【最近流行りのオメガバースについて】


最近、オメガバースが流行りなのかな、と思います。とは言え、落ち着いてきたような気もするけど。
どうして得意じゃないのかな、と自分なりに考えて、やっと言語化できそうなので、メモ程度に書きます。

まず、わたしは人の好き嫌いに文句を言う気はありません。ということを先に。
ただ、好きな人もいれば得意じゃない人もいるし、
それを誰かに強要する事がよろしくないのであって、思うこと、言うこと事態はそこまで悪ではないかな、と。
気をつけないといけないのは、「個人」に対する好き嫌いですよね。
わたしは今からオメガバースというジャンル?を、”わたしは”得意ではないな、と語りますが、
それはオメガバースを書く人、オメガバースを好きな人を、得意ではないと言っているわけではありません。
その点を注意しておかないと、おそらくわたしにとって不本意な形で傷つく人が出てくると思うので、言っておきます。

ちなみに、このページをいくらの人が読んでいるとかは置いておくとして、
わたしが、こうして前置きとして掲げる文章を読み飛ばしてしまう人がいるのかもな、と思うとちょっと悲しい。
なぜなら、一番重要だからです。
つまり、わたしは自分の立場性を示しています。読む人には、一つのケースとして扱って欲しいし、「こういう立場」の「一個人」の見解にすぎないのである、という事をきちんと把握していただかないと、読む人も嫌だろうし、他の人にも迷惑がかかるし、わたしも喜ばしくない。
立場性を省略して書き始めることもありますが、書かれている時は、サラリとでもいいから念頭におくか、
そもそも読む時の姿勢として「これを書いている人の話」ということを考えておくことは何かといろいろな面で助けになる、と思っている。
なんだか日本語が迷走した。

で、件のオメガバースについてです。
どうしてわたしが得意ではないのか、と考えた結果、わたしの世界観に関する考えと相容れない事がわかりました。

わたしは、読むときも書くときも、リアリテイのあるものが好きです。
そのリアリティって、いろいろな表現の仕方があると思います。
なので、ファンタジーでもSFでも、構わないんです。要は、「現在」を意識した上で構築された世界観であれば、どのような形を取ったって構わないんです。きっと、その過程で「現在」から”外す”という構造を取ることもあると思います。むしろそれのほうが面白いかも。

そういう風に考えるわたしにとって、オメガバースは得意じゃありません。
お話を聞く限り、これはわたしにとって”外す”のレベルではないし、
そもそも、わたしの思う「現在」が、そこに無い気がしたからです。
とは言え、書き手の書き方によっては、「現在」のあるお話もあるかも?しれないので、その点に関しては範囲のある話だと思いますが。

わたしの「現在」観とも言える考えは、フーコー的であり、なんだろうな、マンハイム的なのかな。
詳しい方のほうがわたしよりよほど深い知識でもって考えていると思います。
つまり、わたしにとって「現在」は数直線上のものではなく、積み重ねられたものです。
積み重ねられたものということは、「現在」の下には膨大な歴史の存在があると思っています。
なので、現在を考えるということは、同時に過去を考える事でもあると思っています。つまり、過去を含むと考えています。
そう考えるからこそ、ちょっと重苦しい言い方をすれば、脈々と受け継がれてきたと言える何らかのモノの見方が、わたしは好きなんです。
それは良し悪しを含みます。例えば、わたしは同性愛のお話を書きますが、
「現在」が果たして同性愛に対して非常に寛容か、と言われたら、微妙なところです。完全なる寛容性というより、発展途上な気がします。
でも、すこし前は、非常に厳しく統制されたりしていました。でも、もっともっと昔は、当たり前のように嗜まれて(嗜むという言い方は本来おかしいのかもしれませんが)いました。
わたしが好む「現在」というのは、仮に同性愛という切り口で見る場合、
今から遡ることの出来るものです。歴史とも言えるし、でもそれは、とても恣意的で解釈を含んだ歴史であって、客観的事実として立ち上るたったひとつの歴史ではありません。でも、わたしはそれが好きです。
今は発展途上で、でもすこし前は非難されて、その前は許されて、その前はそんな概念もなくて、そういうものが積み重ねられた「発展途上」なんだな、という、そういうのが、好きなんです。
だから、今現在の状況に満足する、それを良しとする、というのとは別なんです。
その良し悪しを全て含んでいる多様な「現在」、積み重なりの「現在」が好きです。
ただし、進化論的な発想ではありません。積み重なっていった先に今よりも良い現在があるという見方はしません。

