不思議な気持ちだった。
 やりようもなく昇華もできず、空っぽになった心で透き通るように晴れ渡る青空を見上げる。

 ゼルダ様は確かにこの世界にいて、今も私たちを見守り続けている。でもそれはいくら手を伸ばしても届かない、遥か彼方の遠い空の上で。それが悲しいのか痛いのか苦しいのか、言葉で表現するにはこれっぽっちも足りない感情が私の中でせめぎ合っていた。

 ただ、確かに言えることがある。
 “あの頃”のゼルダ様はもういない。
 他愛もないないおしゃべりをして一緒に笑うなんてこと、もう二度と叶わない。優しく温かい体温を感じることだってできやしない。
 分かっている。全部分かっている、はずなのに。未だ実感の沸かない私の心は、ふわふわとどこに行き着くこともなく彷徨っていた。
 またゼルダ様がふと私の前に姿を現してくれるんじゃないかと期待してしまう。全部、悪い夢だったのではないかと考えてしまう。
 なんの根拠もない、ただの現実逃避。

「……だめ、目を逸らすな」

 私には、やらなければならないことがあるのだから。ゼルダ様が遺した知識を、知恵を、意志を未来のあの時代にまで繋がなければならない。そのためには、立ち止まってなんかいられない。
 これから先、はるか遠い未来に起こるとされる大厄災。そしてガーディアンや神獣を始めとするシーカー族の技術の全て。ゼルダ様の部屋に残された大量の書物の山に、それが記されている。この時代のものとは異なる文字で書かれたこれを私は翻訳し、後世に伝えていく使命がある。
 それがゼルダ様と私の最後の約束で、今となってはゼルダ様を感じることのできる唯一の繋がりだった。
 ゼルダ様はどんな思いであの大量の書物を書いたのだろう。たったひとりで、自責の念に苛まされながら、それでも同じ過ちを二度と繰り返さないために必死の思いで。

「ゼルダさま……っ」

 現実を目の当たりにしてようやく実感が湧き始めたのか、堪えきれずに涙と嗚咽が漏れる。

 どんなに願っても祈っても届かない。いつだって神様は私たちを救ってなんかくれない。
 だから私は──ううん、私“たち”は、自分の力で未来を変えてやると誓った。
 


***



 懐かしい匂いがする。

 ふわふわと心地良くまどろむ意識の中で感じる香り。私を優しく包み込んでくれるような、甘やかしてくれるような。思わずもっと眠ってしまいたい思いに駆られてしまうほどに酷く安心する、私が大好きなこの香り。
 そう、それはまるで──

「ゼルダ様ッ!?」

 弾かれるように飛び起きた。
 ゼルダ様の香りだ。私が間違えるはずがない。思わず目に涙が滲んでしまうほど懐かしい思いに駆られる。
 でも──あれ? ゼルダ様は……確か、

「……? なんだっけ」

 ゼルダ様が……どうしたんだっけ。
 何か、とても大切な約束をしていた……気がするけれど。

 思い出したいのに思い出せない。まるで記憶の欠片が剥がれ落ちてしまったかのような違和感。そんな妙な感覚に疑問を抱きつつ周囲を見回してみると、見覚えのない家の中に私はいるようだった。
 誰かが暮らしている民家なのだろうか、本の置かれたデスクや壁に飾られた絵画が見られる。そして私はベッドに寝かされていたようで、ベッドサイドには看病の跡なのか水の張った桶にタオルが浸っていた。
 この状況に全く頭がついていかない。どうして私はこんなところにいるんだろう。眠る前は……何をしていたんだっけ。

「……とりあえず、家の人を探さないと」

 掛け布団をどかすと、ゼルダ様の香りがふわっと鼻をかすめる。本当にゼルダ様のお部屋……なのだろうか。でも、部屋の内装や装飾品からしてここは王都じゃない。ゼルダ様が王都を離れて暮らすなんて危険なこと、ラウル様もソニア様も認めるとは思えないけれど。

