ただいまを聞かせて



 病めるときも健やかなるときも、自由なあなたを見送るの。


 月明かり照らす道を歩いて帰路に着いた。眠っている街並みの中、鈍く光る目の前を黒猫が横切って止まり、可愛いなと屈むとそっぽを向いてどこかに行ってしまった。野良猫だろうか飼い猫だろうか。どちらであっても他人には懐かないんだろう、そう思って立ち上がり歩を進めた。
 家の前に着けばドア横の小窓から室内の灯りがぼんやり白く見えて、ヒソカが来ていることがわかる。合鍵を渡しているのは彼だけだから他の可能性はない。
 ──そういえば今日は闘いデートだって言ってたっけ、終わったのかな。
 鍵を開け、玄関に入って今日も一日履いてくたびれた靴を脱ぐ。鍵をかけたら錠の落ちる聞き慣れた金属音が帰宅の合図。いるとわかっていても、ただいまは言わない。いってらっしゃい、いってきます、ただいま、おかえり。そんな、ここが帰ってくる場所だというような台詞を言うことはしてこなかった。
 ヒソカは自由だから。気まぐれで嘘つき、誰よりも自由で、どこにも属さない彼を縛る台詞を言えるほど私は強くなかったのだ。
 視界には奇術師スタイルの時のヒソカの靴があって、闘いデート終わりにそのまま来たことがわかるのだけど何か違和感がある。違和感の正体を探ろうと思うも、もっと、それ以上にいつもと違うことに意識がいった。
 ヒソカが来ないのだ。
 彼が私の家に来ているとき、普段であれば奥の部屋から廊下に出てきて、帰ってきた私を迎えてくれる。ときには食欲をそそる香りが廊下に漂っていて、ほんの少し戯れつつ廊下を進んで部屋に入るのが常だった。
 明かりはついているのにシンと静まり返った廊下を眺め、なぜだか心臓の音が大きくなった。まるでこの先に恐怖が待ち構えているとでもいうように、ドクンドクンと、胸の表面が上下する勢いで脈打っては止まる気配がない。
「ヒソカ……?」
 廊下を進んで部屋に入ればヒソカはいた。ベッドに深く腰掛け、右手を上げて手を振るヒソカがそこにいた。
「やぁ
「来てたんだね」
 赤髪はオールバックに、頬にはペイント、いつもの奇術師の格好をしたヒソカだ。間違いなくヒソカなのだ。それなのになぜだろう、一種の胸騒ぎとも言えるこの感覚は。
 雑誌に載ってる間違い探しみたいに目を凝らして彼を見つめても答えなんてものは出てこない。動かずただこちらを見つめる金の瞳と目が合うだけで、えも言われぬ感覚に陥って私は彼に近づいた。
 座ったままのヒソカの正面に立って見下ろせば、人を食った貼り付けた笑みがこちらを向く。謎解きゲームだよ、そう言われている気にすらなって、私は違和感と焦燥と困惑の根源に言い放った。
「なにか隠してるよね?」
「勘がいいねぇ
 馬鹿にしているのか。これほどまでにいつもと違うくせに、わからない方がおかしい。気づいてくださいとアピールしているほどじゃないか。
 そう文句を言うのがいつもの私だ。だけど今日のヒソカがいつもと違うから、なんだか私まで調子が狂ってしまったみたい。ヒソカに聞こえてしまいそうなほどドクドクと暴れる鼓動と共にただじっと、ヒソカの次の行動を待った。
 肩をすくめて、けれども決して困っていない顔でヒソカは笑う。ゆるやかに口元に笑みを浮かべて、顔に手を当てて。そうして次の瞬間、私の喉の奥でひゅっと空気が止まって、頭の天辺から指先まで雷に打たれた気さえした。
 瞬きすらできやしない、身体機能が一時停止する中で代わりに脳裏に浮かんだのは鮮明な映像だった。
『ようやく彼と闘えるんだ
 そう言っていつものようにトランプで手遊びしながら笑っていたヒソカだ。一段、二段とタワーを作っていって、完成したら指先で突いて崩す。「楽しみだなぁ」と。あのときの彼は、ずっと欲しかった玩具を与えられた子どものようだと思った。私よりもずっと大きな身体の持ち主であるヒソカを、可愛いと思った。
 おおよそ可愛いとはかけ離れた見目である目の前の成人男性を、可愛いと思う。なぜそう思うのか、その心理を私は知っている。
 妖しく光る切長の目元も、男性らしい額にすらりと伸びた鼻筋も、形のいい艶やな唇も、骨張って大きな器用な手も、全部全部大人のそれなのに。あの瞬間だけは無邪気な子どものようだと、そう愛しさが募ったのだ。
 なくなっていた。
 鼻も、唇も、左手の指も、右足も。
 ヒソカの一部分が、欠けてしまっていた。
 私の愛しい彼を形作るカケラがこの世からなくなってしまっていた。
 玄関での違和感はこれだったんだと、どこか冷静な頭が教えてくれる。
 ヒールもペタンコの靴も履くけれど『お楽しみ』の時に履く爪先が上に向かって尖った靴。
 片足分しか置いてなかったね。
 高い鼻筋は見る影もなく抉れ、ツンとしていた唇はなくなり歯が剥き出しだった。左手の指は根本からなくなって、右足はもう地面を踏むことはない。服もボロボロで首回りも酷く損傷していて、血は止まっているけれどそれもきっと、いまなお彼の能力で止血しているだけなんだろう。
 一歩、踏み出した。
 腰掛けた彼の前に立っているのだから近づかなくても十分に近かったのだけれど、それよりももっと近くに。
 ただ、そばにいきたかった。
 左脚と一部が欠けてしまった右脚、ヒソカの膝の間に立って見下ろせば、それに合わせてまた首の角度を変える彼と視線が絡んだ。どことなく熱を帯びて、試すかのような鋭い視線が注がれた。
 擦り傷と打撲と火傷、たくさん怪我してる頬をそっと包めば、普段と違う感触がする。滑らかな皮膚ではないその感触に、ああやっぱり能力で傷を覆っているのかと納得してしまう自分もいて、同時に掌に伝ってくる熱に安堵した。一部で済んでよかったと、喉から搾り出す声が震えてしまう。
「ばかねぇヒソカ……」
「……
「ほんとばか……」
「……うん
 うん、だなんて、思ってもないくせに。
 立ったままの私の腰にヒソカの両腕がまわされる。筋肉質で逞しい長い腕だ。私を抱きしめる腕だ。何度も繰り返し私を閉じ込めた腕だ。だけど一部がなくなってしまった手だった。腰に伝う感覚がそれを嫌というほど思い知らせてくるから、頬を包む両の掌に力がこもった。
「……デートは楽しかった?」
「そうだね、楽しかったよ
「そう」
 楽しかったのねと、頬の傷のない場所を親指で優しく擦れば「でも」と続きが聞こえてきた。
「ちょっとだけ不完全燃焼かな
 そう言って、ニコリといつもみたくヒソカは笑う。目を細めて、口の端を吊り上げて。けれども唇がなくなって歯が剥き出しのせいか、その姿は満面の笑みを浮かべているようだった。だけど少しだけ、ほんの少しだけ不満気に金の瞳が揺らめくのを私は見逃さなかった。
「そっかぁ。じゃあ……また遊びに行くのね……?」
「うん
 この「うん」は本気の肯定。
 心臓がきゅうっとして、僅かに息が詰まる。また行ってしまうのかと、あなたの一部を失うほどの相手の元にまた行くのかと、引き止めたくなった。
 ヒソカが怪我をしてやってくるのは初めてじゃない。「結構楽しめたよ」なんて言って、普通であれば何針も縫う大怪我をしてきたことだってある。取れた腕を再度くっつけてきたこともある。そのたびに馬鹿じゃないのと私は泣き喚いたものだ。
「馬鹿はもう聞いたけど泣かないのかい?」
「泣けないみたい」
「おや、どうしてだい?」
「わかんない」
 うそ。わかってる、でも言わない。クツクツと喉を揺らすヒソカを見つめ返せばきっと彼もそれはわかってる。
 だってそうだろう。彼は本当なら隠していられるのだ。なんのことだい? なんてすっとぼけて嘯いて、私の問いをはぐらかすことだってできたのだ。それなのに私にそれを見せてくれた意味を考えれば、泣くなんてことはしたくなかった。
「気持ち悪くないのかい?」
「ないよ」
 その秀でた額に、唇を乗せた。くしゃくしゃになっている髪を撫でて、そっとそっと。そのまま鼻筋にずらして、幾度となく触れた本来あった輪郭をなぞればそこにあるのは無だ。
「……痛くない?」
 恐る恐る、問うた。いくらヒソカといえど傷口だ。彼は怪我をしてもなんともない顔をするけれど、決して痛くないわけじゃない。人間だから。耐えられるというだけなのだ。だから、触れ合うときは彼の傷に触れずにきた、いままでずっと。だけど今日だけは許してほしい。
 受け止めろと、たった一言を言葉なくぶつけてきたあなたを受け止めたい。
「キミに触れられるくらい平気さ
 そう言って指なき手で私の頬を優しく撫ぜるから、その温もりにいま確かにここにいるんだと、溢れて突き動かされるまま剥き出しの歯に熱を落とした。



