ずるい男



 バレンタインデー。製菓会社の策略により、惚れた相手にチョコレートをあげる風習がある一日。そんな日に、私は自分用にひとつだけチョコレートを購入して帰路についた。このチョコレートの味を教えてくれたのは彼だけれど、私が彼にこのチョコレートをあげることはない。
 ヒソカはきっと好きになってはいけない男だ。間違っても愛してはならない男だ。彼との未来は望めないし彼の未来に私はいない。それがわかりきっている男との、束の間の幸せに身を委ねるほど愚かにはなりたくない。
 恋人ではない。お互いを縛る一種の契約じみた明確な言葉をもらったことは一度だってないのだ。あの関係を説明するなら、陳腐な言葉ではあるが私の片想いというのが最も正しい。肉体だけは恋人のように過ごしたけれど、心は果てしないほどに私の一方通行で、恋人だなんて思えたことはないしヒソカだって思ってはいなかっただろう。
 一度だけ、愛を囁いてほしいと願ったことがあった。そうしたら彼は「いいのかい?」なんて言って、いつものにやけた顔をさらに深めて笑ったのを覚えている。ニィッと口元を吊り上げて、意志の強い瞳を一瞬だけ煌めかせたと思ったら背筋に嫌な汗が伝った。
 確信はない。けれども瞬時に理解した、理解させられた。彼の嘘つきな唇から愛が囁かれるとき、それはさようならの合図だと。
 だから私はヒソカから逃げたのだ。血で汚れる仕事からも足を洗って、真っ当な仕事について、ヒソカに出くわすことなんてないように。ヒソカから、甘くて優しい世界一残酷な薄っぺらい嘘を聞かなくていいように逃げ出したのだ。
 それなのに。
「おかえり
「……どうして」
 どうして彼は私の家にいるのだろうか。
 鮮やかに赤い髪を後ろに撫でつけて、見慣れた笑みを浮かべて部屋の中央に立っている男はまごうことなく私が逃げ出した男だ。
「奇術師に不可能はないの
 うるさい。そんなことはわかっている。鍵はかかっていたはずだとか、どうやって此処を突き止めたのだとか、そんなことはどうでもいい。ヒソカがやろうとして不可能なことなど、おそらくないに等しいのだから。
 私が知りたいのは、なぜ、ヒソカが私の元に来たのかだ。
「今日はバレンタインデーだろ
「そうだね」
 それがどうした。私達の間にはそんなものなんて必要ないし、なにより私はヒソカなんてもう好きでいたくない。私のものにならない男とこれ以上一緒にいたくない。それなのにいまさらなんの用だ。
 ピッと、私の手首にぶら下がった紙袋を指してヒソカは言った。手元から仄かにチョコレート特有の甘いに香りがした気がした。
「バレンタインデーは好きな相手にチョコレートをあげる日じゃないのかい?」
「そうだとして、ヒソカにはなんの関係もないでしょ」
「うそつきだね
「ヒソカに言われたくない」
 クツクツと、喉の奥で笑う陽気なピエロ。貼り付けた笑みを崩さないくせに、瞳だけはいつだってなにもかも見透かしていて憎らしい。
「アリスはボクが好きだろ? だからもらいに来てあげたんだよ
 自信過剰、離れてどのくらい経ったと思っているのか。そう言ってやりたい。言ってやりたいのに、ワナワナと震える唇が仕事をしてくれない。いけしゃあしゃあと言ってのける、余裕たっぷりの表情が憎くてたまらない。「素直になれないキミのためにサービスだよ」なんて、続けざまに発して距離を詰めてきたヒソカを見上げるしかできない。
 骨張った指先が私の頬を撫でた。外の冷え切った空気に晒されていた頬には、つぅっと滑るヒソカの指が温かい。
「……ヒソカは私のものにならないじゃない」
「そうだねぇ ……でも」
 また、ひとなで。指先で擽るように頬を行ったり来たりして、大きな体躯を屈めて顔が近づいた。艶やかな唇がよく見えて、それがうっすら開いたらヒソカは言うのだ。
「ボクはアリスのものじゃないけど、アリスはボクのものだ
 ケージから脱走したペットを優しく諭すかのごとく、ゆっくり、はっきりと。全身に纏わりつく声が静かに鼓膜に響いては脳に流れ込んでくる。そうして息をひとつ吸えば、距離が近いせいで彼の吐息が顔にかかって、次の瞬間には雷に打たれたみたいな衝撃が走った。
「手放すかどうかはボクが決める」
 キミが決めることじゃないんだよと、頬にあった指先が顎に移動してクッと支えてくる。見上げていたはずの顔がさらに上を向いて、首が傾いて、それ以上は下げられなくなってしまう。
 私には逃げ出す権利も与えてもらえないのか。どこにも属さないこの男は、属さないくせに離してはくれないのだ。
 なんて、酷い男なのだろうか。
 そんな酷い男なのに、彼がまだ手放さないとここまでやってきた事実が、逃げ出す前の私に連れ戻す。どれだけ離れても狂おしいほどに求めてやまないと突きつけられる。胸を掻きむしりたくなるほどに悔しさと切なさが込み上げて、ぎゅうっと掌を握りしめてたらため息が聞こえた。
「これでも足りないかい? 仕方ないね
 指先がわずかに動いて、顎にかかる力が増した。
「予知してあげるよ、アリスはそれをボクにわたす……ボクの予知は外れない
 目線だけで手首の先にぶら下がった紙袋を見た。ヒソカとチョコレートと私。逃げ出した私と逃がしてはくれない男。いつぞや一緒に食べたものが同じ空間に揃っている。

「お膳立てはここまでだ

 愛を囁かないうそつきが、愛をよこせと嘯いた。


パチパチ👏
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