03
思い返せば、私が一冊の雑誌を買うために朝早くから本屋へ急いだのはこれが初めてだった。
そもそも普段これといって定期購読しているような雑誌はないし、読むとしても美容室に行ったときに渡されるファッション誌をパラパラと眺める程度。それなのに、グルーシャくんの記事が載っている今日発売のスポーツ雑誌"パルデアスポーツ"を大事に抱えレジに並ぶ私がいる。
読むだけなら立ち読みでも電子版でもいいはずなのに、憧れの人が表紙を飾るこの雑誌だけはどうしても手元に置いておきたくて。自分の単純な思考回路に心の中で苦笑しつつも、写真の中で最高の笑顔を見せるグルーシャくんを見て高鳴る胸の鼓動は止めることができなかった。
「絶対零度トリックって呼ばれてるんだ……! カッコいい二つ名だね!」
「……そーだね」
「それにこの『いつでも挑戦受けてたつぜ!』って言葉もグルーシャくんらしくて──」
「あ゙ーもう! なんであんた本人の前で音読すんの!」
放課後のグラウンドの片隅に勢いの良い声が響いた。
その声の主のグルーシャくんは顔を真っ赤にしながら抗議の目を私に向けてくるけど、なんで恥ずかしがっているんだろうかと私は頭に疑問符を浮かべる。パルデアで有名なスポーツ雑誌に取り上げられて、しかも堂々と表紙を飾ってこんなカッコいいインタビューまでされてるのに。
「ご……ごめんなさい……?」
きょとんとする私の隣で決まりが悪そうに頭を掻くグルーシャくんは、恥ずかしさを誤魔化すようにチルタリスをボールから出す。
「いいからほら……早くブラッシングしてやってよ。チルタリス楽しみにしてたんだから」
その言葉の通り、チルタリスは待ってましたとでも言わんばかりに心地よいさえずりを奏でながら私の側に寄ってきて、早く早くと頭をぐりぐり私に押しつけてきた。
「わ……ちょっと待ってね、今やってあげるから!」
私は慌てて雑誌をベンチに置いてバッグからブラシを取り出し、いつものようにふわふわの羽毛を梳かし始める。その様子を見てグルーシャくんは少し長めに息を吐き、私が置いた雑誌を手に取ってパラパラとページをめくった。
「この雑誌、購買で買ったの? 自分で言うのも何だけどよく買えたね」
「ううん、学校始まる前に本屋さんに行ってきたの。購買だと売り切れちゃうと思って」
アカデミーに在籍している生徒が表紙を飾るということもあり、今月号だけは購買部でも普段より多めに発注したという話は聞いていた。でもグルーシャくんには友達も多いしファンも多い。記念に現物を買っておきたいと考えていた人はそれはまあ沢山いたようで、入荷していたぶんは朝のうちに完売してしまったらしい。それを聞いたとき、念のため朝一で本屋に走って本当に良かったと胸を撫で下ろしたものだった。
「へえ……そっか」
私の返答にグルーシャくんは口元を緩めたりぐっと引き締めたり変な表情を浮かべる。
さっきから表情がころころ変わって変なのと思ったけれど、大会まであと二週間を切ったから気が張ってるのかなとあまり気にしないようにしてあげた。
「──はい、おわり! 今日も良い毛並みだったよ。ありがとチルタリス」
お手入れを終え、ポロックを手のひらに乗せて差し出すとチルタリスは甘えるようにひと鳴きしてそれをついばんだ。
きっと今日もナッペ山でグルーシャくんの練習の付き添いをすると思うから、このポロックには辛味成分のあるマトマの実を混ぜている。辛い味が苦手なチルタリスにバレないようほんの少しだけ。マトマの実は少しだけでも身体を温める作用があるから、あの寒いナッペ山で活動するのに多少は役立つと思ってのことだ。
「ねえ、今日はどうする? 一応晴れの予報だけど」
手のひらに触れるくちばしのくすぐったさに癒されていたら、グルーシャくんが上着を着ながら私に尋ねた。
「行きたいけど……大会終わるまでは遠慮しておくね。邪魔しちゃ悪いし」
初めてグルーシャくんの滑りを見たあの日以来、晴れの日限定ではあるけれど私はたまに練習にお邪魔させてもらっている。
