カーテンの隙間から差し込む朝日の眩しさで夢の中から意識が浮上する。まだ眠いはずなのに何故か不思議と清々しい気分なのはさっきまで見ていた夢のせいなのだろうか。どんな夢を見ていたのかは思い出せないけど、今二度寝すればまたその夢を見れるような気がしてもう一度目を閉じる。でも、いつの間にか枕元にいたマニューラがぼくの顔を手でちょんちょんとつついてきて二度寝は阻止されてしまった。
「……なんでボールから出てるの」
寝ぼけた声で抗議するけど、マニューラはそれに構わずぼくを起こそうとしてくる。布団を頭から被ってやり過ごそうとしても、布団の中にまで潜り込んでくるものだから仕方ないと諦めて起きることにした。
「まだ目覚まし鳴ってないのに……」
時計に目をやるとまだ六時を過ぎたばかり。眠い目をこすりながらカーテンを開け窓の外を覗くと、昨日まで静かだったジムの周りにちらほらと人が集まっているのが見えた。それもそのはず、今日はナッペ山ジムが正式に運営開始する日なのだから。
ジムテストの受付開始までまだ時間はあるのにこの調子。これからもっと集まってくるであろう人たちの前に出ないといけないと思うと気が滅入るけど、人が多いのは最初だけだろうからそれまでは仕事だと思って我慢しないと。
落ちた気分を落ち着かせるため、ぼくの足元で喉を鳴らすマニューラを優しく撫でてやる。嬉しそうに鳴く姿に癒されながら、ベッド横のサイドテーブルに置いたモンスターボールの中のみんなにも「頑張ろうね」と声をかけ、朝食の準備に取り掛かった。
このナッペ山ジムには社員が宿泊するための部屋があり、ぼくは数日前からそこの一室を借りて住んでいる。
というのも、このジム周辺は雪山の山頂付近に位置することもあって天候が変わりやすい。ジムリーダーであるぼくが悪天候のせいで通勤できませんでした、なんてことを避けるため自分から進んでここに住むことを志願した。周りに店がなくて不便ではあるけど、それ以上に賑やかな場所が好きじゃないぼくにとってはこのジムでの静かな暮らしは結構気に入っていたりする。
そして今日からは他にもここに住み始める人がいるらしい。好き好んでこんな不便な場所に住み込みで働くなんて変わった人だなと思いながら、隣の部屋に住む予定の物好きが一体誰なのか少しだけ気になっていた。
朝食を終え一階のロビーに降りるとそこは既に人があふれ賑やかになっていた。ぼくが姿を現すとどこからか黄色い声が上がり、少しだけ現役時代の記憶が頭をよぎる。でも昔みたいに気持ちが昂ることはなく、特に気にも留めないままとある人物を探した。
オモダカさんにあてがわれたぼくのポケモンのお世話役。みんなのお世話なんてぼく一人で充分だから断ろうと思ったのに、まだ脚が完治していないことを理由に押し切られてしまった。
その人は事務のスタッフの制服とは違うらしいからすぐ分かると言われたけど。挑戦者や観客も多いのにすぐ分かるってどういうことだろう、ときょろきょろ辺りを見回していたら、
「……え、」
一瞬、よく見知った後ろ姿が見えた……気がした。忘れよう忘れようと思っていても、結局今日に至るまでぼくの心から離れなかった人。
そんなまさかと思いつつその人のそばに寄る。キッズスペース付近で書類を確認しているエプロン姿の彼女は──
「……なんであんたがいるの」
ぼくの声に振り返ったアヤメは、あの頃と変わらない──いや、あの頃より自信に満ちた笑顔を浮かべぼくを見据えた。
***
「グルーシャくんお疲れさま。初日だったしバトル多くて大変だったね」
「別に……頑張ったのはぼくじゃないし」
「何言ってるの。みんなと一緒に頑張ってたでしょ」
