最近のぼくはどこかおかしい。

 こうなったのはあのバトルを終えた後からだった。事務的にこなすいつものつまらないバトルなんかじゃなくて、ぼくの心の奥底に眠っていた熱を再び呼び起こすような白熱したバトル。
 あれ以来、まるで春の雪解けのように、周りの景色がガラリと変わって見えるようになった──のだけれど。



「グルーシャくん、本当に大丈夫?」
「っ、だから平気だってば……」
「ならいいけど……体調悪かったらすぐ言ってね」

 ジムのロビーでアルクジラを遊ばせつつ、ぼんやりとアヤメを眺めていたら、具合が悪いとでも思われたのか心配そうに声をかけられた。
 ぼくの顔色を確認しようとするアヤメから必死に顔を逸らし、マフラーをたくし上げ鼻まで覆うとアヤメは諦めたのかひとつ溜め息をついてぼくに背を向ける。
 離れてくれてほっとしたはずなのに、何故か離れるのを惜しむ気持ちも湧いてくるという矛盾した心の内の真意はぼくにはよく分からない。

「……やっぱり変だ」

 仕事に戻るアヤメの後ろ姿を見つめながら、誰にも聞こえないようにぽつりと呟く。
 いつも通りの会話、いつも通りの光景。ただいつもと違うのは、アヤメのことがずっと頭から離れず妙に気分が高揚していること。
 とりあえず心を落ち着けようとアルクジラの頭を撫でてみた。アルクジラの嬉しそうな笑顔にほっこり癒されるけど、胸の鼓動は相変わらず速いまま。

「よし、終わり。次は──」

 耳に届くのはアヤメの独り言。聞こうと思っている訳じゃないのにどうしても意識がアヤメに寄ってしまうのは何故なんだ。
 当の本人のアヤメはというと、ぼくがこんなもやもやした気持ちを抱えているとは知らずにテキパキ仕事をこなしている。今だって、書類の整理をしていたと思ったら今度は上着を着込んでスコップを片手にジムの外へ──っていうかちょっと待って。

「え……一人で?」

 当たり前のように出ていったけど、今はジムの外には誰もいないし他のスタッフがアヤメの後についていく訳でもない。バトルコートを一人で除雪するのはそれなりに重労働だと思うけど。それに、今は晴れて見晴らしが良いけどジムの周りには崖だってあるんだから。







「アヤメ」

 気付けばスコップを持ちアヤメの後を追っていた。ぼくの声に振り向くアヤメはその大きな目をぱちくり開いて驚いたような顔をする。

「ぼくも手伝う」

 なるべく平静を装って話しかけたつもりだったけど、少し声が震えた気がした。
 おかしい。何でアヤメに話しかけるだけでこんな緊張するんだ。それにアヤメはアヤメであからさまに戸惑って微妙に気まずい空気になってるし……あ、そうか。基本的に雪かきはスタッフの仕事だからぼくが進んで手伝うのは違和感あるか。つい身体が先に動いたからそこまで考えてなかった。

「だ……大丈夫だよ? 今はそんな積もってないし──」
「っ、でもアヤメひとりじゃ大変だろ」

 案の定断られたものの、アヤメが最後まで言い終える前に無理矢理言葉をねじ込んだ。ちょっと必死になった感は否めないけど、ここで引くのは格好悪すぎるから仕方ない。
 そもそもスタッフが進んで雪かきをしてくれるのはぼくの怪我を気遣ってのことだ。最近は痛むことも少なくなったからぼくが手伝っても何もおかしいことなんてない、と自分に言い聞かせこの行動を肯定しておくことにする。

「……じゃあ、お言葉に甘えようかな。ありがとう」

 少しの間をおいて、ありがとうの言葉と共にアヤメの微笑みがぼくに向けられた。今までだって何度も見たはずの、なんてことない普通の笑顔。それなのに、心の中にぽかぽかと陽だまりのような光が差して胸が温かくなるのは何故だろう。
 そのむず痒い感覚に顔がにやけそうになって、それを見られまいとマフラーで必死に口元を隠した。



***


 静寂に包まれていたバトルコート上に、スコップで地面を擦る音が響く。リズムが違う二人分のその音が重なり合うことに心地良さを感じつつ、ちらりとコートの向こう半分に目をやると野生のアルクジラに囲まれながら除雪しているアヤメの姿が見えた。手を止めることもなく、時折話しかけながら作業を続けているからきっといつもの光景なんだろう。相変わらずアヤメはポケモンに懐かれやすいな、と無意識に頬が緩む。


 アヤメはぼくとぼくのポケモンたちが最高のコンディションで戦えるよう、いつも細かいところまで気を配ってくれている。
 このバトルコートの管理もそうだけど、何よりぼくのポケモンたちそれぞれに合ったフードの調達や環境配備、更にはマッサージやブラッシングまで何でもこなし、正直なところぼくがジムリーダーをする上で必要不可欠な存在だ──なんて素直に思えるようになったのは、あの挑戦者との試合に敗北し、見える景色が変わってからだった。
 それまでのぼくは、自分とポケモンたち以外見えていなかった……いや、見ないようにしていたから。

 選手生命を絶たれたぼくを腫れ物のように扱うでもなく、"悲劇の人"として薄っぺらい同情心で見る訳でもなく、ただ純粋にぼくのために側にいてくれたポケモンたち。その皆の思いに応えるためぼくはジムリーダーになり、最強であり続けた。当時はそれがぼくの新しい存在意義だと信じるほかなかったし、それだけに集中していれば余計なことを考えなくてすんだから。
 でも、つい数週間前。そんなしがらみを吹き飛ばすほどに心が燃える試合を終え、久しぶりに目の前に広がったのは鮮やかに彩られた世界だった。モノクロのフィルター越しでは見えなかった景色──
 そう、馬鹿みたいだけど今更になって気がついたんだ。アヤメもずっとぼくの側にいてくれたことに。





「お礼……の前に謝ったほうがいいのか」

 誰に向けた訳でもない独り言は雪に吸い込まれ消えていった。
 昔のことを思い返せば返すほど、どうしてアヤメにあんなことを言ったのか自己嫌悪に陥って溜め息ばかりが口から漏れる。今は普通に接してくれてはいるけど、それはアヤメが優しいからであってきっと傷付かなかった訳じゃない。

「本ッ当、サムくて嫌になる……」

 ぼくがこんなにもアヤメのことを気にして止まないのは、アヤメに謝罪することでこの罪悪感を消し去りたいからなのかもしれない。助けになりたいと思うのは後ろめたさがあるからで、鼓動が速くなるのは拒否されるのを恐れてるから。
 きっとそうだ。だからこの胸いっぱいに広がる苦しくて行き場のない思いは早く吐き出してしまおう。そうすれば昔みたいにアヤメと接することができるはずだから──

「グルーシャくん、そろそろ引き上げよっか」
「っ!!?」

 やば、心臓止まるかと思った。いつの間にいたの。

 悶々と考え事をしていたせいで、アヤメが隣に立っていることに全く気が付かなかった。
 不意をつかればくばくと心臓が激しく鳴り響く中、必死にポーカーフェイスを作って「もういいの?」と返す。

「おかげさまで。ありがと、助かっちゃった」

 そう言ってアヤメははにかんだような笑顔を向けた。初めて出会ったときから変わらない、ぼくの心を優しく包み込んでくれる笑顔。
 酷いことを言ったのに、寄り添おうとしてくれた思いを無下にしたのに。そんなぼくにもまだ笑顔を向けてくれる。何でぼくはこの笑顔を見ないようにしていたんだろう。沢山の人がぼくから離れていっても、アヤメはずっと隣にいてくれたのに。

──あれ? 何だ、この気持ち。

 まるで春一番の強風が追い風になったかのように、胸につかえていた思いが溢れ出す。
 伝えないと。今、この場所にはぼくとアヤメの二人しかいない。あのときのことを謝って、前みたいに仲の良い"友達"に戻りたいから。

「──っ、待って」

 気持ちばかりが早まって、咄嗟にアヤメの腕を掴んでしまった。それを想定もしていなかったであろうアヤメはバランスを崩し転びそうになり、ぼくは慌ててアヤメを抱きとめる。
 自分のやらかしに一瞬青ざめたけど、アヤメとこんなに密着するのは初めてで。ぼくの顔にはあっという間に熱が集まってしまった。
 アヤメはぼくから離れようと腕の中でもがいているけど、生憎離すつもりはない。だってやっと二人きりになれた。捕まえた。ずっとずっとアヤメが欲しくてたまらなかっ──

「……?」

 ぼく、今何を考えた?
 アヤメが欲しいだなんて、いやまさかそんなこと。ただぼくは単なる仕事仲間じゃなくて昔みたいな友達の関係に戻りたいだけで、それ以上の思いなんてない訳で。
 ……ああもうなんかよく分からないから、余計な考えが浮かんでくる前にさっさと言ってしまおう。

「あのさ、」

 アヤメの肩が小さく跳ねた。その仕草がまるで驚いてぴょこんと跳ねるユキワラシのようで、ぼくにすっぽりと収まり抱きしめられている姿を見ていると愛おしい気持ちで胸が満たされていく。
 早く伝えろ。アヤメのことが好きだ、って。
 


──ん?



「えっと……???」

 "好き"? いや何それちょっと待て。
 ぼく、謝ろうとしてたよな。さっきから何だこれ、無意識に頭に浮かんでくる言葉がおかしいんだけど。ぼくはアヤメのことが好きなのか? 友達としてじゃなく?

