03. 負けない女は覚悟した



 あれから二週間ほどが経過したけれど、私の気分はいまだ浮上してくれない。昼食後自宅のソファに身を投げ出し、大きく深呼吸をひとつして目を閉じ思考を巡らせていく。
 この気持ちは必然だと思う。おそらくイルミのこれまでの行動は意図したものだ。守る必要のない私を可能な限り危険から遠ざけ、怖がらせないように、逃げださないように、誰の目で見てもわかるほどに守っていた。
 今回だってそうだ。ヒソカの嫌がらせの一言である王子様発言がそれを裏付けている。「やめてくれる?」「満足してくれた?」「わかっただろ」これはオレのものだと言わんばかりの彼の主張が脳内で木霊する。
 使い方によっては便利で厄介だと言った能力を手放さないために、彼は数年に渡って私を侵食していった。針は刺さらないし暴力的な脅しも効かない。そんな私に言うことを聞かせるには私の意思でやらせるしかないのだから。
 そこまでは理解しているつもりだ。だが理解はしていても心が追いついていかないのが現実で、このままでいいのだろうかと自問自答する日々が続いている。
 暗殺一家の長男、家族第一で仕事一筋の彼の目に私が映ることはないと断言できる。使えるものはなんでも使う彼だから、利用価値があるうちは私を生かしているし、手放さないよう対応してくれるだろう。ただしそれ以上にはなれない。ゾルディック家である彼の隣に相応しいのは

「起きて」

 突如声がして、同時に鼻を摘まれ口を開けられた。いきなり思考が遮られたことにもだが、気配なく現れた聞き慣れた声に驚き目を開く。いままさに己の思考の大半を占めていたイルミがこちらを見下ろしていて、私は声も出せずに彼を見た。無表情の中にどこか不愉快そうで、同時に不安そうな彼がいて、片手で私の鼻を摘み口を押し広げてくるではないか。残りの手には液体の入った試験管を構えて。

「これ飲んで」

 ソファ横にしゃがみ込まれ顔が近づき、言い終える前に彼の構えた試験管の中身が口に注がれた。喉の奥にとろりとしたものが流れ込み、反射的に咽せてきて口の端から溢れそうになる。けれども中身を注ぎ終え空になった試験管を床に放った手で、力尽くで閉ざされてしまいそれは許されない。
 苦しくて息が出来ず、目には生理的な涙が浮かんでくる。流し込まれたそれは苦味が強く喉に通すことを拒みたいが、呼吸の出来ない私は喉を上下させることしかできなかった。
 この苦さはきっと毒だ。イルミは私を殺そうとしている。なぜ? どうして? もう要らなくなった? 脳に浮かぶ疑問をそのままに彼を見ても涙で視界がぼやけてよく見えない。

「効いてる? それともこっち?」

 服の擦れる音とキュポンと蓋が開くような響きがして、また口が開かされ液体が流れ込んでくる。次はさらさらと甘い味がした。やはり強制的に飲み込まされた。

「ねぇオレの声聞こえてる? わかるなら何か反応してくれない?」

 鼻と口が解放されて肺に空気が流れ込む。求めていた酸素を取り入れようとゲホゲホと咽せながらもイルミを呼んだ。

「イルミ
「意識あるね。お前今日何を飲んだの、食べたの。どんな匂いと味がした。今どこが痛い、動かない。他になにされた」

 何を聞かれているんだろう。二種類もの毒を飲ませて、急かすように一息で今日私が食べたものを訊ね、毒の効果を確認する彼がわからない。わからないのだが、それでも横になったまま息を整えて、素直に答える自分に嘲笑すらしてしまいそうだ。どうやらそれほどまでに私は彼に染まっているらしい。死ぬ直前の会話がこんなことになるとは考えたこともなかった。

「お昼にアイスティーとパスタ。匂いも味も普通で美味しかった。痛いところも動かないところもないと思う。他はイルミがいま飲ませたものだけ」
「無味無臭の遅効性、痛み痺れなしね。じゃあこっちかな口開けて」

 また服の中から一本試験管が出てきて蓋を開ける彼に、一体何本飲ませる気なんだと思いながらも二本も三本も変わらないかと大人しく口を開く。
 どうせ飲むなら抵抗せず苦しくない方がいいに決まっている。三本目が口元にきたところでピリリリとイルミの携帯電話が鳴った。彼は毒を握る手とは逆の手で画面を確認すると、ボタンを押してソファの余った部分に置く。

「なに、オレいまお前のせいで忙しいんだけど」

 どうやらスピーカーモードで相手と通話は繋がっているらしい。私の口元に三本目を添えたままこちらを見、彼は自身の口元に指を立てた。喋るなの合図だ。
 何度も見たことのある合図に、刷り込まれた身体はすんなりと反応する。
 どうせもう死ぬのに、私はもう必要ないから殺されるのに、それでも言うことを聞いてしまうことが悔しい。悔しくて切なくて、どうにか彼の意識を死ぬ前に一度でも向けさせたくて、唇に当てられたままの毒を自ら飲み干してやった。
 彼に殺されるんじゃない、私が自分で死んであげる。結果は同じだけど過程では失敗させてやる。
 そんな意味のわからない思考回路で飲み干した三本目は一本目よりもはるかに苦くて、まさにとどめの毒と言わんばかりの味がした。

