教えてヒソカコーチ!



 額に汗が滲み、歯を食いしばって耐えてを繰り返す。脚と、お腹と、背中、筋肉が収縮して悲鳴をあげる。
「っ、んんっ……」
 両腕は脇を締めて身体に沿わせ、首から下の全身を使って上下に動いて、止まって、動いて。苦しくて息が詰まりそうになるけれど、ゆっくりと落ち着いて肺に酸素を送り込んだ。
「……はぁっ」
 そんな私を、ヒソカは眺めてる。リビングの椅子に腰掛け、テーブルに頬杖をついたまま、何を言うわけでもなくまるで私を観察しているみたい。長めの赤髪の隙間から、少しだけ興味深そうに目を細めてじっと、ただじっと見ていた。
「ふっ……」
 食いしばった口の隙間から苦し紛れの声が漏れ、滲んでいた汗がたらりと顔を伝った。顔だけじゃなくて、背中も、胸元も、だいぶ汗が滲んでいると思う。
「ねぇ
「……んっ?」
「何してるんだい?」
「っ見て、わからないっ?」
「スクワットなんだろうなとは思ってるよ
 相変わらずのニヤけた顔で、ヒソカがゆるりと立ち上がって近づいてきた。
 それに合わせて私も一度動きを止めて、首にかけてあったタオルで汗を拭う。インターネットで聞き齧った知識を詰め込んだ、私的にはとても効果があると思っているスクワット。このスクワットを始めて今日で4日目だ。そういえばヒソカの前でトレーニングをして見せたのは初めてな気がした。三日坊主にならないようにと、ヒソカがうちに来ているにもかかわらずに今日分のノルマを始めたのだ。
 ちらりと、目の前の彼を見た。筋肉質で引き締まった身体、無駄な脂肪なんて一切なくて、どこから見ても綺麗で、同じ生身の人間なのかと思ってしまう。きっと、ヒソカにはわからないだろう。
 弛んだ腹と脚の持ち主の気持ちは。
 べつになにも、ボンッキュッボンのナイスバディになりたいわけじゃない。そこまで高望みはしていない。ただそれでも、目の前のこの美しい男の隣に立つのに、少しでも自分を恥じたくないと思っただけだ。そんな見栄から始まったダイエットだ。
「もう一度やってごらんよ
 腕を組んで首を傾げ、私に促す。言われなくともそのつもりだった。まだ今日のノルマは終わっていないのだから。
 脚を肩幅に開き、脇を締めて、膝を曲げる。たぶん角度は90度よりもっと深くて、少し前屈みでお尻を後ろに突き出すような形。そこで少し止めて、ゆっくり戻る。どこもかしこもきゅうっとなって、痛い。これが全身に響くくらいに苦しいのだ。
 それなのに、その動作を二回ほど繰り返すと、ヒソカは告げた。嘲笑うわけでも、咎めるわけでもなく、いつも通り口元に笑みを浮かべて。
「んー、そのやり方たぶん効いてないよ
「……え? でもすごくきついよ?」
 腿、腹、背、尻、全身に力が入って筋肉を使っている気がする。これで効いていないなんてことがあるんだろうか。頭に疑問符を浮かべて続けると、目の前の大きな体躯が揺れて組んでいた腕が解かれた。
「姿勢が悪い
 ゆらりと私の正面から隣に移動して、トンッと、長い指が額と背をそれぞれ同時に突く。
 わずかに目を見開いてしまった。
「猫背になってるんだ
 私はいま非常に貴重な体験をしているに違いない。
 あのヒソカから、スクワットのやり方を教わっている。
 その事実に、先程ちらと眺めた彼の身体を思い返し、喉がごくりと鳴りそうになる。きっといつもの気まぐれなのだろうけれど、あの肉体を手に入れている者から手解きを受けるなんて、効果があるに違いない。
 近くなった距離に、己はいま汗臭くないだろうかと不意に過ったが、それは一瞬で頭から掻き消した。せっかくヒソカが教えてくれている、こんなチャンスはありえないのだから、恥ずかしがるのは後だと、彼の声に意識を集中させた。
「姿勢は真っ直ぐ、頭の天辺からお尻まで一本になるように、肩甲骨を寄せて目線は前 腕は慣れないうちは頭の後ろで組むか前に伸ばすといい
 薄い唇が動いて、指導が始まった。
 額を突いた指は顎へ移り添え、背を突いた指先は、汗で湿った背中をなぞる。トレーニングウェア越しに、ゆっくり腰へ向かって上から下へ、つーっと。その感覚は慣れ親しんだ彼の触れ方だ。聞き取りやすいテノールの声は、インターネットで見た動画よりもすんなりと頭に入ってきて自然と言われるがまま身体が動いていた。
 ヒソカの指に従って、背筋がピンと伸びていったのが自分でもわかる。
 両手を顎と腰から一度離し、ヒソカは屈んで膝をついた。
「あと曲げ方もおかしいね
 膝と腰を、またトンッと指で突く。
 それを合図に、私もまた背中から膝と腰に意識を持っていった。
