蒼黒の狩人―嘘―


初めて名乗った自分の名は、記憶がなくなってしまった今の土方さんにとっては一番最初に覚えたものになった。

初対面であるからして僕はこの人のことは何も知らないし、もし自分のことを知りたがって質問なんてされたらどうしようかと考えたが、思いの外土方さんはそれについて訊ねてくることはなかった。

ただ唯一訊かれたのは、僕との関係だけ。

それもどうしたものかと焦ったが、とりあえず最近知り合ったただの顔見知りということにしておいた。

もしかしたら、土方さんが僕に何も訊いてこないのはそのせいかもしれない。

ただの顔見知りが、自分のことを語れることは何もないと判断したんだろう。

お陰さまでこの嘘は土方さんの家族にも病院関係者にも、丁度いい僕の設定になった。

その家族のことも土方さんは忘れてしまったらしく、行われた精密検査では脳内に異常は認められないと言われ、恐らくその原因は心因性ではないかとのことだった。

てっきり事故の影響だと思い込んでいた僕には、一体何故土方さんは記憶を無くしてしまったのか皆目見当もつかない。

心因性と言われ、ご家族すらわからないと首を捻っていたくらいだ。

「…土方さん…」

眠る顔を眺めて、こんな美人に記憶を無くしたくなるような出来事なんてあるんだろうかと想像してみて、あんなに温かい家族がいる癖にと妬みにも似た感情を持て余す。

けれど、そんな風に考えてしまう自分にはもっと腹が立った。

「…はじめ君。君の力で何とか出来ないの?」

「…出来なくはない」

「え、本当!?」

やっぱり死神だけあって、超常的なことでも何でも起こせるのか。

「なら…」

「それで本当にいいのか?」

「え…」

「俺があの者の記憶を戻すことは、お前には不都合ではないのか」

「それ、は…」

土方さんに記憶が戻れば、嘘は暴かれる。

そして僕を知り合いであると認識して、その白い世界に最初の人物として存在を許してくれた土方さんを失うことになる。

「それに、何らかの辛い記憶があったからあの者が全てを忘れたなら、思い出すことはあの者にとってそれを再び背負うということになるのではないか?」

「そうだけど…」

記憶がないことが、辛いとは限らない。

もしかしたら、記憶がある方が辛いのかもしれない。

それは全て、人によって違うもの。

僕らが勝手に決めつけて良いものじゃない。

「そうだね…」

はじめ君の言葉に頷いて、僕はそれ以上何も言わなかった。

土方さんの為にという偽善を体裁に使い、自己の望みを失わない為にという本心に蓋をして。





昔の記憶がなくなっても、好きなものとかは変わらないらしい。

「何か食べたいものはありますか?」

「そうだな…。…あ、沢庵」

「…え」

頭や身体に負った傷は見た目ほどではなかったから、そんなに長い入院生活にはならないと保証を受けたものの、それでも不自由だろうとこうしてほぼ住み込みで話を聞くようになった。

病院食に文句を言っていた訳でもなかったけど、食べたいものを食べさせてあげたいという気持ちから尋ねてみれば、考える素振りなんて一瞬だった。

「沢庵って…」

「何だよ。食べたいもん、訊いてきただろ」

「そうですけど…」

沢庵なんて答え、誰が想像するだろう。

唖然としている僕のその反応が気に食わなかったのか、機嫌を損ねてしまったらしい土方さんは拗ねたようにそっぽを向いてしまった。

実年齢は耳にしているけど、とても僕より七つも年上とは思えないような仕草だった。

「わ、わかりました…。とりあえず買ってきますから」

返事のないことにちょっとドギマギしながら、どこかコンビニなら売っているだろうと立ち上がる。

そのまま部屋を出ようとした時、さっきは黙りだった癖に急に声を上げた。

「…待った」

「はい?何か他に欲しいものあるんですか?」

「いや…な、…その」

沢庵なんて潔く発言した人とは思えないような、口ごもるその様子に違和感を覚える。

軽く首を傾げて待っていると、やがて観念した風に溜め息を一つ零した。

「…早く、帰ってこい」

身体に、電気が走ったみたいだった。

今までこんな風に、無償で僕の存在を望んでくれた他人なんていなかった。

照れた様なそんな土方さんの様子をどうのこうの言えないまま、不意に涙が出そうになって慌てて走り出す。

「…はい」

不安になんてさせたくないし、この人との約束だけは絶対に破るつもりなんてなかったら、返事だけは残したまま。



―――

依存度が高い


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