 視線を窓の外に広がるのどかな風景へ移し、次に階下をちらっと覗く。
 誰もいない。
 不安な気持ちが徐々に押し寄せてくるのを振り払い、階段へと足を向けた、そのときだった。

「……え」

 壁に掛けられたひときわ大きな絵画の中。そこにゼルダ様が描かれていることに気が付いた。
 髪型が違っているけれどゼルダ様に違いない。一緒に描かれているのは──ゾーラ族、ゴロン族、リト族、ゲルド族、そしてハイリア人の男の人。全員、私の知らない人たち。
 顔は知らない、けれど。私は知っている。この人たちは、

「英傑様……?」

 ゼルダ様から伝え聞いた、はるか未来でハイラル王国のために戦い命を落とした英傑様たち。きっとその人たちだ。特徴も一致している。
 でも、どうしてここにそんな絵が? しかもこの絵の精巧さ。まるでシーカー族が創り出すとされる未来の技術、“ウツシエ”のような──

「あら、目が覚めましたか?」
「ひいっ!!」

 思考の途中、不意打ちで声をかけられたものだから思いがけず大声を上げてしまった。それに驚いたのか、先程の声の主が「きゃっ!」と小さく叫ぶ。
 ああ申し訳ない。ぎこちなく振り返ると、開いた家の扉から顔を覗かせる女の人と目が合った。その瞬間、まるで時間が止まったかのように、息をするのも忘れてしまうほどに、彼女から目が離れなくなってしまった。
 だって、その人は。私がずっと想い続けていた、

「ゼルダ……さま?」

 信じられない。夢でも見ているようだった。
 会いたかった。ずっとずっとずっと。

「──ッ、ゼルダ様!!」

 溢れ出す思いを止めることができなくて、ゼルダ様の元に駆け寄り彼女を抱きしめた。
 本当にゼルダ様だ。夢じゃない。あったかい。ちゃんと触れる。やっと手が届いた。
 ぼろぼろと涙を流しながら繰り返し彼女の名前を呼ぶ。もう絶対に離すまいと腕の力を強め、ぎゅうときつく抱きしめる。すると、「あの……」と戸惑いの声が聞こえてきた。
 あ、いけない。いくら久しぶりだからとはいえ、突然抱きしめたりなんかしたら失礼だ。
 慌てて腕を離し、ゼルダ様と向き直り勢い良く頭を下げた。

「も……申し訳ありません! 久しぶりにお会いできたので、つい……!」
「い、いえ……? 大丈夫ですよ」

 ゼルダ様は乱れた髪を耳にかけ笑ってみせた。でも、その笑顔の中に隠しきれない困惑がびしびしと伝わってくる。それに距離感も──確実に、いつもと違う。
 「大丈夫」とは言いつつも、私との間に一線を引いているような、警戒しているような。そんな空気を感じ取り、不味いことをしてしまったかと身を小さくする。そのまま少し気まずい時間が流れていたけれど、ややあってゼルダ様のほうから声をかけてくださった。

「あの……もう体調は良くなりましたか?」
「えっ!? あ、はい! 大丈夫です!」
「良かった。外に倒れていたので心配しましたよ」
「もっ、申し訳ありません! ゼルダ様のお手を煩わせてしまい……」

 深々と頭を下げると、「気にしないでください」と優しい言葉で返されじんわりと心が暖かくなった。
 なんとなく心に引っかかるものはあるけれど、ゼルダ様とまたお話できるなんて思ってもみなかったから、嬉しくて堪らなくて今にも舞い上がりそうな気分になる。本当に夢じゃないんだよね。まだ信じられない。