「膝を曲げるんじゃなくて腰を落とすんだよ 膝はそれに後からついてくる
 腰に触れるヒソカの面積が拡がって、掌が添えられると共に柔らかに力が伝わってくる。決して強くはない、促す程度の強さ。その強さに腰を下に引くように押されて従えば、私は絶句した。
「90度くらいでいいよ、膝は爪先より前に出ない 苦しいなら最初のうちはもう少し浅くても構わない
 間違いなく、私の身体はヒソカの補助ありきでその場にあったのだ。
 押したばかりの腰を今度は下から持ち上げるように。腰につられて曲がった膝裏の少し上、太腿の下に腕を入れて、それ以上落ちないように。
 そうして補助を続けて「キミなら……はじめはゆっくり3秒くらい止められると充分かな」と言ってのけるではないか。
「……っ」
 止まっているのは身体ではなく呼吸だこれは。
 背中の筋が張って引き攣る、静止しようとすればするほどお腹に力が入って苦しい。息をする余裕なんてなかった。全身が熱く汗が吹き出しそうで、脚がブルブルと震えているのがわかる。
 きついなんてものではなかった。さっきまで私が味わっていたきつさなんて比べ物にならないし、これが正しいスクワットだというのならば、私がやっていたことはスクワットに見せかけた何かだったんじゃないだろうか。
「まだだよ
 3秒経って、耐えきれずにすぐさま立ち上がろうとした私を、腰を支えていた手が静止した。
「上がるときもゆっくりだ 落とすときと逆で膝から伸ばして腰を上げる ……姿勢は崩さない
 いつの間にか前のめりになりつつあった私を、ピシャリと一言で姿勢を戻させる。話し方も声のトーンも、普段と全く変わらないはずなのに感じる圧は、俗に言うスパルタコーチを彷彿させた。
 息を詰まらせていたせいで顔が熱く、心臓が慌ただしく脈打って全身に血液を送っている音がする。ようやく体勢を戻せたころには肩が上下していた。
 そんな私を、床に膝をつけたままのヒソカは見上げる。
「肩幅くらいに脚を広げるのは間違っていないよ
 にっこりと笑う彼の瞳が光る。照明に照らされて主張する金色は、どうやら唯一できていたことを褒めてくれたらしい。
「これ、何回やればいいの……? 私昨日まで20回3セットだったんだけど」
 もしこれを同じ量をやれと言われたら、確実に根を上げる自信があった。いや、根を上げずとも、先に脚が保たなくなることだろう。現に立ち上がった脚にはいまもなお余韻が残っていて、ほんの少し曲げれば己の意志とは関係なく揺れを起こしているのだ。
「同じだけ……と言いたいところだけど、3秒10回で充分だよ
「そうなの?」
「続けられなかったら意味がないからね
 柔らかに目を細め、立ち上がりヒソカは続けた。
「それができるようになったら2セット3セットと増やせばいい それもできるようになったら次は5秒10秒
 見下ろしてくる長身から生えた長い腕が伸びて、私の首にかけたタオルをとった。額に浮かんだ汗を拭い、張り付いた前髪を避けてくれる姿はもうさっきの鬼コーチではない、いつもヒソカだ。
「ダイエットかい?」
「……ちょっとだけ」
 鍛えているだけだと誤魔化したかったけれど、そんなことを言ってもきっとヒソカにはお見通しだから正直に答えてしまう。そんな私にヒソカはいつものようにクツクツ喉を鳴らしていた。
「きつかったけどすごくわかりやすかった、ありがとう」
「そのままでいいよって言ってもアリスは聞かなさそうだったからね
 拭い終わったタオルを首に戻されたかと思えば、今度はその腕が腰を抱いた。引き寄せて、まるで感触を確かめるように密着して、熱い。
「変な筋肉の付け方はしないでおくれよ 抱き心地が悪くなる
「……そういうこと」
 なるほど。
 気まぐれだとしてもやたら丁寧だと思ったのだ。合点がいった。どこまでも自分本位なこの男は、おそらくやめろと言っても続けるであろう私に正しいやり方を指導したらしい、彼自身の欲のために。
 けれどもそれがヒソカらしくて、さっきの鬼コーチを思い出して少しだけ笑ってしまう。
「それに、そんなに痩せたいならボクが何時間でも協力してあげるよ
 何時間もはさすがに続けられないよ、そう口を開こうとすると、切長な目元が妖しく弧を描き、耳元に唇を寄せてヒソカは囁いた。

「もっといい運動があるよ

 彼の言う運動とはいったいなんだろうか、理解するのは3秒後。


パチパチ👏
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