最近、グルーシャくんがおかしい。
 

「アヤメ」

 薄く積もる雪が太陽の光を反射して、眩しいくらいにきらきら輝くバトルコートの中に立つ私の背後から聞こえてきたのは私を呼ぶグルーシャくんの声だった。
 名前を呼ばれるのは本日何回目になるだろう。今までは「ねえ」とか「あんた」ばっかりで、呼ばれたことなんてほとんどなかったのに。
 違和感はあるけれど、やっぱり憧れの人に名前を呼ばれるのは嬉しいもので。雪かきをしていた手を止めて、緩んでしまった頬をきゅっと引き締め声のしたほうを振り返ると──想像していなかった光景に思わず間抜けな声が漏れた。だって、こっちに歩いてきているグルーシャくんが雪かき用のスコップを持っていたから。

「ぼくも手伝う」

 一体どんな心境の変化だろう。目を丸くしてグルーシャくんをまじまじと見つめるけれど、彼はいつものすました顔で私を見つめ返すだけ。
 寒い寒いって言って、外に出るのさえ億劫そうにしているグルーシャくんが進んで雪かきのお手伝いをしたいだなんて。そもそも雪かきは私たちスタッフがやるからジムリーダーであるグルーシャくんはやらなくていいってずっと前に決めたのに。

「だ……大丈夫だよ? 今はそんな積もってないし──」
「でもアヤメひとりじゃ大変だろ」

 角が立たないように断ろうとしたら、私の言葉に被せるようにして返事が返ってきた。私だけじゃ無理だったらポケモンたちにも手伝ってもらおうかと思っていたけれど、グルーシャくんの口調と視線が「断らないで」と言っているような気がしたからそのことは黙っておくことにする。それに本人がやってくれると言うなら拒否するほうが申し訳ない気がして、私はグルーシャくんの申し出を受けることにした。

「じゃあ、お言葉に甘えようかな。ありがとう」
「……どういたしまして」

 マフラーで口元を隠しながら呟くその声は、さっきの口調とは打って変わって控えめな声で。
 グルーシャくんの行動の意図は分からないけれど、いつも淡々としていた彼が久しぶりに見せる僅かな感情の波に少し安心したのも事実だった。



 


 そもそもグルーシャくんにこんな変化が表れたのは、あの変わったライドポケモンを連れた挑戦者の子と戦った後からだった。
 久しぶりの敗北。でも、試合を終えた後のグルーシャくんは満ち足りたような、とても穏やかな表情をしていて。あれ以来──彼が大怪我をしたあの日以来、誰にも見せなくなっていた笑顔だって見ることができた。
 あの子との戦いがグルーシャくんの凍りついた心を溶かしてくれた。私にはできなかったことを成し遂げてくれる人がやっと現れた。私はそんな日が来るのをずっと、ずっと待ち望んでいた──のだけれど。

 思い返すのはここ数週間のグルーシャくんのいつもと違う行動の数々。やたらと名前を呼ばれたり、妙に視線を感じたり。仕事内容によっては今みたいに手伝ってくれることもあったし、突然カエデさんのお店のケーキを差し入れてくれたこともあった。
 てっきりスタッフ全員に同じようにしているのかと思っていたけれど、他のスタッフ曰くグルーシャくんの態度は私に対してだけあからさまに変わったらしい。それを聞いて余計に分からなくなった。グルーシャくんが何を考えているのか。




「──ふう。このくらいでいいかな」

 そんなことを考えているうちに、試合の邪魔にならない程度には除雪できたので一旦作業の手を止める。遊びにきていた野生のアルクジラたちにバイバイと手を振って、ちらっとグルーシャくんの様子を見てみると向こう半分もあらかた片付いたようだった。
 今は晴れているとはいえ、寒いことに変わりないから彼の古傷に響かないか少し心配したけれど、どうやら杞憂に終わったようで。ほっと胸を撫で下ろし、まだ作業を続ける彼の元へ向かった。

「グルーシャくん、そろそろ切り上げよっか」
「え……もういいの?」
「おかげさまで。ありがと、助かっちゃった」
「……いいよ、このくらい」

 グルーシャくんはマフラーを整えながら視線を泳がせる。やっぱりちょっと挙動不審な気もするけれど、あまり追求して気を悪くさせるのも嫌だから特に触れないことにした。
 そんなことよりも、彼の頬がほんのり赤く染まっていることのほうが心配になる。きっと頑張って作業してくれたんだと思う。今はまだ身体が温まっているからいいけれど、早めに室内へ切り上げないと身体が冷えて風邪をひいてしまうかもしれない。

「じゃあ戻ろうか。早く暖まらないと──」

 そう言って踵を返し、ジムへと急ごうとした瞬間。

「待って」
「っ!?」

 ぐいっ、と後ろから腕を引かれバランスを崩し──あ、やばい、と思う間もなく咄嗟に目を固く閉じる。
 しかし想像していた痛みはなく、代わりに柔らかいものが私の身体を受け止めてくれた。恐る恐る目を開けると、見慣れた水色の髪が視界に入る。
 そう、飛び込んだのはグルーシャくんの胸の中。思いがけずグルーシャくんに密着する形になってしまった私は、声にならない声を上げ身体を硬直させた。