 突然降って湧いたこの気持ちに動揺が隠せず、もはや謝罪するどころではなくなってしまった。いや、降って湧いたんじゃなくて抑えつけていたアヤメへの思いが一気に溢れた結果なのか? 分からない。
 どちらにせよ、当初のぼくの意思とは無関係に感情が動き出している。そして一度意識してしまったらこの思いを止めることができなくて、衝動的にアヤメの腰に手を回した。
 ぼくの目に映るのは驚いて目を丸くしたアヤメの顔。寒いせいかカジッチュのりんごみたいに頬を真っ赤に染めて、それが可愛くてもっと見ていたかったけど、アヤメは俯いてぼくから顔を逸らしてしまった。

「アヤメ」

 精一杯の愛おしさを込めて名前を呼ぶ。それだけで幸福感に包まれるのだから我ながら単純だと思う。ああそうか、だから最近アヤメの名前を呼びたくてしょうがなかったのか。
 好きだ。好きなんだ。そう言ってしまえばきっとぼくの気持ちは晴れるだろう。

 でも──

『もう来ないで。どうせあんたもぼくのこと、陰で蔑んでるんだろ』

 ふと一陣の風が吹き、脳裏によぎったのはあのときアヤメに言い放った言葉だった。露わになった頬に耳先に刺すような痛みが残り、浮かれていた気分は急激に現実へと浮上する。

──そうだ、ぼくは一度理不尽にアヤメを突き放し傷付けた。それなのに今度は軽々しく"好き"だなんて。そんなの、言えるはずがない。いや、言っていいはずがない。
 
 ぎり、と唇を噛み締め、はやる気持ちをぐっと押さえ込む。"好き"を伝えるのは今じゃない。まずはあのときのことを謝ってから──そう理解はしているはずなのに。アヤメを好きだと自覚してしまった脳内は、この状況に冷静でいてはくれなかった。

 ……あれ、やばい。距離感が分からない。さっきまでアヤメとどう接してたんだっけ。

 この短時間で情緒が激しく乱高下したからか、混乱して動揺してどう会話を切り出せばいいか分からずただ焦りだけが増していく。でもそんな言い訳をしても時間は止まってくれないし、今ぼくがアヤメを抱きしめている事実も変わらない。
 頭の中で収拾がつかなくなり、焦りが頂点に達した──そのとき、再び冷たく強い風がぼくの髪を撫でた。その風に乗った二人ぶんの白い吐息が遠くで消えるのを見て、やけに寒さが身にしみることに遅れて気付く。そしてそれはアヤメも同じようで、ぼくの腕の中で微かに身じろぐのを感じはっと正気に戻った。

 そして、咄嗟に口から出た言葉は。




***




「……やらかした」

 休憩室の椅子に座り、頭を抱えながら長い長い溜め息を漏らす。
 あの状況で「エネココア飲む?」なんて空気が読めないにも程がある。何もなければ別におかしくはない会話だったんだろうけど、あんな意味ありげに長時間抱きしめておきながら……あぁ、アヤメにも変に思われた。絶対。

「っ、冷た……なに? どうしたの」

 一人で唸っていたら、アルクジラがぼくの頬にぴたぴたと手のひらを押し付けてきた。高揚感と恥ずかしさとでまだ顔の赤みが引いていないから、ぼくが風邪をひいたとでも思ったのだろうか。

「大丈夫だよ、熱がある訳じゃないから」

 とは言いつつも、自分でも顔に熱が集まっているのは分かるから説得力なんてないだろう。
 あまりに心配そうに鳴くものだから、落ち着かせようと頭を撫でてやると抱きつかれてしまった。アルクジラの身体はひんやりしてるからちょっとサムいけど、健気さが心に沁みて落ちていた気分がじんわり癒される。
 でも、あまりゆっくりしてたらアヤメにこの情けない顔を見られてしまう。二、三度深呼吸をして立ち上がり、いつものポーカーフェイスを顔に貼り付けて給湯室へと向かった。

「あ……そういえば謝ってないじゃん」

 エネココアのパッケージを手に取りながら、当初の目的を果たしていなかったことを思い出す。でも、抱きしめながらの謝罪ってどうなんだ。今のぼくとアヤメの関係は単なる仕事仲間なのに。

「というか、見られてないよね……」

 今になって不安になってきた。真っ赤になった顔をもしアヤメに見られていたらと思うと、なんて言い訳をすればいいのか分からないから。


 今までの人生スノボとポケモンのことしか頭になかったからなのか知らないけど、まさかこんなに恋心に翻弄されるなんて思いもしなかった。
 本日何回目になるか分からない溜め息をつき、二人分のマグカップに熱湯を注いだ。

back

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -