ご機嫌ハッピーピエロの気まぐれ



 遠くで光るネオンが見えた。キラキラ、キラキラ、眩しいほどに輝いては夜空を背景にアリスを嘲笑う。アリスの足元に見えるのは深い深い、吸い込まれそうな底の見えない真っ暗闇だ。
 背後にあるフェンスを握り、下を覗いてもこのビルまで歩いて来たはずの道はわからない。月明かりさえ届かずひたすらに黒いキャンバスが広がっていて、こんなにも高いところまで登ってきたのかと脚が震えた。地上から何メートル離れているかなんて知らない。ただ、視界に入った中で一番高いビルを選んだ。非常階段をひたすらに登って、登って、登り続けて屋上にたどり着いたころには開放感に満ちていた。汗が伝うこめかみを湿った夜風が撫でるのが気持ちよかった。
 それなのにどうしてフェンスを越えたあとは脚が動かないのか。己の意に反してガクガクと膝が震えてフェンスを握る10本の指に力がこもる。ぎゅうっと力任せに握りしめて、食い込む鉄はきっと掌に跡を残しているだろう。
「……っ」
 息が苦しい。心臓の音が近い。胸にあるはずの心臓は、耳の横に移動したかのように鼓膜を揺らしてその脈の速さを知らせてくる。
 踏み出せば終わる、終わらせられる。飛び降りとは、落ちる途中で意識を失うと聞いたことがある。だからきっと痛みはない。途中で気絶して、そのまま重力に従って叩きつけられて終わりだ。ものの数秒の出来事のはずなのだ。
 あと一歩でいい。けれどもその一歩を、じっとり汗ばんだ指先が邪魔をする。アリスの指先は錆びついたブリキ玩具になったみたいだ。ギギギっと音が鳴っているのに解けない。軋み鳴っているのはフェンスだと、気づいたのは何度目の試みだっただろうか。
 足の裏は屋上のコンクリートに縫い付けられたみたいに全く持ち上がらない。顎まで垂れた汗が足元に落ちた。ポタリと落ちて、水滴が弾いてコンクリートに拡がって染みを作った。アリスから出る血液も地上でこんな感じに拡がるのだろう。
 音と体感で感じとる風はビュウビュウと強くて、このまま煽られてバランスを崩してしまいそうになる。
 ……崩してしまいそうになる、やっていることと思いがてんでバラバラだ。終わらせたくてここにやってきたはずなのだから、崩れてしまえば万々歳ではないか。
 いつだってそうだ。なにをやっても上手くいくことなんてほとんどなくて、怖がりで臆病な自分に嫌気がさしてくる。終わらせようと決めたはずのことすらままならなくて、そんな自分が嫌いで無価値のようで捨ててしまいたいと幾度となく思ってきた。
「おや、先客だ
 地上から舞い上がる風が凪いだと同時に頭上から音がした。ねっとりと全身に纏わりついて、先程まで聴こえていた心音が鳴り止んで息の仕方を一瞬忘れた。
 その男はいた。アリスの握り締めるフェンスの上に立ってアリスを見下ろしていた。ご機嫌ハッピー。そんな言葉が似合う頬にペイントをした陽気なピエロ。ペイントの上にはどす黒く赤い液体が付着していて、それが血液だと理解するのに時間はかからなかった。
 血濡れたピエロは喉の奥をクツクツと揺らして言うのだ。
「邪魔したかい?」
「……いいえ、ちょうどよかったわ」
 アリス自身、自分でも不思議なほどにすんなりと言葉が出ていた。頭上にいる男は、きっと殺人鬼だ。しかもつい先程獲物を狩ってきている。それなのに、そんな者が目の前に現れたら感じるはずの恐怖は微塵もなかった。
 あったのは、期待だ。
「ねぇ」
「なにかな?」
「人を殺したの?」
「そうだと言ったら?」
 ピエロの目元が妖しく弧を描いた。瞳が光って見えたのは、月の反射なのか妖しさがより一層強さを増したのか。
「もう一体、獲物はいらない?」
「それがキミならいらないよ
 突如現れた殺人鬼。殺人鬼だ。その相手に期待と共に言葉を投げかけたら、一瞬でその期待を粉々に砕かれるとだれが思うだろう。
 フェンスの上にそのまましゃがみ込み、どこから取り出したのかその手にはトランプのデックが1つ。一枚抜いて、手遊びのごとく指先でまわしている。
「美味しいディナーの後にまずいデザートなんて食べたくはないだろ?」
 くらりとした。ただでさえ暗い目の前が暗くなった。この男も遠くのネオンと同じように自分を笑うのか。
 冷え切った目線を寄越して、彼の喉奥で揺れる音が空気を伝ってせせら笑いを教えてくるのだ。
 お前はまずいデザートだ、殺人鬼の獲物としての価値もないのだと。
「人殺しのくせに偉そうに獲物を選ぶのね」
 フェンスを握る手に力が篭る。これは怒りだ。恐怖で後ろの命綱を握りしめてるわけじゃない。殺人鬼なんかにも、自分には価値がないと暗に示されて腹の底から怒りと切なさが込み上げたから、切なさを怒りで塗りつぶした。
「狩っても楽しくないものを狩って何になるんだい?」
「……私が楽に死ねるわ」
「キミが死んでもボクにはなんの関係もない
 仄暗さを交えた声が放たれて、内臓すべてが圧迫されたような痛みが全身に満ちた。目の前の男は退屈さを隠そうともせずに長き指でクルクルとトランプを弄っていた。
