アンコールはお呼びじゃない



 奇術師とは奇術をする者を指す。
 奇術とは手品だ。人を巧みに騙す手段だ。
 奇術師はさまざまに人の目をくらまして不思議な事をして見せる。タネも仕掛けももちろんある。タネ明かしをするときもあればしないときもある。
 どちらであっても、ひとときの夢を見せてくれるのが奇術師だ。

 西日が地平線の向こう側に沈んで、空には名残りのオレンジ色が残っていた。暗さが増してオレンジと混ざったら紺に近い紫に見えた。
 海辺の風はそろそろ冷たく、潮を含んだ空気が服の織り目から肌を刺激する。その冷ややかさからアリスは両腕で自身の身体を抱きしめた。手のひらで腕をさすって起きる摩擦熱ではたいした効果は得られないと知っているも、誰しもついやってしまう動作だ。
 ただ、今日という日に限ってはまるで己を抱いて慰めているかのようだった。
 アリスがヒソカとこの海辺に立っているのは二度目のことだ。一度目はだいぶ前のことで、それはヒソカと初めて出会ったときだ。



 一枚のトランプがアリスを魅了した。
 なんの変哲もないどこにでもあるトランプが一枚。それが目の前に落ちてきて、赤く染まった。血濡れたそれが地面を滑って足元にやってきたあの日から、アリスの日常は一変したのだ。
 吊り橋効果というのは衝撃が大きければ大きいほどに効果的で、ましてやそれが己の危機を救ってくれたのならば、さながらヒーローのように見えたことだろう。
 現に見えたのだ。ナイフを持った男に絡まれていたところに現れたヒソカは、アリスにとっては間違いなくヒーローだった。
 たとえそのヒーローが、目の前で人間を肉塊に変えようとも。
 アリスの目の前で散っていくスートの中央には、優雅に舞うヒソカがいた。サーカスでもなければ見ることのなさそうな奇抜なメイクと衣装。その場には到底そぐわない愉悦な笑みがアリスの目に飛び込んだ。肉塊に変わっていく男の、耳を劈く怒号と悲鳴は歓声にも似た響きを持って轟いた。
 普通であれば、恐怖で震え慄く身体を叱咤して逃げ出していたはずだ。けれども人間というのは不思議なもので、未知なるものには恐怖を感じると共に心惹かれることがある。さらには強烈なまでの圧倒的強さを前にすると、ときとして恐怖よりも感動を得ることもある。
 息が詰まり一気に身体が熱気立った。拍手こそ送らなかったものの、アリスはただ立ち尽くし、突如始まったショーを眺める観客の一人に引き摺り込まれたのだ。
「お礼はいいよ この彼が賞金首だっただけさ
 アリスが助けてくれたお礼を言えば、見せつけるかのごとくヒソカは死体の一部を持ち上げた。
「キミを助けたつもりはないかな それでも感謝してくれるって言うなら、そうだねぇ……
 持ち上げた死体を投げ捨て、ゆったりとした動作でアリスへ向き直る。
 綺麗な男だと思った。
 西日に照らされた鮮やかな赤髪が光って、赤とオレンジが混ざって眩しいのに目が離せない。その美しさに、とうに奪われていたアリスの視線はさらに釘付けになっていった。
 切長の目元が瞬きをひとつ。それを合図とするかのように先程人間の命を屠った指先が、ヒソカ自身の唇をトントンっと叩く。
 ここを見ろと、言葉なく誘導されてアリスの目にははっきりとその形が見えた。
「身体で払ってくれるかい?」
 暇してたんだよねと言葉が続く。意地の悪い嘲笑だと考えるよりも早く首を縦に振ったアリスがいた。
 恐怖に支配されて身体を差し出したわけではないと、いまでも言える。望んだのだ。理屈ではなかった。本能と理性のどこかでは、やめておけと引き止められたこともわかっている。躊躇いなく人間を殺せる男だ。決してまともではない。
 だけど……惹きつけられた。
 一瞬にして問答無用で心奪われた男を前にして、頷かないことはできなかった。


