「私たちは仕事仲間、ただの同僚……うん、大丈夫!」
部屋の中をぐるぐると歩き回りながら自分に言い聞かせるように独り言を呟く。最後に鏡を覗き込み、ナンジャモさん直伝の営業スマイルを作ってみせたところでスマホのアラームが鳴り響いた。
もう仕事に行く時間だ。トートバッグを肩に掛け深呼吸し、意気込みながら部屋の扉を開く。
新生活が始まって数日経った。今のところ、上手く"ただの仕事の同僚"としてグルーシャくんとちょうどいい距離感で話せている……と思う。
初日はまさかグルーシャくんが隣の部屋に住んでいるなんて思いもよらなくてうっかり素に戻ってしまったけれど、それもあのときだけだったし。
仕事だけじゃなくてプライベートでも気を張らないといけないのはなかなか骨が折れる。でも、グルーシャくんがジムリーダーの仕事に集中できる環境を整えるためなら、こんなのなんてことないんだから。
「おはようございます!」
スタッフさんに元気よく挨拶して自分のロッカーにバッグを置く。グルーシャくんは……まだ来てないみたい。それなら今のうちに昨日の試合動画を整理しておこうかな。
スタッフルームの椅子に腰掛け、社用のタブレットを取り出して、試合内容を確認しながら動画にタグやメモを残す。勝敗はもちろん相手の手持ちや大まかなレベル、試合時の天候にテラスタル使用の有無その他諸々……グルーシャくんが後から動画を見返すことを考えて簡潔に分かりやすく、且つミスのないように。
そうやってひたすら文字を打ち込んでいたら、ハッコウシティジムでのインターンの思い出が頭をよぎった。
ハッコウシティジムはとにかく挑戦者が多く、目が回るような忙しさだった。
アクセスしやすい都会に立地し難易度もそこそこ、そしてあのナンジャモさんがジムリーダーを務めるのだから当然といえば当然であるけれど。だから必然的にスタッフも多くなるし、業務は細分化されこういった動画管理作業専門のスタッフだっていたほどだ。
でも、このナッペ山ジムはそうはならない。その理由はここの立地もさることながら、何よりグルーシャくんが強すぎるから。
挑戦するのにバッジの数は関係ないとはいえ、わざわざ難易度の高いジムから挑戦する人はそうはいない。現にジム開設当初は挑戦者も多かったけれど、グルーシャくんの強さが知れ渡った今は人の数もだいぶ落ち着いている。
本部もそれを見越してなのか、ここの人員は他所より少なく配置したようで、それに伴いスタッフ一人あたりの業務の幅は広い。だから私はポケモンの世話役だけでなく動画記録や各種雑務も担うことになっている。
私としては適度に忙しいほうが余計なことを考えなくて済むからいいけれど、少しだけ気になっていることがある。それは──
「……おはよう」
「あ、おはようグルーシャくん」
そう、グルーシャくんの脚の怪我のことだ。
スタッフルームに入ってきたグルーシャくんに挨拶をした後、気付かれないようにこっそり盗み見る。
今のところグルーシャくん本人からあの怪我のことは詳しく聞かされていない。一回聞いてみたけれど、「大丈夫」とだけ言われてその後ははぐらかされてしまった。何がどう大丈夫なのか分からないから聞いてるのに。
スタッフに割り振られている雑務の中には除雪作業もあって、それはグルーシャくんも例外じゃない。もし脚が完治していないならそれを考慮する必要があると思ったけど……まあ無理なら本人が言うよね、きっと。
入力を終え動画をクラウドに保存し、グルーシャくんのそばに寄る。椅子に座り少し険しい顔をしていたグルーシャくんは、私が近寄ると警戒するように身構えた。
「どうしたの?」
「いや……別に」
そう言って、ふい、と向こうを向いてしまう。少し違和感があったけれど、仕事の報告だけはしておこうと話を続けた。
「動画まとめておいたよ。後で確認しておいてね」
「……あのさ」
「なに?」
「今日の試合、ぼくは映さないで撮って」
「? でも後から編集で消せるし、一応撮っておいたほうがいいんじゃ、」
「いいから」