「解毒剤はいらない。うちにあるので事足りる」
『残念だなぁ キミが本気で殺しにきてくれると思ったのに

 スピーカーの向こうから聞こえる声には聞き覚えがある。忘れもしないこのねっとりとした嫌な喋り方はヒソカのものだ。

「会わせるんじゃなかったし、番号の交換なんてさせなきゃよかったよ」

 こちらを見つめたまま、今しがた飲み終えて空になったそれを取り上げ床に転がし、手を伸ばしてくる。脈を測り、掌を私に向け、まるで体温を確認するように額に触れる。掌から伝わるイルミの温度に、まだ己の身体は冷たくなってないなとぼんやり彼とヒソカの会話に耳を澄ました。

『解毒剤を奪いに来ずに、真っ先に彼女の所に行くとは思わなかったよ
「ヒソカが二週間で手に入れられる程度の毒なんてうちでいくらでも解毒できる」
『ま、ボクは彼女に毒なんて飲ましてなければ会ってもいないし、話してもいないけどね
「は?」

 ピタリと、イルミの身体が一時停止した。鼓膜に響く会話から察するに彼女というのは自分を指しているとわかるが、解毒剤とはどういう意味だろうか。

『イルミに送ったメールは嘘だよ 彼女とランチして毒を飲ませた、解毒剤はボクが持ってる そう言えば全力のキミと闘れるかと楽しみにしてたのに
じゃあこいつが倒れてるのはなに」
『そんなのはボクの知るところじゃないよ とにかく、ボクは誓ってなにもしていない

『彼女に確認するといいよ あぁでも、次は本当になにかしちゃうかもしれないなぁ
「次はない」

 額から手を外され、目の前のイルミがドス黒いオーラを放っているのがわかる。まともに凝の出来ない私ですら認識出来るほどの圧倒的なオーラを前にぞくりと肝が冷えた。そして、おおよそのことに見当がついてしまった。
 三本も飲んだそれは、いまだ身体になんの支障も出てきていない。当たり前だ、私が飲まされたのは毒じゃない、解毒剤だ。
 ヒソカに毒を飲まされたと思い、所持している数種類の解毒剤を、イルミの目から見れば倒れていた私に飲ませるべく、口内に流し込んできたのだ。

 殺そうとしているわけではなかった。

 むしろまた助けようとしてくれていた。まだ私は生きていていいと思われている。
 その事実に、胸が熱くなる。鼓動がうるさい。心臓を中心に全身に熱がまわってきて、喜びはもちろん、さっきまで死ぬ覚悟をしていた己に羞恥すらも湧いてきてしまう。
 深呼吸をして心を落ち着かせ、彼に大丈夫だと言う代わりに上体を起こして目線を送った。目と目が絡めばゆるゆるとオーラはおさまっていき、いつも通りのイルミ、不愉快そうでも不安そうでもない、何を考えているがわからないイルミに戻っていき、わざとらしくため息をつかれる。

「もう切るよ。次アリスに本当に手を出すならうちを敵にまわすってことだから覚えておいて」
『怖い怖い でもそれって……』

 ブツリと、途中で通話を終了させたイルミはポケットに携帯電話をしまい、こちらに向き直った。
 真っ黒な双眸に私が映っている。彼の瞳に私が映ることはないけれど、いまこの時だけは私を見ていることがわかって想いが込み上げそうだ。けれどもそんなことはできはしない。溢れる心を押さえつけ、彼に言葉を投げていく。

「ヒソカとはなんの接触もしてないよ。ご飯食べ終わって横になってたらイルミが来たの。あんまりにも苦くて毒かと思っちゃった」

 最後の台詞は笑いながらだが紛れもない本心だ。それなのにイルミはコテンと首を曲げて理解できないと告げてくる。

「面白いこと言うね。オレがアリスに毒? ありえない」
「もう要らなくなったから殺されるのかと覚悟を決めたくらいだよ」
「お前の思考回路どうなってるの。理解できない」

 立ち上がり、散らばった空の入れ物を拾って「あー無駄に急いだから疲れた」と、またこちらに戻ってくる彼は次の瞬間、事も無げに最大級の爆弾を投下した。

「なんでうちの嫁になるアリスをオレが殺さなきゃいけないの」

 耳を疑った。
 彼はいまなんと言ったのだろう。嫁? 確かにいまイルミの口から嫁という単語が聞こえた気がする。誰が誰の嫁? 思考回路が理解できないは私の台詞だと思うのは間違っていないはずだ。衝撃のせいか意識が揺れて音が遠い気がする。クラクラと朦朧とする中でイルミの声がした。

「あ、毒状態じゃないのに解毒したからしばらく昏倒すると思う」

 そういうことは先に言ってほしい。
 薄れゆく視界の中で、起きたら確認したいことが山ほどあるなと私は大人しく意識を手放した。


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