 いくら唇を指していたとはいえ、キスのひとつやふたつで終わるはずがない。そもそも身体で払えという言葉が出てくるあたり、そういったことにヒソカが慣れていることは容易に想像できた。「ボクはヒソカ キミは?」と流れるように自己紹介を済ませたヒソカはアリスを当然のごとくエスコートした。
 たどり着いたホテルの一室へ足を踏み込んだら高級感のあるカーペットへ足が静かに沈む。音も衝撃も吸収されて、アリスの足ごとその部屋に吸い込まれた。
 その静けさにようやく現実味が増す。背後でパタンと閉じた扉の音と、後ろに立っているであろうヒソカの気配に暴れていた心臓がきゅっと収縮して、もう後戻りはできないと遅すぎるほどのタイミングで自覚した。それでもなお、のぼせた頭は冷めなかった。
「キミ、こういうことに慣れてないだろ
 背後からズバリと言い当てる耳元で囁く声は、海辺で聞こえたときよりも低い。
 慣れてないもなにも初めてだ。これから行われるであろう行為が初めてというわけじゃない。それでもアリスの人生で初対面の男と肌を重ねることなどありはしなかった。あんなに衝撃的な出会いもない。人が死ぬところを見たことだってない。
 だから、ヒソカの言う“慣れてない”がどれを指しているかはわかっていても、咄嗟の返事は返せなかった。
 ヒソカはアリスの顔を横から覗き込む。屈んだまま触れることなく見つめて、余裕のある笑みを見せてくる。ゆるく細まった目元の金色が、アリスは舞台照明に見えた気がした。
「好きにしてて構わないよ ボクはいまからシャワーを浴びるからさ
 その間に逃げても構わない、耳孔に届く声が言外にそのニュアンスを含ませていたのは勘違いではない。振り向きもせずシャワールームへ行く背中がいい証拠だ。いてもいなくても構わない。ヒソカはアリスに何も期待しておらず、それはなんの覚悟もなくノコノコ着いてきたアリスの羞恥を煽った。
 煽られた羞恥はカッと色を変えてアリスを染める。同時にその背を振り向かせたいと、アリスの女としての矜持が顔を出した。
「……シャワーなんて、どうせ後で浴びるんだからいいんじゃない?」
「ふぅん
 進んでいた脚がぴたりと止まりアリスを振り返った。“面白い”。ヒソカの顔に浮かぶ笑みはアリスへそう語りかけている。
 ゆっくり、ゆっくり、進んだ数歩を戻ってアリスの元へ来たヒソカは屈む。口角を吊り上げ、その唇をアリスの耳元に寄せた。
「帰そうと思ったけど、据え膳はいただかないと失礼だよねぇ
 出会ってようやく触れた指先が、その器用さをアリスに教えた。


「ボクがヒーロー?」
「ええ、ピンチを助けてくれたヒーローね」
「ヒーローは初めて言われたよ どちらかといえばボクはヒールだし
「そんなことないわ」
「そうかな? いまだってアリスにいけないことしてるけど
「ヒーローの次はマジシャンだと思ったの」
「それは合ってる 奇術師だからね
 ベッドの上で微睡みながら話したことだ。一度肌を重ねて全てを曝け出すと、軽口も言いやすくなるものだった。軽口とは言っても、アリスにとっては全てが本心から出た台詞に違いないが、ヒソカとのやりとりは心地よかった。
 手品が好きかい? そんな問いかけにアリスが頷けばヒソカはなんてこともない顔で披露した。披露した後に、どうかな? と見せつけるように笑むのは忘れない。
 すべて終えてホテルを出る時間になったとき、アリスはヒソカを振り返る。身体での精算は終えた。これで終わり。それがどうにも切なく名残惜しさが生まれていた。一瞬にして奪われた心が足りないと叫ぶ。なんら不思議なことはない。
 ヒーローで、自称ヒールで、奇術師なヒソカに溺れるのに時間はかからなかった。
「……また会える?」
「おやおや ずいぶんとボクを気に入ってくれたみたいだ
 わずかな期待を含んでアリスは言った。大胆にも据え膳になった身は、この際とことん言ってしまえと吹っ切れていた。
 そんなアリスに言い聞かせるよう、ヒソカは身を寄せた。額をコツンと合わせ、低い艶のある声が鼓膜に響く。
「構わないよ でもボクは気まぐれだし嘘つきだ
 キミも見たようにあんなことも平気でやれる と切長な目元がアリスを捉えて、一音一音を漏らすことなく発している。
「アリスの望むような付き合いにはならない
 言葉とは裏腹な柔らかな笑みが浮かぶ。アリスは頷いた。それでいい。引き止めた本能も理性もすでに振り払ったのだから。
「会えた日にはひとつ手品を見せることを約束するよ
 耳元でひそりと伝えられた約束は、会う日は必ず守られた。


 アリスがヒソカの言うヒールの意味を知ったのは、わりとすぐだった。血濡れたままアリスの元へやってきて「ボクといるっていうのはこういうことだよ」と耳元で告げるヒソカをそのまま抱きしめた。
 恐怖はなかった。出会いが出会いなのにいまさらだと返した。そんなアリスにヒソカは一瞬きょとんとして、喉をクツクツと鳴らしていた。
「キミのそういうところいいね
 アリスがどういうところだと尋ねても、ヒソカが返事を返してくれることはなかった。
 ヒソカがアリスに見せる手品はどれもこれもがアリスに新鮮だった。ヒソカは一度だって同じものをしたことはない。アリスが種明かしを望めば答えたり、これは秘密と伏せたりする。
 アリスはそんな日々が楽しかった。幸せだった。
 会える日は決まっていなかったヒソカとのひとときが、幸せだったことは夢でも嘘でもなかった。