「もう一度言ってあげようか キミが死のうとどうなろうと、ボクにとってはどうでもいいことだ
 死にたがりに興味はないからねと、続ける彼は弄んでいた一枚のトランプをデックに戻してシャッフルを繰り返す。シャッフルをとめ、スプリングをして、舞う赤と黒のスートを目が追わずとも視界を埋められた。
「どうでもいいなら殺してよ」
「いやだね
「どうして……!」
「言っただろ 死にたがりに興味はないし、美味しいディナーの後にまずいとわかっているデザートを食べる気持ちにはならない
 同じことを何度も言わせるなよ、そう物語る。
 トランプを手にした瞬間から、この男はアリスを見ていない。手元の玩具で遊びながら、眼中にないと言わんばかりに片手間に言葉だけをアリスに投げつける。自分は殺人鬼の手遊びトランプ以下なのか。
 自分には価値がない。そう思い続けていてそれに間違いはない。けれども、どうにも、それを初対面の、しかも人殺しなんかに突きつけられると悔しくて腹が立ってどうしようもなかった。
 歯を食いしばった。歯が砕けそうなほどに食いしばればギリギリと音がしていて、それを遮るかのごとくまたカードが風を切る音がしていた。
「でもそうだねェ……ボクはいま機嫌がいい チャンスをあげるよ
 瞬間、身体が浮いた。見えない何かにものすごい力で引っ張られて、握っていたはずのフェンスからも指が剥ぎ取られた。
 落ちる……!
 浮遊感とともに息を飲んで、咄嗟に目をぎゅっと閉じたら、あとは一瞬だった。
 背中から全身が叩きつけられて、強い衝撃で肺から空気が漏れるのと一緒に喉の奥から意識しない声がでる。呻き声とも空気が震えただけともとれるかすかな音が耳に届いて、痛くて痛くて、動けない。
 だけどこれで終わるんだと思った。やっぱり殺人鬼だ、なんだかんだと言いながら自分を突き落としたのだ。最期に見える景色はどうだろう、そう瞼をうっすら持ち上げたら、空が見えた。動かせる眼球を横にずらして、仰向けのまま辺りを見渡した。
「……っぁ、なん……」
 なんで? どうして? そんな言葉は身体中痛くてうまく声が出せない。痛いのと、視界に飛び込んできた衝撃とで、アリスの唇は形を成すことに成功しなかった。
 フェンスが見えた。アリスがいたはずの場所。ビルの屋上の向こう側。地面じゃなくて屋上の床が見えた。飛んだ汗がぽつぽつと染みを作っていた。
 なぜ、フェンスの内側に己がいるのか。
「さて、と
 つま先のとんがった靴が、静かに近づいて視界の端で止まったら、しゃがみ込んできたご機嫌ハッピーな顔がある。
 至極楽しそうに、笑った。
 瞬間、全身に鳥肌がたって、震えて、胃の中が逆流しそうになる。
 陽気なピエロ、殺人鬼、そうじゃない。目の前の男はそんなものじゃない。死だった。死そのものが目の前にある。死を司る死神がそこにいる。
 まともに声がでない状況だったのが、呼吸すらも危うい窮地に塗り変わり、背筋に悪寒が走るというのはこのことだと思う。フェンスの向こう側に立ち尽くしたときの恐怖なんて比ではない。
 嫌だ。
 嫌だ。
 嫌だ。
 生物としての本能、そうとしか言い切れない警報が頭の中で、身体中で、鳴り響いた。
 ゴシャリッ。
「──っがぁ……!!」
 立ち上がった男のつま先が、アリスの脇腹を抉った。身体がひっくり返って動けないままに口から吐瀉物が飛び出して、目からは涙が溢れてきてしまう。飛び降りじゃなくて、嬲り殺しになるなんて思ってもみなかった。
「青い果実を作るっていうのも一興だよねぇ
 上から、意味のわからない言葉が降ってくる。全身に纏わりつく嫌な感じが心音と恐怖を加速させてはとまらない。
 死にたくない。
 本物の死を目の前にして心から願った。死にたくない。なにもかもうまくいかないからなんだというのか。うまくいかなくても、こんな思いはしたことなんてない。絶対的な恐怖と圧倒的な痛みが全てを支配する。痛くて怖くて、なにもない平凡な日常を懇願した。
「ちゃんと体に留めるんだよ
 男の手が、背中に触れた。ドンッ!と衝撃が走って全身がサウナに入ったみたいに熱くなった。
「……っ!?」
 湯気だ、蒸気だ。アリスの身体からどんどんもやが出て、力が入らなくなって、どうにかしないと死んでしまう。なにもわからないのにそう感じた。叩きつけられた痛みより、蹴られた脇腹の痛みより、これをどうにかしないとアリスはきっと死ぬ。
「集中してごらん
 再びアリスの横にしゃがみ込んだ男は笑う。星と雫のペイントを施した、トランプを持ったピエロな死神は緩やかにその口を開いた。

「生きてたら殺してあげるよ そのうちね

 遠くて光るネオンが見えた。ぼんやり、ぼんやり、霞むほどに輝いては夜空を背景に男を照らす。アリスの視界に映るのは、恍惚と見下ろす死神だ。


パチパチ👏
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