オメガバースには、わたしにとっての「現在」がないように思えたのです。
そこで語られる性別は、もうわたしの知る性別ではないんだな、と思いました。ちょっと話を聞いた限りですが。
悪いとは思っていないし、そもそも、そういう世界観として存在しているので、
そこに「現在がない」と批判すること自体、本当はお門違いなんだとは思います。

もっと単純な言い方をすると、わたしはチョコレートが好きで、でも、オメガバースがチーズケーキだったとして、
チーズケーキは好きですか?と聞かれた時に、「いえ、わたしはチョコレートが好きなので(チーズケーキにはチョコレートが入っていないので)好きではないです」と答える感じです。これ、批判じゃないですよね。なので、わたしが今言ってることも、批判ではないです。単なる好みです。

世界観のもつ原材料と言えばいいのか、成分と言えばいいのか、
多様なものを含み、その上で表象される世界観があって、
わたしは世界観を要素に分解した時に、あ、オメガバースはわたしのとても重要だと思っている要素が入っていないな、若しくは、別の形をしているから、これはちょっと好みではないな、と思ったわけです。

それが、積み重なりの上にある「現在」という考えであり、
そういう考えから発生する、性別観とか、世界観でした。

わたしはあまりファンタジーを書くのが得意ではないのですが、
どんなに頑張っても現実に引き摺られます。

でもそれって、悪く言えば、わたしは「わたし」以上の話は書けないという事です。
だから好きだよ、と言ってくれる人もいれば、だから「ただの貴方に過ぎないんじゃないの?」と文句を言う人もいます。

わたしが書く話は、わたしじゃない人でも書けた話だとは思います。
ただ、何に重点を起き、どの言葉を選び、どの世界観で演出し、何を思わせ、何を語らせるのか、というディテールは「わたし」のものだと思っています。
そう思うある種のナルシシズム?くらいは、許してほしいなとは思うんです。
だって「ああ、その話題、わたしだって書きたかったのにさ」とか言われるような事もある(実際に言われたのではない)だろうと思うし、わたしもあります。二番煎じだなぁみたいな。n番かもしれないけど。

でも、最近はそれでもいいんだろうなって思います。
だって多分、ディテールは違うと思うし、むしろディテールが違うからその人のお話になるんだと思うし。
全く同じ表現をするのは、それはもうビックリなのと、パクってんのか?と疑われても仕方ないのだろうけど…ただ、細かな前提が違う気も…あ、面倒くさいな、この話はこれでいいや。


オメガバースについて語るつもりで、全然語れなかった。
全然言語化出来てないわ。いや、言語化はでき始めているけど、理論立って語れてないね。
いやぁ、論文だと理論立てでかっちりやるんだけど、こういう場所だと頭使いたくないから、しないね!(怠惰)

要は、わたしは「現在」が好きなんですね。
で、その「現在」に対しても、「現在」観みたいなものがあるわけです。
数直線の先にある現在ではなく、積み重なった現在、後者がわたしにとっての好きな「現在」です。
だから、「現在」にある考えが好きで、それを題材にするのが好きです。
それがあると面白いな、と思うし、”外す”という事がされていても、面白いな、と思います。
オメガバースは、なんとなくそれとは違う感じがして、だから得意ではないんだな、と思いました。
それとは、の”それ”というのは、わたしが好む「現在」観です。その思想を前提にして積み上げられたお話ではないような気がして、そうすると、ちょっとわたしの好みとは違うのかもしれない、と考えるに至りました。
なので、好き嫌いの話です。
ただ、多くのお話は「現在」を意識したものが多い気もするし、むしろメジャー…なのかな…?

語り方ですよね。
きっと、わたしの好きな「現在」観でもってオメガバースを書いたら、
結局わたしの好きなお話になると思うんですけど。

なんだか物語って難しいですね。
わたし、そっちを詳しく勉強したわけでもなくお話を書いたり、
独学で書いてるお話の考え方にのっとって話すので、てんで意味のわからない話多いと思います。
詳しい人が来たら、「そんなの当たり前」とかもあるのかなぁ。
学問的に畑違いというほどでもないのですが、ついつい「解釈」の方、解釈をする主体のほう、に重きを置いてしまう。学問病か。

学問って何にでも使えます。
文学とか関係なく、法律、政治、生物、数学、化学の人とかがオメガバースについて語ったら、
きっともっと全然違う切り口、そこから発生する語りでお話してくれるんだろうな。
そう思うと、面白いですね。



2015/12/13 12:45