その女、嘘か真か知る由もなく



「ボク、奥さんいるからさ

 その一言はいまだかつてないほどの衝撃を放った。頭を鈍器で殴られたようだとか、鳩が豆鉄砲を食ったようだとか、そんな言葉では言い表せないほどの威力を持ってその場を支配した。強化系念能力者の打撃でも、これほどまでに衝撃を起こすことは難しいとすらも感じる。もしこれが漫画なら、背景には雷が落ちてその衝撃を表現していたことだろう。
 ヒソカはオールバックに流された髪を揺らす。頬に施されたペイントは雫と星に違いなかったが、細められた金色の目元と相まってご機嫌な音符のようだ。いつも嘯く口元にいたっては、本気かどうかもわからないニンマリとした笑みが携えられていた。
 幻影旅団の今日の仕事はマフィアからお宝を根こそぎ掻っ攫うことだった。待機メンバーは仮アジトにいるものの、実働メンバーは全員参加で侵入も強奪も滞りなく進んだものだ。出てくる埃の掃除・・も難なく終了。何も変わりない通常運転で、一仕事終えたら宴だと騒ぎだす。酒だつまみだと盗み、はたまた購入して仮アジトで宴会コースだ。
 瓦礫が散らばる廃墟を仮アジトにいているため少々埃っぽさは否めないが、これよりも悪環境で過ごした過去を持つ者たちからするとなんということはない。各々が手頃な瓦礫に腰掛け好きな酒を片手に談笑し、時折怒号が飛び交いマジギレ禁止の声が上がる。
 そんな中、その場を横目で眺めてふらりと去ろうとするヒソカへクロロは声をかけたのだ。団員達が座る輪の中から、お前もたまには飲んで行ったらどうだと。ヒソカと交流がしたいと思ったわけではない。ただ、あわよくば得体の知れない男のことを見る機会にもなると目論んだ。
 ヒソカは他の旅団員から快く思われてはいない。ヒソカの気質や態度では仕方ないとも言えるし、気まぐれさをクロロが好きにさせているというのも気に入らない要因だろう。おそらくヒソカ本人にもわかっていることだ。そのため談笑していた団員たちから不満げな雰囲気は出たが、言い出したのはクロロであるため特に反論もなかった。
 するとだ。
 ヒソカはひらひらと手を振りやめておくのポーズを取った。これまでに何度かこういったことはあったのだからなんら不思議なことはなく、クロロの想定内とも言えた。
 あわよくば程度で声をかけたため、これ以上引き止める理由もない。不参加を確認したので了承の返事をしようとクロロが口を開きかけたところ、ポーズはそのままにヒソカが述べた。
 ボクは遠慮しておくよと一言。そして顎に指先を当てつつ空中を見上げて、一瞬思案するかの仕草に続いて出た冒頭の理由。
 ボク、奥さんいるからさ。
 そう、妻がいるから帰ると宣ったのだ。
 戦闘狂の変態が実は家庭を持っていますと言っても驚くことはなかっただろう。しかし、その戦闘狂の変態がヒソカならば話は別だ。愛だの恋だの想像もつかない、ともすれば戦闘以外に興味があるのかすらも疑わしい。
「……少し確認しようヒソカ。オレの認識が間違いでなければ、オクサンとは妻。ようするに配偶者を指す単語だ。それともヒソカ、それ以外の意味を持つ言葉としてお前は使ったのかどっちだ」
 団員達の談笑は止んでいる。散らばる瓦礫に被った埃もチリも、今だけは舞うことも隙間風に吹かれることもなく、ヒソカの返事を待つために時を止めたかのようだ。
 確認するまでもないことだということは理解していた。奥さんを指すものは基本的にひとつしかない。あえて言うのであれば己の妻ではなく他人の妻を指し示す言葉ではあるが、世の中には他者との会話の中で己の妻を奥さんと呼ぶ者はごまんといる。誤用だ云々というのはこの際とるに足らないことだった。
 ヒソカはきょとんと目を丸くする。切長だったはずの目元が不思議そうで、まるでなにを当たり前のことを言っているのだとでも言いたげだった。しかしすぐにまた笑みを貼り付けてヒソカは続けた。
「もちろん前者だよ
 流星街出身のクロロとて家族というものの意味は知っている。けれども目の前の男がそれを持っているという情報はなかったし、なにより持ち得るような男ではないと思っていた。
 団員の家族構成を知る必要はない。しかも自分と戦いたがる変態ヒソカのものなど知りたいとも思わない。そんなものを知ってもどうしようもないとも思う。しかし考えてみるとどうしようもなくはなく、何かしらで使えるかもしれないと思考がまわる。情報とはより多くあったほうがいい。
 もとより得体の知れないヒソカのことをなにかしら得られたらいいと声をかけたのだ。引き出せるものは引き出しておくかと、ヒソカの台詞で一瞬バグを起こした頭の回路が切り戻り、クロロは持っていた酒を揺らして改めてヒソカをしかと見た。
