等身大のお姫様



 建ち並ぶビルの隙間から見える月明かりが夜がふけたことを教えてくれた。繁華街なのにまばらになった人並みは、そろそろ家に帰らないといけない時間になったことを示している。
 閑散とする夜道はどこかもの寂しい。ときおり遠くから聞こえる酔っ払いの笑い声は楽しそうだけれど他人事。日中より冷たい風で体が冷えていくのは自分事。
 自分事で手一杯だった私は、この道の先にあるバーへ気まぐれな男を呼びつけた。
 顔を伏せて歩いていたらおろしたてのパンプスが見えた。ペーパー一枚分すらすり減っていない踵は真っ直ぐ伸びて、背伸びしたい私を姿勢よく立たせてくれる。華奢なハイヒールは足首から足の甲をスッと美しく飾ってくれていて、とんがったつま先はまるで行き先を教えてくれているみたいだった。
 でも、それだけだ。素敵な靴は持ち主を素敵な場所へと連れて行ってくれると誰かが言っていたが、恋人の家へ行き浮気現場に遭遇した後ではそんな話を信じる気にはなれない。気に入って買ったものだけれど御伽話のガラスの靴でもないこの靴は、王子様の元へ導いてくれることもない。そういった言い伝えや物語は、おはなしの中だけに適用されるものなのだ。

 何度か訪れたことのあるバーのドアを開ける。木造のドアに括り付けられたベルがカランコロンと乾いた音を鳴らした。店主はベルの音を聞いてカウンター越しにいらっしゃいませと迎えてくれ、それに会釈で返して私は店内の様子を窺った。
 店内は薄暗く、オレンジの照明がぼんやりと客を照らしている。朱の暗さというのは不思議と温かみを帯びていて内側から冷えていた体に沁みた。遠目ではなんとなくのシルエットだけを視認できるほどの明るさがいまの私にはちょうどいい。
 朧げな視界の中でも目立つヒソカを見つけるは簡単だった。どこにいても人目をひくヒソカは、こんなときすごく便利だ。
 鮮やかな赤髪は暗さの中ではくすむのに、あの存在感だけはなくせはしないのだとまざまざと見せつけられているみたいだ。
 きっとヒソカはそんなことを意識してはいないのかもしれない。する必要がないからだ。それでもあんなのの横にいたら自分まで人目をひいてしまうんじゃないかとふとした心配が頭を過ってしまう。
 けれども店内に疎にいる客はそんなヒソカに目もくれていないから、やっぱりこのバーの雰囲気はいいなと思うのだ。
 カウンターにいるヒソカは何を飲むわけでもなく一人腰掛けていた。ハイスツールでも足りない脚の先に見えるのは幾度となく見かけたことのある綺麗に磨かれたよそいきの靴だ。今日は前髪を下ろしているのねと、そのシルエットに近づいていく。
 控えめなBGMの中にパンプスが闊歩して、ヒソカは首だけでこちらへ振り向いた。
「おまたせ。呼びつけてごめんね」
「ボクもいま来たところだよ
 ヒソカの本来の瞳の色は金色で目つきも鋭い。だけど、このバーで見えるときはちょっとだけ違う。べっこう飴のように甘い眼光は、鈍色に光るオレンジの照明が素顔の目元にもたらす天然のメイクだ。
「先に飲んでてよかったのに」
 隣に腰を下ろした私を見てヒソカはくすりと微笑んだ。さらりとした前髪が揺れて、雰囲気にどことなく安堵する。ヒソカに対して安堵なんてものを感じるのはおかしなものだと思うけれど、私がヒソカに感じるのはいつだって安堵なのだ。
「そんな顔してるキミを放って先に飲むのはどうかと思ってね
 そんな顔とはどんな顔だというのはきっと言うまでもない。酷い泣きっ面だ。目は腫れぼったく、鼻は赤くなっていることだろう。遠目ではシルエットしかわからない薄暗い店内でも、隣の席では互いの表情がわかるほどだ。私にヒソカが見えているように、ヒソカにだって私が見えている。
 泣きっ面はヒソカにとっては想定内だったらしい。恋人に浮気されたからいまからヤケ酒に付き合えと、半泣き状態で連絡したのは私なのだから当然といえば当然だった。
「それで? 今度はどんなつまらない男だったんだい?」
 ヒソカは店主へ飲み物を二つ注文する。片方はヒソカのもの。片方は私のもの。何度目かになるともう慣れたもので、なににする? という会話はない。私が一杯目に何を飲むかなんてヒソカはわかっているし、私もヒソカが何を飲むかは知っている。
「私との約束も忘れてよその女と部屋でよろしくやってたクズよ。今度はってなによ……」
 まるでいつも私がつまらない男と付き合っているみたいじゃないか。
「アリスが恋人と別れるたびに話を聞いてるのはボクだからねぇ
「気が向いたときだけでしょ」
 悪態をつくも、それが私がヒソカに安堵する最大の理由だった。
 ヒソカは嘘つきだ。嘘つきだけど、自分自身には正直な男なのだ。気まぐれなヒソカが来てくれるというのは気が向いたということで、ヒソカは彼自身の意思のもとに私との時間を過ごしている。それが楽だと気づいたのはずいぶんと前だ
 気ままなヒソカには気ままに振る舞っていられる。背伸びはしなくていい。ヒソカを恋人にはしたくないけれど、友人として共にいるにはヒソカは私にとって都合の良い相手に違いなかった。
「そうだね だけどいまのところアリスの誘いには全部乗ってるだろ
「それは感謝してるけど」
 静かに手元に届いたグラスを片手で掴む。言葉もなくヒソカが私のグラスに近づけて、弾みでグラスの中で氷がカランと静かに泳ぐ。揺れた液体をひとくち飲んで、喉が湿ったら私は深いため息を吐き出した。
「重いんだってさ」
「キミがかい?」
「そう。いつもちゃんとしよう可愛くあろうとするのはすごいと思うし嬉しいけど、もっと隙があって可愛げのある女がいいんだってー」
「ずいぶんと見る目のない男だったみたいだ
 私よりも度数の高いアルコールを仰ぐヒソカは喉を揺らす。クツクツと笑うヒソカの音を聞いて、ただの相槌だとわかっているのにまた視界がぼやけそうになった。
 ズビッと鼻を啜って誤魔化すようにもうひとくち飲んでいたら、ヒソカが言った。
「ボクから見るとアリスは隙しかないけどねぇ
「ヒソカの前で取り繕ったってしかたないでしょ」
 背伸びして取り繕うのは良く見られたいからなのだ。その対象ではないヒソカの前で可愛くあろうとする必要はないし、なにより何もかも見透かす男の前で取り繕ったところで意味はない。
 ヒソカが見ているのは、いつだって武装の剥がれた私だ。
「はぁー……やっぱり御伽話みたいには上手くいかないんだよね」
「御伽話というと?」
「ガラスの靴のお姫様」
「なんとなく聞いたことはあるかな
 昔から御伽話のお姫様に憧れた。地味で目立たなくて、毎日大変でもいつかは魔法使いが魔法をかけてくれる。日頃頑張ってる女の子を認めてくれて、素敵なドレスとガラスの靴を用意してくれて、運命の王子様の元へと導いてくれる。そうして王子様に出会って永遠の愛を誓って幸せになる物語。
 現実に起こるはずなんてないから、魔法使いの役目は自分でやるしかない。だけどそんな夢物語に憧れるのは自由なはずだ。
 それなのにヒソカは私のささやかな憧れを鼻で笑った。
「ずいぶんと薄情なお姫様だね?」
「薄情?」
「それはもう
 ニタリと口角を上げてヒソカは嘲笑う。軽薄な笑みを絶やさずに、手の中のグラスを傾けて男性らしい喉元を揺らすのだ。
 お姫様のなにが薄情だというのか。日々頑張ってる女の子がお姫様になって素敵な王子様に見初められて幸せになったっていいじゃないか。
 だれに迷惑をかけたわけでもない憧れを嘲笑され薄情だと言われてしまっては、私は眉を吊り上げてどこがだと反論せざるを得なかった。
「よぉく考えてごらんよ
「全然普通だと思う」
 被せ気味に答えた私に、仕方ないなぁとわざとらしいほどに肩をすくめてヒソカは目元を光らせた。
「つまりアリスのいうお姫様は、ありのままの女の子を知っていて、その子の頑張りを認めてくれて、その子のために尽くしてくれた魔法使いよりも、その子のことをなぁんにも知らない男のほうがいいわけだ
 べっこう飴みたいだった眼光が細く鋭くなって胸がざわついた。ずいぶんと棘のある物言いをするじゃないかと。御伽話をそんな穿った見方をするなんてヒソカはどれだけ捻くれてるんだと思わずにはいられない。
 ニヤついたヒソカの顔なんていつものことなのに、今日に限っては馬鹿にされてるみたいでカッと頭に血がのぼるのが自分でわかる。
「魔法使いはおばあさんだから」
「へぇそれは初耳だね
 無意識に力のこもる声もヒソカにのらりくらりと返されて、ふつふつと湧き上がる苛立ちが私を頑なにさせる。
 最後のひとくちを飲み終えたヒソカのグラスがコースターに置かれて、合わせて私もグラスをコースターに置く。静かに置いただけのヒソカと違って、私のグラスの中は溶けかけの氷がぶつかった。
 泳ぐ液体がなくなった氷は音を立てて水を得ようとしてるみたいだ。
 わずかに鋭かったヒソカの目元がまた緩む。きっと私が不貞腐れたことに気づいたからだ。
「キミは御伽話の王子様と結ばれたいのかい?」
「……べつに。だってそんなの無理だもん」
「だろうねぇ そんなのは御伽話の中だけさ
「そんなのヒソカに言われなくてもわかっ」
「ボクにしときなよ
