アイラブユーを聞かせてよ



 世間では中秋の名月と呼ばれる日だったらしい。この日が満月となるのはたしか8年ぶりで、人々は大層賑わっていた。
「まぁもう日付も変わっちゃったんだけどね」
 だれもいない、灯りを消した部屋でひとり、ぽつりと呟いた。窓越しに見える空は雲に覆われていて、月も星も見えやしない。見えていたとして、きっとこの心は晴れやしないのだ。
 どうせ今日も来ないのだろう。そう思って、帰り道で見かけたお月見セットなるお団子の特売品も買わなかった。いつだって気まぐれで神出鬼没で、ふらりとやってくる。ヒソカという男は、イベントなんて興味のない男なのだ。けれども、なんでもそつなくこなすのも、なんだかんだと結局はわがままを叶えてくれるのも同じ男なのだ。
 そんな彼の甘さを知っているから期待してしまう。もしかしたら……なんてことを思っては頭を振ってやり過ごす。
「月が綺麗ですね、とか言ったら笑っちゃうんだけどな」
 某作家はアイラブユーをそう訳したと聞く。その訳をあの奇術師が口にすることを想像して苦笑いだ。似合わない。似合わないのに、ヒソカは歯の浮きそうな台詞だって恥ずかしげもなく言う男で、なぜだか似合ってしまうのだから意味がわからない。
 そんな男をいまかいまかと未練たらしく待ちわびて、時計の秒針が一周する程度の間隔で窓を眺めていたけれど、もういいや。そう思ってカーテンを閉めようとしたときだ。
「お団子買ってきたよ
 ──ああ、ずるい、ずるいずるいずるい。窓のむこうからノックする貴方が憎らしい。曇天を背景に、何食わぬ顔で現れるヒソカは柔らかに笑っている。その顔を見ると憎らしさも寂しさも消える自分が馬鹿らしい。
「来ないかと思った」
「来る予定はなかったんだけどね
 室内に招き入れると丁寧に靴を脱ぐヒソカを見れば、言葉通り手には何やら紙袋がさげられていた。
 ところどころ、スートの描かれた服についている汚れは血なんだろう。見た感じではあるが、怪我はしていないことにほっとした。どうせまたどこかで一狩りしてきた後だ。
「じゃあなんで来たの」
 来てくれて嬉しい、そんな一言も出ない私は可愛くない。だけど無理なのだ。この男を前にすると、甘えていいのかわからなくなるのだ。
「キミ、こういうイベントしたがるじゃないか
「月出てないけどね」
 ほらまたひとつ減らず口。あまのじゃくな唇は、空回っていつだって彼との距離がつかめない。
「月より団子って言うだろ
「それをいうなら花より……っ」
「よく噛みなよ
 紙袋から取り出した串団子を、口に突っ込まれてしまった。ヒソカに持たれたままの串を受け取って、咀嚼する。広がる甘さと風味はほどよくてとても美味しい。私が見かけた特売品の団子だと、きっとこんな味はしなかったはずだ。
「美味しいかい?」
「……うん」
 溢れた言葉にほっとした。せっかく来てくれたのに、心にもないことばかり浴びせることはしたくなかった。美味しいよ、そう続けてもう一口頬張ると、クツクツと喉の奥で笑うヒソカの音がする。
「それはよかった
「ねぇ」
「なんだい?」
「ヒソカはアイラブユーをなんて訳す?」
 キョトンと、切長な目が一瞬丸くなったから、某作家の話をしてあげた。こんなどうでもいいことでも、彼は気まぐれに聞いてくれるのだ。そんな彼が好きだ。約束なんていらない。いつきてもかまわない。好きだなんて言葉もいらない。ただ、こうしてたまにでいいから私を見てほしい。
 そんなことは口が裂けても言えやしないから、お団子と共に飲み込んでしまって、説明した。すると聞き終えたヒソカは少し考えて、ニィッと口の端を釣り上げて、笑った。

 なにもかもお見通しだと、そんな顔だった気がする。

「そうだね、ボクなら……」
 屈んで私の耳元で囁く声はいっとう甘くて、顔が熱くなるものだから、満月を覆った厚い雲に感謝した。


パチパチ👏
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