 ヒソカの左手に目線をずらす。ちらりと向けた目線の先、骨っぽいゴツゴツとした指には当然だが指輪などは見当たらない。そもそも既婚者の全員が全員指輪をつけるわけでもなく、ファッションの一部としてつけて楽しむ人間だっている。
 わかっていながらもあからさまに目線をやるのは、一種のパフォーマンスだ。目の前の男は自他共に認める嘘つきで、一挙一動が侮れない。クロロのわずかな反応にどう返すのか、それをつぶさに観察するつもりだった。
 視線を受けたヒソカはなにが楽しいのか喉奥をクククと揺らし、同時に左手もぷらぷらと振り揺らした。
「ボクの奥さん、つまりボクの妻だね クロロの認識通りで合ってる ついでに言うと指輪はつけていないよ
「そうか。しかしお前に妻とは初耳だったな」
「初めて言ったからね 言わないといけないルールはないだろ?」
 ヒソカは揺らしていた左手を頭部へやり、少し落ちてきていた赤い前髪をくしゃりと撫で付ける。声のトーンは変わらないように聞こえるものの、自然と顎がツンと上を向くものだから高圧さが強調された。座ったままのクロロと立った状態のヒソカではなおさらだ。
「ああ。だが気になるな」
 何が、とはクロロは言わない。ここで言うのは愚かな選択だとわかっているからだ。得たい情報がある場合、何が目的なのかを初手で悟らせるつもりはない。明確にしたほうがいい場合もあるが、ヒソカが相手ならばそれは愚策に違いない。
 ヒソカは欲しがる相手に欲しがるものを素直に与えるような男ではない。相手がクロロならばなおさらだ。
 だがそれでも流れからヒソカの妻を指していることは明白で、クロロはヒソカの出方を待った。
「へぇ? あなたがボクに興味をもってくれるなんて珍しいこともあるものだね
 返答は想定内。クロロが何がとは言ってない以上、ヒソカの答えもおかしくはない。けれどもヒソカが明白であることに答えなかったという事実を得て、クロロはここでもう一歩踏み込むのだ。
 言葉遊びの土俵は、なにもヒソカだけのものではない。
「お前というよりもお前の女にだな。よほどの物好きに違いない」
「残念 まぁ否定はしないよ
 クロロは手の中にある酒をあおぐ。ひとくち喉を潤してまたヒソカを見ると、いつもの薄ら笑みが心なしか消えつつあるように思えた。
 さてどうするか。クロロが次の問いを脳内で構築したその瞬間だ。
「で、クロロは何が聞きたいんだい?」
 ピリッと空気に亀裂が入るのを肌で感じ取った。亀裂の発生源は間違いなく立ったままのヒソカで、全身が総毛立つのを感じるもクロロは何食わぬ顔で続けた。
「いろいろと聞いてはみたいが……そうだな、恋バナでもするか? 出会いはいつどこでから始めても構わないぞ。たまにはそんな肴があってもいい」
 わずかに肩をすくめおどけてみせ、ふ、と形だけの笑いを浮かべてみせる。ヒソカの言うことなど当てにならないとわかっているのに、そんな男の口から出た一言に興味をそそられた。知りたいという欲求は尽きないもので自分含め人とは本当に面白いと、故意に浮かべた笑みの中にほんの少しの本気を混ぜ込んでしまう。
 ヒソカの顔にくっきりと弧を描いた笑みが見える。両端を綺麗に吊り上げ目を細め、細められた目元の隙間から覗く眼光は鋭さを帯びている。
「やめておくよ
「そう即答してくれるな。他の連中は浮いた話のひとつも聞かないからな。そういうネタもひとつくらい聞いてみたいものだ」
「一問一答でもお望みかい? ボクは人見知りだからね、みんなの前で赤裸々に語るなんて向いていないのさ
 どこがだ。青い果実などと言って初対面の未成熟な人間の尻を追いかけ回したり、戦いたいと言って人をつけまわしたり、積極的に自分から他人に寄っていく人間のどこが人見知りなのか教えてもらいたいものだ。お前の人見知り発言を信じる奴がいるなら見てみたいとクロロは鼻で笑う。
 クロロのおどけに合わせたのか、ヒソカも肩をすくめてみせる。ご丁寧に両手を上げてお手上げポーズ付きだ。
 そしてずっと動かなかったヒソカの脚が動く。帰る向きではなく、クロロ達の方へ一歩一歩静かに近づいてくる。砂利の多い仮アジトの地面を進む音が耳に届いて、肌を刺すチリチリとした感覚が強くなりクロロは距離が近くなったヒソカをさらに見上げた。
「それとも……
 大きな体躯をゆらりと動かし、指先に出現するのは一枚のトランプだ。幾何学模様のそれを笑みの消えた口元に当て、ヒソカの目線の先は集まっている団員達で、絡みつく視線は一人に向けられた。

「パクノダにやらせるかい?」

 ヒソカが言い終わるや否や、背筋に緊張がぞわりと走った。どれだけ戦闘経験を積もうとも、いや、積んでいるからこそ感じとれるというものがある。立毛筋が収縮する、毛穴の周辺が隆起する、極度の緊張が一瞬にして全身の肌を粟立てた。
 先程の空気の亀裂とは比べ物にならないほどに張り詰める。チリチリとした感覚はもはや肌を刺すどころではなく、焦げつきそうなほどに熱く冷たく粘着質にまとわりついてくる。
 これだからヒソカを相手にするのは疲れるのだとため息をつきたくなってしまう。反射のように己が武器へ手を伸ばしそうになるもクロロは衝動を押さえ込んだ。
 面倒な男の面倒くさいところに口を突っ込んだか。はたまたこれすらもお得意のパフォーマンスか。
 ヒソカを纏うオーラはあからさまに増幅されていて、名指しされたパクノダはもちろん他の団員達も一気殺気立つ。仄暗い空気が立ち込めて一触即発の殺伐とした空間が出来上がる。散らばった瓦礫からカタカタと揺れる音がいまにも聞こえてきそうだ。
 各々が無言で武器に手をやる仕草を見とめ、パフォーマンスであれどうであれここまでだなとクロロは内心ごちた。
 クロロは動き出そうとする団員達を片手で制す。
「ヒソカ、殺気をしまえ。挑発するな」
「ボクは構わないよ
「団員同士のマジギレは禁止だ」
「マジギレじゃないさ 慣れない“恋バナ”にボクが恥ずかしがって戯れてるだけ
「そんなに恥ずかしいならべつに言わずともいい。お前の女にそこまでの興味はないし、聞いたのもたいして意味のない雑談のようなものだ」
 お前が自分のことを言うのは珍しかったからなとヒソカに向け、その後に団員達へ向けてだからお前達も武器を下ろせと指示をだす。
 それでもなお矛先を鎮めないヒソカへ、クロロはもう一度、今度は声に力をのせた。
「ヒソカ」
「……はいはい
 しかたないなぁとでもいいたげにヒソカがトランプをおさめる。おさめるといっても、どこから出現してどこにしまったのかは相変わらず手品じみたやり方だ。
 同時に空気もかわる。ねっとりとまとわりつく不快な雰囲気は消え失せて、元の少し埃っぽさのあるしとやかな空気が身をまとった。ぞわついた肌も落ち着きを取り戻し、団員たちから舌打ちは聞こえるもののその手らに武器はない。
「まぁ奥さんなんていないんだけど
「……またお得意の嘘か」
「そんな顔するなよ あなたが言ったようにボクもちょっとした雑談、本当は置き土産のつもりだったけどいい肴だっただろ?」
 悪戯っ子のようにニタリとしたヒソカはどこか満足そうだ。長身で見下ろしてくるそれはどこかおちょくっているようで、クロロの眉はぴくりと動く。
 置き土産というのはヒソカが去ったあとの話のネタのつもりだろう。それをクロロが捕まえて聞いたからこうなっていると暗に示されて、クロロは悪態を突き返した。
 本当に面倒臭い男だと思わずにはいられない。
「ちょっとした雑談で殺気立たれる身にもなってほしいものだな」
「悪ノリしちゃった
 のらりくらりと返すヒソカに効果音をつけるならテヘペロとでもいうのだろうか。じゃあボクは帰るよと今度こそ背を向け歩き出す。振り返らない背中を眺めて、クロロは口に手を当て思考を巡らせた。会話中にも、会話後にも、クロロの思考が休まることはない。
「いつものでまかせに決まてるよ。なに本気にしてるか」
「そうだよ。出るのが面倒だから適当なこと言ったんでしょ」
「あんなのに乗っかって険悪な空気にするのやめてくれよな!」
 視界の端で団員達の声を拾う。拾いながらもクロロはヒソカが出て行った先をいまだ眺めていた。
 でまかせ、適当、嘘。
 嘘まみれの男の声はすべて嘘に聞こえがちだ。実際に嘘のほうが多いだろう。自他共に認める嘘つきが仮に真実を言ったとして、本気にする人間がどれほどいるか。
 むしろ口にすることによって、嘘だとそんな真実はないのだと思わせる。何を言っても信じてもらえなくなってしまったオオカミ少年がいい例だろう。
 偽りを信じさせるには真実を混ぜるのが上等手段であるように、真実を信じさせないには偽りを混ぜるのも常套手段だ。そしてそれが常日頃からなら効果は倍増するのは言うまでもない。
「……どうだかな」
 古来から、木は森に隠せという。


パチパチ👏
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