もちろん今日も行きたい気持ちはあるけれど、流石に今の大切な時期にグルーシャくんの集中を欠かせるようなことはしたくない。だからしばらく顔を出さないようにしようと今朝決めていたのだ。
「そっか。じゃあチルタリス、それ食べ終わったらナッペ山に──」
そうグルーシャくんが言いかけた瞬間、私の腰に付けていたモンスターボールがカタリと揺れ、アブソルが突然ボールの外に飛び出した。
「あれ? どうしたの、アブソル」
自分から外に出るなんて珍しい。不思議に思い首をかしげると、アブソルはグルーシャくんの元へ近寄り上着の裾を噛み、そのままぐいぐいと引っ張った。
「あっ! だめだよ噛んじゃ……!」
制止しようと慌てて駆け寄ると、アブソルは上着から口を離し何かを訴えるように私の目を真っ直ぐに見つめた。その赤い瞳は私の心になんとも形容しがたい胸騒ぎを覚えさせ、心がざわざわと激しく波打った。
「ごめんな、また明日遊んでやるよ」
笑いながらアブソルの頭を撫でるグルーシャくんに視線を向ける。一見いつもと変わらないこの光景。でも──何だろう、この違和感。言葉では上手く表せないけど、何かが胸に引っかかる。
グルーシャくんはポロックを食べ終えたチルタリスの頭を撫で自分のバッグを手に取った。このままだとグルーシャくんは練習に行ってしまう。
──だめ、行かないで。
「待って!」
咄嗟に口をついて出たのは彼を引き止める言葉だった。驚いた様子で私に視線を向けるグルーシャくんは一瞬戸惑い動きを止めたものの、ちらっとスマホを確認した後申し訳なさそうに眉を下げる。
「悪い、もう行かないと練習時間なくなるから」
「あ……そ、そうだよね。ごめんね引き止めちゃって」
それ以上は強く言えなかった。根拠も何もない私の胸騒ぎなんかでグルーシャくんの練習の邪魔をしたくなかったから。大会前の大切な時期に変なことを言って不安を煽りたくなかったから。
アブソルはグルーシャくんのほうをじっと見つめている。でも、さっきみたいに何かをする様子はみられない。違和感があったのは本当にあの一回、一瞬だけ。
気のせいだった。そう自分に言い聞かせ、「また明日」と手を振るグルーシャくんの背中を見送った。
この判断をしたことを、死ぬほど後悔するとも知らずに。
***
息を切らしながら必死にハッコウシティの街中を駆ける。心臓が張り裂けそうなほどに痛み、目からはとめどなく大粒の涙が流れ止まらない。
私のせいだ。私があのとき止めなかったからだ。
後悔してもしきれなくて胸の中から溢れ出た真っ黒な感情が身体の中を駆け巡り、大声をあげて泣きたくなる。でもそんなことをしていてもグルーシャくんに会えないのは分かっているから、叫びたくなる衝動を必死に抑え病院へとただひたすらに急いだ。
『スノーボーダーのグルーシャ選手 雪崩に巻き込まれ意識不明の重体』
朝起きて目に飛び込んできたのは、信じられない、信じたくもないニュースだった。
現実だと思えなくて、たちの悪いデマなんじゃないかとしか思えなくて。震える手で何度も何度もグルーシャくんに電話を掛けたのに一向に繋がることはない。嘘だ嘘だと頭の中で繰り返しながら学生寮を飛び出して、向かった先はグルーシャくんが搬送されたというハッコウシティの病院。私が着いたときには既に大勢の人だかりができていて、その中心にはよく見知ったポケモンの影が見えた。
「──っ、チルタリス!?」
人混みをかき分け、ぐったりとその場に倒れ込むチルタリスの元へ駆け寄る。真っ白だったはずの羽毛は泥や血にまみれていて、首や脚にはところどころ包帯が巻かれその痛々しい姿に思わず息を呑んだ。治療された形跡こそ見られるものの、酷く衰弱しているのは目に見えて明らかだ。
「なんでこんなところに……! 早くポケモンセンターに行かないと!」
