しにして自身を乞われ、わからないほど思考回路は歪んでいない。
 視界が霞み、声にならない音だけが空気を震わせた。止まったはずの涙が再び堰を切り、頬を伝い顎から落ちていく。
 すぐに泣きやむから教えてほしい。
 そこまで想ってくれる理由はなんなのか。
 ゾルディック家。暗殺一家の長男。闘えない私ほど貴方に相応しくない者はいないのだから。


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