本日分の全ての試合を終え、みんなが入ったボールをアヤメに手渡す。つい癖で突き放すような言葉が出てしまったけどアヤメは特に気にする素振りもなく会話を続けていて、焦りなのか安堵なのかよく分からない感情が胸の中で渦巻いた。
「みんなもお疲れさま。多分明日も忙しいから今日はいっぱいマッサージしてあげるからね」
久しぶりにアヤメと会えたからなのか、みんなが喜んでいる様子がボール越しでも分かるくらいに伝わってくる。ぼくはまだ気まずい気持ちでいっぱいなのに、あそこまで素直になれるのはちょっと羨まし……いや何考えてるんだぼくは。アヤメには嫌われないといけないのに羨ましいも何もないだろ。
というより何で世話係がよりにもよってアヤメなんだ。これじゃあ今までみたいに避けることもできないじゃないか──
と、この人員配置をしたであろうオモダカさんへの恨み言を頭の中で繰り返しながらこれまでのことを思い返す。
あの事故以来アヤメをずっと避けていたぼくとは対照的に、アヤメはぼくと接点を持とうとし続けていた。積極的でもなく消極的でもなく、丁度良い距離感で。
いっそのことストーカーみたいに付きまとったり、しつこくメッセージを送ったりでもしてくれればそれを口実に完全拒否することもできたのに。でもアヤメは妙に程良い距離感を保ちながらぼくの言葉をのらりくらりと躱すものだから、今に至るまで強く拒否することもできず冷たい態度を取るだけに留まってしまった。
というかアヤメがこんな諦めが悪いなんて思ってなかったんだ。病院で突き放してその後の連絡も全部無視してそれで終わると思ってたのに。それなのに、ぼくがアカデミーに復学したら何もなかったかのように笑顔で接してくるとかまったく意味がわからないんだけど。
本日何度目になるか分からない溜め息をついて時計に目をやる。そろそろ日勤は定時の時間だ。今日は挑戦者が多かったから少し残業することになりそうだけど、これを乗り切ればひとまずアヤメと離れられる。
とりあえず仕事が終わったらこれからどうするか考えよう。今日はいろんなことがありすぎてもう頭が疲れ──
「グルーシャくん」
「っ!!」
思考の途中、不意打ちで後ろから声をかけられ思わず肩が跳ねた。ぎこちない動きで振り返るとその声の主のアヤメは意を決したような顔でぼくを見つめていて、その気迫に一歩後ずさる。
「言いたいことあるんだけど」
「な……何」
「これから私たちは仕事仲間でしょ。だから報連相はちゃんとやらなきゃダメだと思うの」
「……報連相」
「そう、報連相。仕事を円滑に進めるためにね。グルーシャくんは最強のジムリーダーを目指して、私はそのサポートをする仕事があるんだから。ちゃんと話さないと二人とも仕事にならないでしょ。だから仕事は仕事ってことでお互い割り切ろうね、グルーシャくん」
ぼくが途中で口を挟む隙も与えず早口で一気に捲し立てたアヤメは、言い終えた後に満面の笑みを浮かべた。どことなく圧を感じるその笑顔に押され、おまけに"仕事"を妙に強調して連呼されたせいで既に疲れて鈍っていた思考はアヤメの言った言葉をそのまま飲み込んでしまう。
「う……うん、そうだね」
「じゃあ決まりね。今日から私のことは他のジムスタッフと同じように扱って。絶対だよ!」
アヤメは語尾を強めそう言い残しエレベーターに乗り込んだ。「乗る?」と言われたけどまだアヤメと二人きりになるのは気まずいし、何より今はとにかく一人で思考を整理したくて首を横に振る。そしてエレベーターの扉が閉まったことを確認した瞬間、緊張の糸が切れたように近くの壁にもたれかかり頭を抱えた。
"仕事"か……確かにそれなら今までみたいにアヤメを避けなくていいのか。仕事で絶対話すのにわざわざサムいことして働きづらくするのもおかしいし……それにみんなの体調管理はアヤメに任せたほうがいいのはぼくが一番よく知ってる。アヤメとの関係が円滑じゃないとみんなにまで迷惑かけることになる……よね、多分。