グルーシャくんは私の声に被せるようにして話を遮る。そしてそのまま席を立って私から離れようとする──かと思いきや、椅子に座ったまま動かない。
どうしたんだろう。こうやってピリピリしてるときは、いつもだったらすぐ一人になれる場所に行っちゃうのに。
「グルーシャくん、何かあった?」
「……」
グルーシャくんは私の問いには答えず、少しためらいがちに無言でモンスターボールを差し出してきた。あ、これみんなの世話を口実に私を追い出すつもりでしょ。
話を聞きたかったけれど、問い詰めれば問い詰めるほど意固地になって話さなくなるのは経験上分かっている。少し時間をおいてからまた様子を見にこよう、と私は心の中で溜め息をつき、ボールを受け取ってリラクゼーションルームへと向かった。
***
間接照明から放たれる柔らかな光に包まれた、ポケモン専用のリラクゼーションルーム。ドレディアの花弁から抽出されたリラックス効果のあるアロマが焚かれ、トリミングスペースや様々なポケモンに合ったリラックスグッズまで完備されたこの部屋は私の仕事部屋のひとつだ。
グルーシャくんがバトルの調整をしていないときはポケモンたちをここで休ませることが多い。「ゆっくりしててね」といつものようにみんなをボールから出し、変わった様子がないか観察していたところで──ふと、違和感を覚えた。
「……? みんな、どうしたの?」
いつもはお気に入りの場所でくつろいだり私にブラッシングをねだったりしてくるのに、何故かみんなそわそわと落ち着かない様子でいる。具合が悪いのかと思って全員の体調をチェックするけれど、特に異常はみられない。
身体に異常がないなら心因性? でも昨日は元気だったはずなのに、全員一斉にだなんて何があったんだろう。グルーシャくんなら何か知ってるかな。でも今はグルーシャくんも様子がおかしいし──
「……あ、」
そういえば、と今朝の出勤時の記憶を辿る。
グルーシャくんはいつもより少し遅れた出勤で、スタッフルームではずっと椅子に座っていた。少し前まで連戦続きだったし、確か昨日は雪かきもやっていた。今までの疲労が溜まって、遅れて症状が現れたとしたら──
「──っ、ごめん! みんなここで待ってて!」
もしかして、もしかすると。
みんなにひとこと言い残した後、勢い良く部屋を飛び出した。
***
「グルーシャくん」
「……なに」
休憩室の一番端の席に座っていたグルーシャくんに声をかける。返事こそ返してくれたけど、ずっと動画の確認作業をしていて視線を私に向けてくれない。
今日はまだジムテストをクリアした人はいないはず。今のうちに言わないと。
「脚……痛むんでしょ」
ぴくり、と微かに指先が動いた。
やっぱりそうだ。だから様子が変だったんだ。動画に映さないでって言ったのも、多分私にバレたくないから。
何で隠してたの、と言いたかったけれど、その言葉はぐっと呑み込んで優しく声をかける。
「みんな心配してたよ」
「別に……痛くない」
「今日は休もうよ。挑戦者の人にはテストだけ受けてもらって、バトルはまた改めて──」
「だから平気だって言ってるだろ」
グルーシャくんはじろりと私を一瞥し、席を立って休憩室の出口へと歩き出した。上手く隠しているように見えるけど歩き方に違和感がある。そんな姿を見たら、ずっと閉じ込めていた心配やら不安やら色んな感情がぶわっと込み上げてきて、私は咄嗟にグルーシャくんの腕を掴んだ。
「……離して」
「離さない」
病室でグルーシャくんに手を振り解かれた記憶が頭をよぎる。でも、あのときと同じことは繰り返さない。今度は絶対に離さないんだから。
「今バトルしたって力を出しきれないでしょ。トレーナーの状態はポケモンにも影響するのは分かってるよね」
「別にいいよ。ハンデがあったところで負けないから」
「あのね……仕事なんだからなるべくコンディションは均一に保たないと、」
「仕事なら挑戦者を待たせるほうがサムいんじゃないの」
ピシッ、と空気に亀裂が入る音が聞こえた気がした。
なんでグルーシャくんこんな意地張ってるの。熱血だったあの頃でもこういう無茶するタイプじゃなかったのに。というかむしろ体調にはこれでもかというくらい気をつけてたじゃない。