 グラスの中でかたちを変えた氷がもうひとつ。小さな、ともすれば聞こえないほどの音。それを合図に店主が中身の入ったグラスと替えてくれたのが視界の片隅で見えた。
 だけど、そんなことよりも。
「……は?」
「だから、ボク
 ヒソカのべっこう飴がとろりとしたはちみつみたいに見えて、頑なになってたはずの心もどこにいったのかわからない。完全に思考が停止する。
 新しい杯に手もつけずにヒソカは私へ腕を伸ばす。引き締まった腕の先にある大きな手、長い指が私の腫れぼったい瞼をふわりと擦った。
 その指先に、全神経が集中した。
 ヒソカに触れられたのは初めてだ。人から壊れもののように触れられたのも初めてだった。
 ドクンと脈打つ心臓がだめだと警報を鳴らす。頭の中で、ずっと見ないようにしていた箱の蓋が開きそうになるのがわかる。
 ヒソカは、だめだ。だめなんだ。
キミ女の子をお姫様にしてあげられるのはボク魔法使いだ」
 きっと、これは御伽話へのヒソカの皮肉だ。王子様なんて、大変身してお姫様になった後の女しか見ていないんだぞと。そのくらいのことは私にだってわかる。
 けれどもやはり私にだって言い分はあるのだ。御伽話に憧れた私としても、ヒソカの友人としても。たとえ頬に触れる手がどれほど優しくとも。
「魔法使いは永遠の愛は誓ってくれないじゃない」
「そうだね
「魔法使いにしか見られてないところたくさんあるんだよ」
「そうだろうね
「魔法使いの前で背伸びなんてしたくない」
 御伽話は好きだ。憧れだ。憧れは憧れのままであるべきで、憧れに夢を見ている間は見えないものがあって、見たくないものがあるから夢を見ることもあって。
 見たくないもの自らが視界に入ってきたら、人はどうしたらいいんだろうか。
 ありのままでいられる場所がなくなるのはつらい。私にとってヒソカは、楽に呼吸ができる場所だ。こんな自由な男を他に知らないのだ。
 王子様に振られてもヒソカが話を聞いてくれるからまた頑張れたことは、背伸びした私がいちばんわかってる。
 頭に浮かんだ一言は、意図せず溢れて視界を霞ませた。
「私からヒソカを奪わないで」
 なんと惨めな言葉だろうか。男に振られて、呼びつけ、慰めてもらうだけに飽き足らず。ヒソカ本人にヒソカを奪わないでと懇願するなんてきっと意味がわからない。
 こんな意味のわからない台詞でも、等身大の私を知っているヒソカには伝わると信じている私は本当に愚かだ。
 涙を拭う指先がどこまでも柔らかい。はちみつの眼差しはとどまることを知らずに艶やかな唇を動かした。
「うーん困ったねぇ
「っ……困ってるのは私のほうよ」
 嗚咽を滲ませる私と、まるで困ってない風に微笑むヒソカ。
 ヒソカは王子様じゃない。王子様になってはくれない。王子様になったらいなくなるのがヒソカだ。ヒソカとの永遠なんてありはしないし、あるとするならそれは今日までの距離で、刹那の継続だ。
 ヒソカは友人だ。友人がいい。友人のままでいたい。私からヒソカをとらないで。
「傷心中の私に漬け込む真似しないでよ」
「傷心中じゃなければいいのかな?」
 苦し紛れに吐いた否定はいとも容易く返される。王子様相手にだったら正解を返せる自信はあったのに、武装していない私に正解はわからない。甘い視線に耐えられなくて俯くしかできない。
 顔を伏せたらおろしたてのパンプスが見えた。華奢なハイヒールは足が疲れて、背伸びした私の足には靴擦れがあった。片足はいつのまにか脱げてしまっていて、脱げて転がった床の上ではとんがったつま先がヒソカの方を向いていた。
「アリスはそのままでいていいよ
 頭上から甘くやわらかな声がする。だけど揺るぎない自信に満ちた容赦のない響きをもって全身に沁み渡る。どこにいても目立って見つけられる男の声だ。だれも気づかないほどに暗い中でも、私が見つけてしまえるヒソカの声だ。
 そのままでいていいよ もう一度繰り返してヒソカは私の顔を上へ向かせた。どろりとしたはちみつが絡んで、逃げ場がなくされる。
 近づく唇に吸い込まれそうになっているのに、気づかぬふりをした箱を見つけたこの体は動かない。
 手をつけていないグラスの中で小さくなった氷は素知らぬ顔で泳いでいる。グラスは汗をかいてコースターに染みを作っていた。
 御伽話のガラスの靴でもない背伸びの靴は、残った片足分も背伸びのいらないこの場ではまるでお役御免と転がった。きっとつま先は、度数の高いアルコールの味を教える男に向いている。


パチパチ👏
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