そうだ、みんなのため。みんなの力を充分に発揮させるためにアヤメと話すだけなら構わないはず。仕事だし。それなら仕方ないよね、アヤメと普通に話したって。仕事なんだから。
「……よし」
何が「よし」なのか自分でも分からないけど、無意識に口から出た言葉を気にかけるような余裕なんて今のぼくの頭にはなかった。
***
「お待たせ! 遅くなってごめんね。定時過ぎちゃった」
「いいよ、もともと時間押してたし」
みんなの手入れを終え、慌ててぼくの元へ駆けてきたアヤメからボールを受け取ると学生時代の記憶が甦ってきた。でも、あのときの感情には蓋をして今は"仕事"のことだけを考える。
「じゃあ今日はもう上がっていいよ」
「わかった。グルーシャくんも今日はこれで終わり?」
「そうだよ。お疲れさま」
「うん、お疲れさまでした!」
疲れ切ったぼくとは対照的に元気な声を上げスタッフルームから退出するアヤメの背中を見送って、ようやく張りっぱなしだった気持ちは緩んでくれた。アヤメが出て行って一拍おいてからぼくも打刻を済ませ、その足でそのままエレベーターへ乗り込む。
──ああ疲れた。早くみんなとゆっくりしたい。チルタリスの羽にうもれてあったかいスープでも飲みながら今日の試合の動画を見直して……あ、そうだ。みんなが頑張ってくれたお陰で今日は全勝だったからご褒美あげないと。ホウエンから取り寄せたポロックまだ残ってたかな。部屋に戻ったら確認しよう。
そんなことを考えているうちにエレベーター内にアナウンスが流れ、ぼくの部屋のあるフロアに到着する。そしてエレベーターを降り廊下を歩いていたら、カチャリと鍵の開く音が耳に届いた。多分、ぼくの部屋の隣から。
そういえば誰か引っ越してきたんだっけ。今日いたスタッフの誰かだと思うけど、一体誰が──
「……え、」
開いた扉から出てきたその人を見て、思わず言葉を失った。だって……なんで。
「えっ……グルーシャくん!?」
なんでアヤメなんだ。よりにもよって。
仕事が終わり完全に気を抜いていたところにいきなり衝撃的な事実を突きつけられ、目眩でも起こしてしまいそうだった。でもそれはアヤメも同じだったらしく、身体を硬直させ目を見開きながらじっとぼくを凝視している。
しばらく二人ともこの気まずい空気の中固まっていたけれど、突然アヤメがはっと何かを思い出したかのように勢いよく口を開いた。
「ちっ……違うよ、ストーカーじゃないから! 本当に知らなかったの! フリッジタウンに住むより家賃がすっっごく安いから住んだだけでそれ以上の意図は何もないからね!」
手と首をぶんぶん振って必死に説明するアヤメは、仕事中の少し強気な姿とは打って変わって昔のままのアヤメだった。久しぶりにそんなアヤメを見たせいなのか、何故か酷く安心して一気に身体の力が抜けていく。
「いいよ……あんたはそういうサムいことしないって分かってるから」
そう言いながらマフラーで口元を隠してアヤメの横を通り過ぎ、自分の部屋の鍵を開ける。
「また明日」
「え、あ……うん! また明日!」
戸惑いながらもちゃんと返事をしてくれたアヤメと目を合わせないようにしながら部屋に入り、ドアを閉めた瞬間その場に座り込んで項垂れた。
さっきからずっとうるさい胸の鼓動はぼくに何を伝えようとしているんだろう。自問自答しても答えは分からなかったけど、嫌じゃないことだけは確かだった。
あの事故の後からぼくの心は冷め切ってしまったはずなのに。でも、今この瞬間だけは、ほんの少しだけ温かさを感じた気がした。
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おまけ