でも、素人が下手に動かしていいものかどうかも分からない。一瞬躊躇ったもののチルタリスの負担を考えるとジョーイさんを呼んできたほうが早いと判断し、ポケモンセンターへ向かおうとしたら「どいたどいたー!」の声と共に人だかりが割れた。そしてその奥からは、焦った様子で息を切らしこちらに駆けてくる淡いパステルカラーの長髪の女性の姿が。
「ナンジャモちゃ……さん!?」
それは有名な動画配信者で且つハッコウシティのジムリーダーであるナンジャモさんだった。後ろにジョーイさんを引き連れた彼女は、私を見るや否や慌ててチルタリスとの間に入る。
「ゴメンそこのキミ! ちょいと離れててね!」
その勢いに押され、言われた通り一歩後ずさる。そしてジョーイさんがチルタリスの元へ駆け寄りボールに入るよう促すけれど、チルタリスは力なく首を横に振り頑なにその場を動こうとはしなかった。
「っあの! 私グルーシャくんの友人で……! チルタリス、どうしたんですか!?」
どういう状況なのかを知りたくて、二人に思い切って声を掛けた──その瞬間、周囲がざわっとどよめく。その喧騒にナンジャモさんの表情が険しくなったと思ったら、今までチルタリスを囲んでいた人たちが私の周りに押し寄せ私の視界は人の壁に遮られてしまった。
「──今回の事故に対して、ご友人として今のお気持ちは!?」
「選手生命が絶たれる程の大怪我だと言われていますが、彼にどんな言葉をかけたいですか?」
「発見されたのはコースから外れた場所でしたが、彼は普段からあんな危険な場所で練習しているんですか──」
四方から聞こえてくるのは、励ましでも慰めでも心配の声でもなく、ただ我先にと新しい情報を求める声の嵐だった。
私に向けられた沢山のカメラやスマホの向こうにいる人たちは、私から何か言葉を引き出そうとありとあらゆる質問を投げかける。
──なにこれ。何してるの、この人たち。みんなグルーシャくんを心配して……ここに集まってるんじゃないの?
なんで、こんな嬉々とした顔をしているんだろう。まるで餌に群がる魚みたいに。グルーシャくんは大怪我をして、チルタリスだってこんな酷い状態なのに。どうして。
この人たちの気持ちが理解できなくて、理解したくもなくて愕然とただその場に立ちすくむ。するとナンジャモさんが私を庇うように前に立ち、彼らに向かって声を上げた。
「はいはい皆の者ー! インタビューもコラボもリスペクトがないと炎上しちゃうぞ〜って……さっき言ったのに忘れちゃったかな?」
笑顔ではあるけれど、その声色からは明らかに怒りの感情が読み取れる。いつもの底抜けに明るい彼女からは想像できないピリッとした雰囲気の変化に怯んだのか、耳障りな喧騒が一瞬にしてぴたりと止んだ。
「しかも! ここ病院。騒いでいい場所じゃないってみーんな分かってるよねぇ? 取材許可取った人いるかな? 手ぇ上げてー!」
先程とは一転してしんとした気まずい空気の中、手を上げる者は誰一人としていなかった。それでもカメラを回し続ける人がいることに痺れを切らしたのか、ナンジャモさんが呆れた様子でスマホロトムを取り出し彼らに向けるとようやく焦る様子がみられる。
有名な配信者に自分たちの非常識な行動を配信されたらたまったものではないとでも思ったのか、一人、また一人とばつが悪そうにカメラを下ろし──次第に人だかりはまばらになっていった。
「……ふい〜、なんとかなったかな?」
ややあって、ナンジャモさんが汗を拭うような仕草をして私のほうを振り返る。
助けてくれた──けど、彼女は視聴者からのイメージをとても大切にしているはず。この街のジムリーダーという立場上あの騒ぎを放っておけなかったこともあるかもしれないけれど、私を庇うためにイメージを壊すようなことをさせてしまったのは事実だ。そう思うと申し訳なくて謝ろうとしたら、
「あっキミは気にしないでね! 配信者として言いたいこと言ったまでまで〜!」
と、私が口を開く前にいつも配信で見ている元気の良いウインクが飛んできた。私を気遣う彼女の優しさと明るさに、ぐちゃぐちゃになっていた心が少しだけ落ち着きを取り戻す。
「──っ、ありがとうございます……っ!」
「いーのいーの。それよりキミだいじょぶ? バズればなんでもいいって人たちいっぱい来てるから、ここから離れてたほうが良さげだよ!」
「でも、グルーシャくんに会うために来たので……それにチルタリスも酷い怪我だし……」
チルタリスに視線を向けると、先程のごたつきの間にジョーイさんが眠らせたのか微かに寝息が聞こえてくる。しっかり眠っていることを確認した後チルタリスはボールに戻され、ナンジャモさんはほっと安心したように息を吐いた。
「気持ちはすっっごく分かるけど、今は親族の人しか会えないっぽいの。あのコもご主人に会いたくて治療中に逃げてきちゃったんだけど、あのケガじゃまだ会わせらんないんだよねぇ……」
「っ、そう……ですか」
だからあんな酷い怪我をしたままこんな場所にいたんだ。グルーシャくんに会うために。
唇をぐっと噛みしめ、『雪崩に巻き込まれ崖から滑落』と記事に書かれていたことを思い出す。想像でしかないけれど、多分、チルタリスは雪崩に巻き込まれたグルーシャくんを助けようとして……そのままふたりは。
「ふたりとも会わせてあげたいのはやまやまなんだけど……その辺の権限はボクにないんだよ、ゴメンね」
「いえ、教えてくれて……ありがとうございます」
頭の中では分かっていた。昨日の今日で、きっとまだ治療も終わっていないであろうグルーシャくんにただの友人の私が会えるはずないことは。でも、それでも居ても立っても居られなくて、少しでもいいからグルーシャくんの側にいたかった。私の単なる独りよがりの我儘だ。私にできることなんて、何もないのに。
「その代わりチルタリスはちゃーんと治すし、野次馬もボクが追っ払うから! だから……キミは休んどいて。今は色々ショッキングでつらいでしょ」
「っ、はい……」
ナンジャモさんの優しい気遣いが胸に沁みる。ぽろぽろと溢れる涙を止めることもせず何度も彼女に頭を下げ、私は後ろ髪を引かれながらも病院を後にした。
***
アカデミーに戻った私は授業にも出ず自分の部屋に引きこもり、山のように乱立する事故の記事にひたすら目を通し続けた。
グルーシャくんが発見されたのはコースから離れた崖の下。か細い声で鳴き続けるチルタリスの声を聞きつけた救助隊がふたりを見つけたとき、チルタリスはグルーシャくんに覆いかぶさり決して離れようとしなかったと書かれた記事を見つけたとき、胸が抉られるように苦しくなった。
自分の羽毛で落下の衝撃と寒さからグルーシャくんを守り、大怪我を負いながらも救助隊が来るまで必死に耐えていた。自分の羽の中でグルーシャくんが目を覚まさず次第に衰弱していく姿を見てチルタリスは何を思っただろう。きっとチルタリスは自分を責めている。大好きなグルーシャくんを守れなかった──と。
そして、そうさせてしまったのは誰でもない、この私だった。
痛い。心臓が、張り裂けそうなほどに。
ぎり、と自分の腕に爪を立てる。後悔の波がざわざわと心の中で渦巻いて、あっという間に飲み込まれてしまいそうだった。頭のてっぺんから足の先まで、冷たく暗い感情が駆け巡る。
私は知っていたはずなのに。アブソルが災害の予兆を察知できることを。何で気付けなかったんだろう。何であの違和感に気付かないふりをしてしまったんだろう。アブソルは私に教えてくれていたのに。グルーシャくんを止めようとしていたのに。
アブソルは昔のトラウマから、ずっとこの力を人には見せないようにしていた。それなのに勇気を出して伝えてくれたんだ。ずっと一緒にいる私がそれを分かってあげられないなんて、私はアブソルのことも裏切った。今さら後悔したって遅いのに。
罪の意識に耐えられなくなって、その場で崩れるように声を上げて泣き叫んだ。そうしていないと、頭がどうにかなってしまいそうだった。
私のせいだ。全部。なにもかも。
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