言葉を失う私に追い討ちをかけるように、グルーシャくんは冷たく吐き捨てるような言葉を吐く。
「怪我なんて気にしてる暇ないだろ。これがぼくの仕事なんだから」
その言葉に、今まで我慢していた気持ちが胸の中でふつふつと湧き上がり──"ただの仕事の同僚"の仮面は、あっけなく剥がれ落ちた。
「ちゃんと話聞いてよ! この意地っ張り!」
しんとしていた休憩室に私の声が反響した。息を荒くしながら、今までこんな大声をあげたことがあっただろうかと頭の片隅で思い返す。自分でも覚えがないのだからグルーシャくんは尚更驚いているだろう。だって、マメパトが豆鉄砲を食ったように目を見開いているのだから。
「仕事とか関係ない! グルーシャくんが心配なの!」
一度口からついて出てしまった言葉はすぐには止まってくれなくて、溜まっていた思いが次々と溢れ出てしまう。それこそ自分の体裁なんて気にしている暇もないほどに。
「なんでグルーシャくんはいっつも一人で抱え込むの! 心配かけないようにしてるつもりなんだろうけど、それ逆効果だから!」
「待っ……落ち着いて、」
「もっと人を頼ってよ! 私のことは信頼してないだろうけど、スタッフは他にも──」
「っ、違う!」
何が引き金になったのか、グルーシャくんが声を荒らげ私の手を掴んだ。それに抵抗する間も無く、私はそのまま身体ごと壁に押し付けられてしまう。その突然の行動に、途中まで言いかけていた台詞は喉の奥に引っ込んでしまった。
「あんたのことは信頼してる。昔からずっと」
驚き戸惑う私の耳に届いたのは、想像もしていない言葉だった。聞き間違いかと思ったけれど、それは確かにグルーシャくんから発せられた言葉で。
「え、……え? 嘘、だって」
「嘘じゃない」
グルーシャくんが手の力を強める。真っ直ぐ真剣に私を見つめるその目は、嘘を言っているようには見えない。
グルーシャくんが、信頼してる。私を。
本当に? 嘘じゃない? だって信頼なんてあのとき全部失ったんじゃなかったの? だから今まで友達にさえ戻れなかったと思ってたのに。
……というか、それよりも、
「っ、近い……」
目の前にはグルーシャくん、すぐ後ろには部屋の壁。おまけに腕を掴まれて壁に押し付けられているという逃げ場のない中、やっとのことで絞り出した声は先程とは正反対の情けなく弱々しい声で。それを聞いたグルーシャくんは、ばっと弾かれたように私から距離を取った。
"ただの仕事の同僚"の仮面が剥がれ素の自分に戻ってしまった私にはこの状況でグルーシャくんを直視することなんてできなくて、先程の勢いはどこへやら、しおらしく口をつぐむ。
カチ、カチとやけに大きく聞こえる秒針の音だけが部屋に響く。その音に乗って気まずい空気が漂う中、グルーシャくんがぎこちなく私に背を向けたと思ったら小さな声がこちらに届いた。
「今日……早退する。脚、診てもらうから」
「え、あ……うん、分かった」
それだけ言うとグルーシャくんは近くの椅子にゆっくりと腰を下ろす。急にこんなあっさり引き下がるなんて思っていなかった私は、追いついていない頭で慌てて会話を取り繕う。
「えっと……じゃあ、みんな連れてくるね。何かあったら遠慮しないで連絡して」
グルーシャくんは私のほうを振り向かず、こくりと頷く。それを確認して休憩室を後にした私は、なるべく急ぎ足でリラクゼーションルームへと向かった。
まだ興奮の余韻が胸に残っている。さっき言われた『信頼』の言葉が頭から離れない。仕事以上に踏み込んでしまったのにグルーシャくんが嫌な顔をしなかったせいで、自分の都合の良いように考えてしまう。
でも──
「駄目、まだ頑張らないと……」
期待したら、自惚れたらきっと私はそれに甘んじてしまう。まだまだ全然足りてないのに。
グルーシャくんの心を溶かしてくれる人が現れるまで、私は仕事の手を緩めている暇なんてないんだから。
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