イルカの嫉妬
水の中にさえ入れればよかった。
水さえあれば何も要らないほどに水の中にいること以上に大切だと思うことも、泳ぐことの他に頭の中を占めるものなんてなかった。
彼女に逢うまでは...
彼女との出逢いは至ってなんでもないような日常のほんの一部だった。
「七瀬くんて本当に泳ぐの上手だよね。綺麗な泳ぎだと思う。渚くんじゃないけど、本当イルカみたい」
水面から顔を上げると有坂はいた。
同じクラスで、水泳部のマネージャー。
「どうしたらそんなに上手く泳げるの?」
ついさっきまで笑っていた顔はなく、本気でどうしてなのかと聞いているようだった。
「別に何も考えてない。水を感じているだけだ」
「もっと分かりやすく!七瀬くん!それじゃ全くわかんないよー」
今度は少し困ったような怒っているような顔をしている。
気がつけば、見る度に表情が変化する彼女に惹かれはじめていた。
有坂は俺と違って感受性豊かだと思う。
自分に無いものに惹かれるとはまさにこの事なのかもしれない...
真琴や渚も感受性は豊かな方だと思うけど、それともまた違う雰囲気があった。
彼女が笑うとなんとなく嬉しくなる。
彼女が泣きそうな顔をしているとどうしたのかと心配になる。
自分らしく無いと思う。
一番違和感を覚えたのは有坂が真琴と話している時だった。
「真琴くん、これなんだけど、天ちゃん先生が明日までに書いて提出してって言ってたんだけどどうする?」
何気ない会話だ。有坂はマネージャーで真琴は部長、当たり前の光景に過ぎない。
「ん?あー、これか。詩乃ちゃんはどう思う?」
水は波打ち始めた。
........どうしても我慢できなかった。初めて真琴がずるいと思った。
「なぁ、有坂」
「ん?七瀬くんどうしたの?」
「...名前」
「名前?」
「俺のことも名前でいい」
「え?下の名前ってこと?」
「ああ、俺も詩乃って呼ぶ」
別にいいけど、と有坂...詩乃は急にどうしてと言わんばかりに不思議そうな顔をして言った。
「七...遙くん?」
「...なんだ?」
「遙くんが呼べって言ったんじゃない!私は別に七瀬くんのままでも良いと思うんだけどなぁ」
「それは...嫌だ。真琴は名前なのに、俺が苗字なんておかしい」
「おかしくない!」
「いや、おかしい!...そんなの真琴がずるい」
普段ならこんなこと、絶対に言わないのに詩乃のことになると調子が狂う...
「まぁまぁ、詩乃ちゃん、ハルはやきもちやいてるんだよ。察してあげなよ」
「やきもち?」
「そう、だから深くは追求しないであげて」
真琴が妙な笑顔で俺を見る。
「真琴、うるさい」
「はいはい。本当ハルちゃんは素直じゃないんだから」
「ちゃん付けで呼ぶな!」
「遙くんと真琴くんは仲良しだね!いいなー」
「詩乃ちゃんも混ざる?」
「いいの?混ざりたい!」
「詩乃、ちょっとこっちこい...!」
「は、遙くん...!?」
詩乃の手をつかんでプールサイドを出る。
曲がる時に視界によぎった真琴の顔が笑っていたのがわかった。
完全に真琴にはバレてる...
でも実際そんなことはどうでも良かった。
俺以外に構う姿を見ていたくない。
「ねぇ?遙くん?」
「真琴ばかり構うな」
「え...?」
「俺のことも構え...!」
「え...うん」
なんとなく、詩乃の頬があからんだ気がした。
その顔をみた瞬間、胸の辺りがじんわりと熱くなった。
少し飛沫をあげながら波打っていた水は、いつの間にか穏やかになっていた。
イルカは嫉妬した。
水以上に大切なものに出逢ってしまったから、誰にもとられまいとあらがった。
それがどんなことなのかを知った。
イルカは初めて水以外に恋をした。
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