 季節を何度も繰り返してこの海に来た。近場であるはずなのにあれから一度も訪れなかったのは、この日のためなのだとアリスの頭をぼんやり掠める。
 喉の奥に塩辛さを感じるのは、海風のせいだ。
 視界が霞んでよく見えないのは、黄昏時のせいだ。
 首を後ろにぐっと逸らしてヒソカの顔を見つめた。全てを見透かす瞳にアリスが映ることはきっともうない。ううん、最初から映ってはいないのだ。
 いつからこの関係に堪えられなくなったのかはもう覚えていない。徐々に積もり積もっていったものだからだ。
 ヒソカは初めにアリスに言った。気まぐれで嘘つきだと。その言葉は紛れもない真実だった。それでいいと頷いたのはアリスだったけれど、やはり限界というものはくるのだ。本気になってしまえばしまうほどに、それは近づいた。
 心が決して手に入らない男と共に過ごす時間を虚しいと感じてからは、積もる勢いが増したようにアリスは思う。

 ひとときの幸せよりも、虚しさが上回った。

 はじめから終わりは見えていた。続くはずのないものだった。むしろこんなに長く続いたことが奇跡に等しい。自分はショーに溺れた観客の一人なのだ。いつ切り出そう。そんな想いが巡っていたらヒソカが海に行こうとアリスを誘い出した。
 その誘いに、アリスは心底安堵した。
「愛してるって聞きたいな」
「お別れなのにかい?」
 すべてわかって舞台を整えるヒソカにほっとしたのだ。
「お別れだからよ」
 舌先三寸。嘘はヒソカの18番。目線で、態度で、限りなく愛に近い何かをアリスに想像させてきた。歯の浮くようなキザたらっしい台詞だって惜しまなかった。けれどもヒソカは囁かなかった。嘘つきな唇はいっそ正直なまでに愛の言葉を紡がなかった。
「なるほどね
 ヒソカの言葉は信用にならない。どれが嘘で、どれが本当かなんてアリスにはとんと検討もつかない。
 それでもなお、アリス自身から切り出す勇気はなかった。だからこそ、ヒソカはアリスをここへ連れてきたとアリスにはわかる。
 いつだって気まぐれで本気をくれないヒソカに信頼なんてない。けれどもたしかにわかるのだ。それがわかるほどの時を共に重ねたことは事実だった。
「私はね」
 だから、ヒソカにもわかると信じている。
「夢を見せてくれるヒソカが好きよ」
 ヒソカの言葉は信じられなくとも。
「特等席で楽しませてもらったと思ってる」
 ヒソカの貫く姿勢は信じている。
「ショーの幕引きは……演者の役目であってほしいな」
 観客のアリスからではなく、ヒソカから告げてほしい。
 いつの時代もショーの終わりを告げるのは、観客からではないのだ。
「ねぇヒソカ」
 うん? と言葉なく首だけ傾げてヒソカは続きを促した。
「言えなかったけど、愛してたわ」
 アリスは言えなかった。望む付き合いはできないと宣言したヒソカに言えなかった。愛を返してくれないヒソカに言えなかった。ともすれば愛を伝えたらいなくなってしまうんじゃないかと思えば、口を噤まざるをえなかった。
「知ってる
 ヒソカの手がアリスの頭に乗る。触れるか、触れないか。わずかな力でひと撫でする。
 薄暗い中でも光る金色が緩んだ。骨張った手がアリスの目元を覆う。片手で難なく覆われて、わずか残っていた黄昏時の明度すらも遮断されたアリスは抵抗することなくヒソカの手のひらの下で瞼を下ろした。触れる片手はこれまで感じたどのヒソカの手よりも柔らかだ。
「アリス」
 暗闇の中で、ヒソカが上体を屈めた気配がする。その気配に、アリスの閉じた瞼の裏に水分がまた溜まりそうになった。
 ヒソカが屈むから。
 いつだってそうだった。始まりからそうだった。アリスに聞かせるとき、伝えるとき、確実に届くようにヒソカはアリスの聴覚器官に自ら顔をより近づける。
 吐息が、かかった。

「──てたよ

 低く、柔らかく、限りなく心がこもっているように聞こえる囁き。
 ヒソカの体温が目元から離れても、アリスはいまだ目を開けない。熱と響きの余韻の中にいる。
 あれほど泣きそうだったのに、いざ終えると奇術師なヒソカにぴったりの終わり方だと笑みすら浮かんだ。
 最後まで約束を守ってくれたこと。夢の間は本物だったと、そして夢を夢“だった”と伝えてくれたこと。その優しさに拍手を送ろうか。
 瞼をあげて一人眺める暗い海は不思議と綺麗に見えた。


パチパチ👏
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