「あ、ごめん」

 そんな私とは対照的に冷静なグルーシャくんは、私が倒れないようしっかり支えてくれているけれど。これって……傍から見たら抱きしめられてるようにしか見えないんじゃないかな。
 どうしよう。誰かに見られたら弁解するのが大変だ。慌てて離れようと腕の中でもがくけれど、何故かグルーシャくんは逆に腕の力を強め私を離してくれない。

「あの……グルーシャくん?」

 離してくれませんか、の意味を込めて声をかけてみるものの、返事は返ってこなくて変な空気が流れるだけ。周囲が静寂に包まれているせいで、うるさいくらいに鳴り響く私の心臓の音が耳から離れてくれない。こんなに密着しちゃって、グルーシャくんにも聞こえていたらどうしようと混乱する頭で必死に言い訳を考えていたら。

「あのさ」

 グルーシャくんの声が沈黙を破る。どことなく真剣な雰囲気を感じ取り、何を言われるんだろうと私の肩が無意識に小さく跳ねた。

「な……なに?」
「……えっと」
「……?」
「…………」

 そして何故か、再びの沈黙。
 どうしたらいいか分からなくなった私はそのままグルーシャくんの言葉を待つけれど、なかなか話し出してくれない。そろそろ心臓が持たないんだけど──と思っていたら、彼の腕が私の腰にそっと回されて、そのままぐっと身体を引き寄せられた。

「っ!!??」

 何事かと慌てて見上げてみれば、目の前には綺麗に整ったグルーシャくんの顔が。その氷のように透き通った瞳に映る私の頬は真っ赤に染まっていて、そんな顔を見られてしまった羞恥心から私は咄嗟に俯いて顔を隠した。

「アヤメ」

 グルーシャくんがまた私の名前を口にする。今日聞いたどの声よりも優しく甘く、脳に響くように聞こえるのはどうしてだろう。そんな声で呼ばれたら、必死に忘れようとしていた淡い気持ちをまた思い出しちゃうのに。
 恥ずかしくて今すぐにでも逃げ出したいのに、ずっとこのまま抱きしめられていたい。相反する気持ちが心の中で渦巻いて、どうすることもできずこのまま流れに身を任せてしまおうかと思っていたら──

「……エネココア」
「へ?」
「飲む? 身体、温めないと」
「???」

 ……え、なに突然。何の話してるの。

 想定外の言葉に思考が停止した。先程までの甘い空気とは一転、グルーシャくんが話し始めたのはエネココアを飲むかどうかという単なる日常会話だったから。

 エネココア、エネココア……あ、そうか。寒いもんね。私が寒いって思ってるならグルーシャくんはもっと寒いだろうし。あーなんだそっかふーん。

 あんなに言い淀んで、もしかしたら真剣な話でもするのかと思っていたのにどうやら見当違いだったようで。ああもう、ドキドキしてた私が馬鹿みたいじゃない。
 いや、そもそも良い雰囲気だなんて思っていたのは私だけだったのかも。グルーシャくんはただ転びそうな私を支えてくれただけで、私を抱きしめているなんて認識さえしてない可能性だってある。きっとそうだ。だってグルーシャくんが私にそんなことする訳ないから。
 嫌だなあ、もうそういう期待なんかしないって決めたのに──って私、こんなことで自惚れるなんてすごく自意識過剰じゃないの!

「グ、グルーシャくん! ココア飲むから! だから離し──っ!?」
「だめ。まだ顔上げないで」

 恥ずかしくて情けなくて、慌ててグルーシャくんから離れようと腕の中でもがこうとするものの、今度は上から頭を押さえつけられてしまった。

「ちょっ、なんで!」
「なんでも」

 厚着をしているから一見華奢に見えるけれど、グルーシャくんは元アスリートということもあって結構力が強い。そんな彼に私が敵うはずもなく、不服に思いながらも言われた通り大人しく地面に視線を向ける。
 バトルコートに残った雪は太陽の熱で溶け始め、濡れた地面がまるで鏡面のように私たち二人を映し出す。今、グルーシャくんはどんな顔をしているんだろう。どうにか見えないものかと思ったけれど、足元の水溜りには私の赤い顔が映るだけだった。

「……じゃあ、中で待ってるから」

 ややあって、それだけ言い残しグルーシャくんは早足でジムへと向かっていく。ようやく解放された私は、未だに早鐘を打つ心臓を押さえながらグルーシャくんの後ろ姿を見つめ、彼がジムの中に消えたのを見計らった後長い溜め息をつきその場に項垂れた。

「っ、心臓に悪い……」

 最近のグルーシャくんの変化にはうっかり心が揺らぎがちだったけれど、流石にさっきのは危なかった。深入りしすぎちゃだめなのに。この気持ちはただの憧れであって恋なんかじゃない。私はただのジムスタッフとしてグルーシャくんを支えるって決めたんだから。

 ぱちんと両手で自分の頬を叩き深く深呼吸する。ナッペ山の冷たい空気が浮かれた私の頭を冷やし、あの日の決意を思い起こさせてくれた。

「……よし、大丈夫。」

 そう自分に言い聞かせるようにひとり呟き、ジムの中へと消えた彼を追いかけた。

グルーシャ視点

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