 くちづけを交わしたら堰を切ったようにヒソカが動いた。耐えていたと、確認は終わったとでもいうようだった。唇のないキスは硬くて、食まれる上唇と下唇に鈍く痺れる痛みが走っては思った。
 そのまま噛みちぎってあなたの唇にすればいいのに。
 無理なことだが願わずにはいられなくて、食まれるたびに何度押し付けても与えられるのは温もりだけだ。
 座ったまま触れる手も抱く腕もいつも以上に力強く、それは身体が損傷するほどのダメージを負った彼の雄としての本能なのだろうと、立ったまま身を任せた。獣の交尾なんて見たことはないけど、きっと負傷した獣はギラギラと渇きを潤そうとするんだろう。だけどヒソカは少し違う。いつだってギラついた瞳の奥に隠そうともしない劣情を帯びて、絶え間ない口づけを注いでくれる。
 だけどひとつだけ私は譲りたくなくて、私を抱えようとしたヒソカを静止した。
「私が……する」
 そうしてヒソカに跨った。愛おしみたいと、慈しみたいと。
 聖母マリアにはなれるはずもないのに向かい合って満身創痍の身体を抱きしめた。広い背中にうんと手を伸ばし、無き唇に舌を這わせて、傷だらけの首筋に頬を寄せて。そうする私にヒソカが触れるから、指の切れ目にくちづけたら堪えきれずに涙が溢れた。
 ボロボロ、ボロボロ、意に沿わない体液は止まり方を忘れて流れ、視界が霞み揺れて息が苦しくて、それでもなおやめない私にヒソカが言った。
「やっぱり泣くんじゃないか
「泣っ、いて……ないっ」
 嘘つきはヒソカの専売特許だ。だけどいまは私にも使わせてほしい。堪えきれなかった私を見て見ぬふりするくらいの余裕はあるでしょう? 
 頬を伝う涙をヒソカの舌が舐めとり、生ぬるい感触が走った矢先に視界が反転して、背中には柔らかなシーツの感触があった。すぐさま状況を理解してイヤイヤと身を捩るも、力強い腕と体重で押さえられたら私に成す術はない。
 私がしたいの、全身で愛しんで伝えて慈しみたいの。
 もう顔はぐしゃぐしゃだった。上がった体温でかいた汗と堰き止められずに溢れた涙と、繰り返したくちづけでどろどろだった。それでも必死に身を捩って抜け出そうとすれば、荒い吐息が耳にかけられたのだ。
「わかってるよ
 息がまた詰まる。ただでさえ嗚咽でままならない呼吸が詰まって、喉がひりついた。
 たった一言だった。その一言があまりにも熱くて、掠れた声が蕩けそうなほどに甘くて、ずるいと歯を食いしばり口の端をキュッと結んだ。それなのにそれすらも、続く傷ついたくちづけに暴かれてしまうから。
 わかってはくれているけど、いまのヒソカには物足りないのねと、涕泣とくちづけで脳に酸素が足りていない、朦朧となりつつある頭でぼんやりと思う。
 ならば受け止めることが私にできる愛し方だと、その手負の獣に腕を伸ばした。
 
 
 
 ***
 
 
 
 カーテンの向こうはまだ薄暗い、日の出と共にベッドの上で意識が浮上した。隣に眠るヒソカはいない。気だるい身体に鞭を打って寝返りを打てば、ベッドから降りて服を着ている最中の彼がいた。
 顔も手足も戻った一部が欠ける前のヒソカの身体を見て、ちくりと胸が痛い。ああもう行ってしまうのかと、ただじっとその動作を眺めた。不思議と何も頭に浮かんでこないのはきっと充分すぎるほどの熱量を注がれたからだ。
 ふいにその背に浮かぶ朱線に目が止まった。身に覚えのあるそれは薄く色づき主張して、全身が綺麗に戻された身体に酷く目立つ。
 他の傷は全部ないのに。
「どうして……?」
 最後の一枚を着て振り返ったヒソカは目を細めた。見慣れた、慣れ親しんだ表情にこれは作り物なんだと思えばまた鼻の奥がツンとする。
「どうしてだろうね
 教えてあげないよ、そんな意地悪なニュアンスを含ませて彼は横たわったままの私に近づいてくるのだ。ゆっくりと近づいて屈んで、そうして名を呼んだ。
「アリス」
 頭を撫でてくる右手はいつもの右手。逞しい腕から続いた大きな手に長い指、その感触に甘えていたらヒソカの口が見たことのない形を刻んだ。

「行ってくるね

 ずっと張り詰めていた何かが切れた私は泣いた。認めるしかないほどに声を上げて泣いた。わんわんと泣いて、泣いて、溢れて止まらなくて哀哭した。
 立ち上がり進むヒソカは振り返らない。
 だから必死に振り絞った。
 その背中に初めての言葉を送るのだ。

「いってらっしゃい」


パチパチ👏
  - back -  
TOP
- ナノ -