蒼黒の狩人―漂白―
はじめ君の声に何かを返す余裕もなくて、あれが僕の望んだ未来だなんて理解も出来ないし許せないし、けれどそんなことを問い質したりしている場合じゃないことだけははっきりしていた。
弾かれたように走り出して、服に血が付くとかも考えもせずにその男の人の傍に膝をついた。
遠くから見たというのと動揺で、大量の血の海だと想像していたが思っていたよりも酷くはなかった。
それでも確実に頭を打って出血していて、事態は深刻なものに変わりはない。
「誰か、救急車!」
そう叫びながら、確かこういう時は動かさない方が良かった筈…と焦りつつも冷静さを必死に留める。
男の人は顔を歪めることもなく静かに目を瞑り、まるで既に死んでいるようにすら見える。
とにかく呼吸と脈を、テレビなんかの見よう見まねで確認して、呼吸はともかく脈は微弱ながら感じることが出来て息を吐く。
やがてけたたましいサイレンと共に救急車も到着し、時の流れすら感じられぬまま担架で運ばれていくその人を呆然と見つめていた。
このまま彼が助かるのか助からないのか、それだけを気にしていた僕の耳元でふと。
「…同行しろ」
はじめ君は言い、何故と疑問を投げ掛ける前に僕の口は動いていた。
「あの…僕知り合いなんで、一緒に行かせて下さい」
知り合いだなんて嘘が、いつまで通るのか。
それも全て、今治療室に運び込まれて処置を施されているあの人が意識を取り戻せば終わりだ。
その時どう釈明すればいいのかなんて結局、はじめ君の指示に乗っただけの僕には見当もつかなかった。
そんなことをぐるぐると考えていれば、どれだけの時間が経ったかもわからない。
深く思考の中に沈みこんでいた僕の意識を浮上させたのは、突然とかかった女の人の声だった。
「土方さん、目が覚めましたよ」
知らない名前を告げられたことで、そこで漸くあの人の名字を知った。
けれどそんなことを知ったところで、会って顔を合わせれば全く意味のないものに変わる。
答えなんて見つからないままだったせいで、ふとはじめ君に視線で助けを求めてしまった。
「…大丈夫だ。そのまま進め」
何が大丈夫なんだそんな訳ないだろうと口に出して訴えたかったが、生憎僕を呼びに来た看護婦さんはまだ目の前にいたから出来なかった。
もしかしてコイツ僕を更なるどん底に嵌めようとしてるんじゃないだろうな、なんてやっと疑い出して、しかしもう進む以外に道はない。
小さく返事をして立ち上がった僕は、黙って看護婦さんの後に続いた。
真っ白い部屋の中で真っ白い布団から顔を覗かせたその人は、それらに負けないくらい真っ白な顔色をしていた。
けれど広がる白い世界の中心にあったのは、真っ黒で艶やかな髪と清廉な紫紺の瞳。
その紫紺と目が合った瞬間、僕は雷に打たれたかのように動けなくなった。
まじまじと見たことでその人が凄く美形であることに気づいただとか、印象的なその瞳に釘付けになっただとか言う前に。
ただ何の感情も見えない、まるではじめ君の瞳のようなそれに責められているかのような錯覚に陥ったから。
「あ、の…」
「誰だ、お前は…」
「…っ!す、すいません、僕っ…!」
そう言われて当然だし、むしろその反応こそ何よりも正しい。
事故に遭って大怪我をして、飛んだ意識が戻ってきて一番最初に見た相手が、こんな誰とも知れない嘘つき野郎だなんて。
僕が逆の立場なら、不審極まりない怪しい奴は距離を置くに決まっている。
いや、距離を置く以前に知り合いですらないのか。
今すぐ頭を下げて、この場を去るしか方法はない…とばかりに勢いよく腰を曲げて深く謝罪し、顔も見ずに振り返ろうとした…その瞬間だった。
「…俺は、誰…だ?」
「え?」
「ここは…?何だ、何も…っ!俺はっ!?」
落ち着いた様子から一転、混乱したかのように目を見開いて叫び始めたその人に、僕は慌てて近づく。
「な…どうしたんですか、一体…」
「わからない、俺は…!」
まさか…そう思った。
記憶喪失という四文字が頭の中を過ぎ去り、ちらりとはじめ君を見る。
コクリと一つ、頷かれた。
「嘘でしょ…!?」
そう呟いてみても、再び戻した視線の先でもどかしそうに頭を抱えて唸るその姿が、否が応にも現実を突きつけてきた。
嘘がバレてしまうことよりももっとトンでもないその現実を、全て無視して逃げられる筈もなく。
「…だ、大丈夫ですよ…?貴方は、土方さんって言うんです…」
震える肩に触れ、少しでも安心させたいというその一心で撫でた。
「…土方」
「そう…。土方、歳三…」
下の名は、咄嗟に名札を見て伝えた。
顔を覆う手のひらから僅かに覗いたあの瞳が、僕の姿を映し出す。
「なぁ…」
「…はい?」
「暫く…傍にいてくれねぇか?」
はじめ君の言った通りだった、のかもしれない。
僕の願いが、今叶った。
―――
土方さん初登場。
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