「ところで、聞きたいことがあるのですが……」
「はい! 何でしょう?」

 とびっきりの笑顔で返事をする。
 けれど、この後に続く言葉で私の浮かれた気分は一気に叩き落とされた。

「貴女──お名前は何と言うのですか?」

 と。
 確かにゼルダ様はそう言った。
 真っ直ぐに、私の眼を見て。

「……え、」

 想定外の言葉に思考が止まる。一瞬、何を言われたのか分からなかった。頭の中に反響するその言葉がゆっくりと胸の底に落ちていき、ようやく意味を理解する。
 久しぶりすぎて忘れられてしまったのだろうか。数年──いや、数十年? 何故か記憶があやふやで、どのくらいの期間会えなかったのか思い出せない。でもゼルダ様の髪が腰のあたりまで伸びているのを見るに、少なくとも年単位の時間は経っているはずだ。
 でも、そんな数年ぽっちで忘れられてしまうなんてこと、あるだろうか。毎日一緒にいたのに、あのゼルダ様に限ってそんなこと──あるはずが、ない。

「……ナズナ、といいます」

 震える手を固く握りしめ動揺を抑え込み、なんとか声を絞り出す。
 ゼルダ様は一瞬目を見開いた……ような気がしたけれど、大切な人に忘れ去られていたという衝撃が胸に重くのしかかり、それを気にするどころじゃなかった。

「も、申し訳ありません。貴女とお会いしたことがある……ような気はするのですが、どうしても思い出せなくて」

 ゼルダ様は私の心の内を察知したのか、慌てて言葉を付け足した。でも、その顔は今にも泣き出してしまいそうで。それを見た私も、胸がぎゅうっと締め付けられたように痛くなる。
 そうか。多分、ゼルダ様は一時的に記憶が不安定になっているだけだ。こちらの時代に時渡りをしてきた直後も、ところどころ記憶の欠落がみられたと言っていたから、その影響がまだ残っているのかもしれない。きっと心の奥底では私のことを覚えてくれているはず。
 それなら──

「っ、ゼルダ様、時の神殿へ向かいましょう」
「え? 時の神殿……ですか?」
「はい。私がご案内します!」

 ゼルダ様と私にとって大切なあの場所──時の神殿に行けば、思い出してくれるかもしれない。
 回生の眠りで記憶を失った英傑様は、欠けた記憶と関連する地を巡ることで記憶を取り戻した。あの話が事実なら、ゼルダ様にもそれが当てはまる可能性は充分にある。

 そう思い立ったらいても立ってもいられなくて、私はゼルダ様の手を引き勢い良く外に飛び出した。
 ここがどこなのかは分からないけれど、空島を見れば大体の方角は分かる。ゼルダ様をお守りしながら時の神殿に辿り着くことくらい、私にだってできる。

「って──あ、あれ?」

 そう思っていたのに。
 頭上に広がるのは青く澄み渡る空。でも、いつも見ている空じゃない。
 なんにもない。何も浮かんでいない。目印になるような空島が──ひとつも。

 ゾナウ族の技術で大空に浮かぶ空島。それはハイラルに住む私たちにとってごく当たり前の光景であり、生活にも関わりの深い存在だ。
 空を飛ぶ術を持たない一般人は到達することさえ困難なものの、方角を示す目印として旅人には重宝され、特有の植生がみられることから食材や薬草の採取地としても重要な場所。そうやって当たり前に存在していた空島が、どういう訳かきれいさっぱり消えてしまっている。
 この異様な光景に、私はただ呆然と口を開け空を仰ぎ見ることしかできなかった。そんな中、さっき目覚めたときから感じていたぼんやりとした違和感が頭の片隅で形を成す。

「どうかしましたか?」
「いえ、その……空島はどこにいっちゃったのかなーって……」
「空島……?」

 この様子、ゼルダ様も空島のことを知らないようだ。もし私の予想が当たっていたらと思うと、もはや乾いた笑いしか出なかった。
 ウツシエらしき英傑様の絵が存在していたり、ゼルダ様の髪やお召し物がいつもと違っていたり、空島が無くなっていたり。ゼルダ様も多分、私のことを“忘れて”いるんじゃなくて“知らない”のだろう。
 恐らく──私たちはまだ、出会ってすらいなかったのだから。
 
 そう。私は時渡りしてしまったのだ。
 魔王ガノンドロフの封印が解かれる前の時代に。

back

×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -