04
あれだけ世間を騒がせたグルーシャくんの事故の話題は、日を追うごとに次第に新しい話題にかき消されていった。
まるで悲劇の英雄かのようにグルーシャくんを扱い、涙を誘うドラマに仕立て上げていた人も、勝手な憶測をつらつらと並べ立てそれが事実かのように発信していた人も。今はもう別の情報に食い付いてグルーシャくんのことなんて忘れてしまっている。コース外で練習していたとか、もう二度と歩けるようにはならないとか、挙句の果てには死亡説なんてとんでもない情報をネットに流しておきながら。自分たちが世間に植え付けたグルーシャくんの印象を払拭することもせずに。
でも、グルーシャくんを応援している人はそんな人たちの何十倍、いや何百倍もいる。どうかグルーシャくんには優しい言葉だけが届きますように、理不尽な言葉で傷付くことがありませんようにと祈らずにはいられなかった。
「そりゃまあボクだってアンチコメントに傷付いてないわけじゃないよ? 長年やってるから慣れっこになったってだけ」
「っ、そうなんですか……」
肩をすくめ溜め息を吐くナンジャモさんの言葉を聞き、ただでさえ沈んでいた心が更にずんと重くなる。ナンジャモさんでもそう思うならきっとグルーシャくんだって。
まだ怪我の容態は公表されていないからどんな状況にあるのか分からないけれど、追い討ちをかけるようなことだけにはなってほしくない。そんなことを考えていたら顔が険しくなっていたのか、チルタリスが不安そうな視線を私に向ける。慌てて「なんでもないよ」と顎を指で優しく掻いてあげると気持ち良さそうに目を細めた。
あの事故から数週間経った今も、私はグルーシャくんに会えていない。ただ、チルタリスには面会制限がかけられていないこともあって、お見舞いのためハッコウシティのジムに毎日足を運ぶ日々を送っていた。
初めはなぜジム内にポケモン用の病床があるのか不思議に思ったけれど、パルデア地方ではジムだけでなくポケモンセンターもポケモンリーグが運営していて他の地方とは全く異なる形態を取っているらしい。いつも使用しているポケモンセンターはあくまで旅人用の簡易的な施設で、入院が必要なポケモンは設備の整ったジムの病床へ移動する、という話を聞いて、だからあのときナンジャモさんがジョーイさんと一緒にいたのかと合点がいったものだった。
そしてチルタリスはもう日常生活は問題なく過ごせるほどに回復している。"しぜんかいふく"の特性を持ちもともと自己治癒能力が高いということもあるけれど、片翼が折れ衰弱したあの姿を考えるととてつもない回復力だと驚きを隠せない。
流石にまだ退院するまではいかないものの、体力が回復したら精神的にも安定してきたようで、もう逃げ出したり暴れたりする行動はなくなった。
「チルタリスも早くグルーシャくんに会いたいよね……あと少しの辛抱だから頑張ろうね」
面会の最後にチルタリスを思う存分撫でてやり、ナンジャモさんと共に病室を後にする。
別れ際の寂しそうな表情にはまだ心が痛むけど、きっともう少しでグルーシャくんに会えるから、と自分にも言い聞かせた。
「……ナンジャモさん、お忙しいのにいつもありがとうございます」
「ちょっとー、アヤメ氏またその話? 大丈夫だからここに来てるんだって言ってるでしょーが!」
エレベーターに向かう廊下を歩きながら俯き加減にそう言うと、頬を膨らませたナンジャモさんに額を小突かれた。私が「いたっ」と額を押さえると彼女は悪戯な笑顔を浮かべる。
やっぱりナンジャモさんは優しい。本当は忙しいはずなのに私たちのことを気にかけてくれるし、チルタリスはもちろんグルーシャくんのことだって誰にも話していない。彼女がたくさんの人に支持されている理由は、彼女のブランド力や配信の面白さだけじゃないということを改めて理解できた気がする。
少しだけ軽くなった心でエレベーターに乗りロビーがある一階のボタンを押す。アナウンスと共に扉がゆっくりと閉まったら、ナンジャモさんが自分のスマホを取り出し操作を始めた。
「さっきの話の続きだけど。グルーシャ氏の公式アカって本人が管理して──って、ありゃ?」
「? どうしたんですか?」
一瞬、ナンジャモさんの手が止まった。どうしたんだろうと思い彼女に視線を向けると、何やら真剣な様子でスクロールしたり文字を入力したりスマホを操作している。ロビーに到着した旨のアナウンスが流れているのにそれに気付かないナンジャモさんの肩を軽く叩いたら、
「グルーシャ氏のアカウント……消えてない?」
と、彼女は深刻な表情で『検索結果はありません』の画面を私に見せてきた。
そんなまさかと私も慌ててスマホを取り出し、フォロー一覧を開きグルーシャくんのアカウントを確認する。でもそこにグルーシャくんのものは無く、ナンジャモさんと同じように検索しても出てこない。今朝確認したときは確かにあったのに。
嫌な予感がする。
グルーシャくんは出場する大会の情報くらいしか投稿していなかったけど、寄せられたコメントには全て目を通しているし応援してくれるファンのことだって大切にしていた。そんなグルーシャくんが何も言わずにアカウントを消すなんて信じられない。何かあったに違いないと、青ざめながらメッセージアプリをタップした。
あの日からずっと既読は付いていないけれど、今なら連絡が取れるかもしれない。そう祈りながらグルーシャくんとのトーク画面を開く。
「っ! 既読……ついてる」
事故の後に私が送ったメッセージについた『既読』の文字。これも今朝まではついていなかったはず。でも、それよりもその次に続く『メッセージの送信を取り消しました』の表示に心臓がどくんと跳ねた。
これ……グルーシャくんが何か私にメッセージを送ってたってことだよね。でも取り消す前の通知は届くんじゃ……ってそうだマナーモードにしてたから気付かなかったんだ。ということは病室にいる間に送られてきたからそんなに時間は経ってない。
電話をしようかと思ったけれど、病院にいるということを考えると電話を取れないかもしれない。一瞬悩んでから『どうしたの』とメッセージを送信したら──その瞬間に既読がつく。そして数十秒後に返ってきたのは、『話がある』の言葉と病室の部屋番号と思われる数字だった。
「私……グルーシャくんのところに行ってきます!」
そうナンジャモさんに言い残し、私はジムから飛び出し病院へと向かった。
***
真っ白な病室で見たものは、暗く冷たい氷のような瞳をしたグルーシャくんの姿だった。
ベッドに仰向けに寝たまま、虚ろな瞳を一瞬だけ私に向けた後はずっと天井をぼうっと眺めている。
いつものグルーシャくんからは想像もできないその痛ましい姿に、私は何も言葉を発せずただその場に立ちすくんだ。
「……母さんから聞いたけど、」
暗く、刺すような低い声が私に向けられ思わず肩が跳ねる。ほんの一言聞いただけで、私はグルーシャくんに敵意を向けられていることを理解した。
「チルタリスのお見舞い、もう来なくていいから」
グルーシャくんは私と視線を合わせずそう言い放った。突き放すようなその言葉は私の心を酷く動揺させたけれど、ここで引いたら駄目だと食い下がる。
「っ……でも心配だし、私にも責任が──」
「じゃあ何? あんたが見舞いに来ればチルタリスは早く良くなるわけ?」
「……それは、」
言葉に詰まった。だって私は何もしていない。治療しているのはジョーイさんで、私が毎日足を運んだところで何もできることはないのは事実だから。
言うべき言葉が見つからなくて、足元に視線を落とし拳をぐっと握りしめる。そして、長い長い沈黙の後、グルーシャくんが消え入りそうな声で呟いた。
「……ぼくはもう、滑れないんだ」
それは、私の耳に届く前に周囲の雑音にかき消されてしまいそうなほどの、か細く震えた声だった。それなのに、私の頭の中にはその言葉が拡声器にかけられたようにがんがんと反響して思考を奪う。
「……うそ」
「嘘じゃない。医者に言われた」
「それって……治療とリハビリを頑張っても──」
「頑張ってもどうにもならないんだよ!!」
怒りと絶望を孕むグルーシャくんの声が狭い病室にびりびりと響く。それに気圧され、思わず一歩後ずさった。
「応援してた奴らも手のひら返して終わりだ諦めろってうるさいんだよ! スノボができなくなるなら死んだほうがマシって、そんなのぼくが一番分かって──」
「ッ、グルーシャくん!」
咄嗟に声を上げ言葉の続きを止めた。死ぬなんて言葉、グルーシャくんの口から聞きたくない。今のグルーシャくんがそんなこと言ったら、本当にそうなってしまうのではないかと怖かった。
グルーシャくんは私の大声に動きを止める。そして私に視線を向け、
「……何だよ、チルタリス残して死ぬわけないだろ」
と、自嘲するような乾いた笑いを見せた。その瞳には光が宿らず、深い深い海の底に沈んでしまったように冷たく暗い黒に染まっている。
死ぬわけないとは言っているけれど、このままだとグルーシャくんが今にもどこかに消えていなくなってしまいそうで、反射的にグルーシャくんの手を両手で握った。その瞬間ぴくりと微かに手が動いたけれど、彼は何も言わず私から顔を背ける。
私はなんであのとき止めなかったんだろう。止めていればグルーシャくんはこんなことにならずに済んだのに。謝って済む問題じゃないのは分かってる。でも、
「──っ、ごめんなさい……」
声を絞り出して謝罪の言葉を口にする。
こんな言葉で足りるわけがない。謝ったところでグルーシャくんの脚が治るわけじゃない。それでも言わずにはいられなくて、何度も何度も、泣きじゃくりながらごめんなさいとただ言い続けた。
グルーシャくんは私から顔を背けたまま動かない。静かな病室に聞こえるのは私の謝罪の言葉だけ。
ややあって、うわ言のように謝り続ける私の言葉を遮るように、グルーシャくんがようやく口を開いた。
「……もう来ないで。どうせあんたもぼくのこと、陰で蔑んでるんだろ」
それは心が押しつぶされるような、重く冷たい声だった。
否定の言葉は喉でつかえて出てこない。グルーシャくんのことを蔑んでなんかいないのに。私だけじゃない、応援している人はたくさんいるのに。それだけでも伝えたかったけれど、私とグルーシャくんとの間にできた深い深い溝にそんなこと言う資格はないと突きつけられたような気がして、口を開くことはできなかった。
「安い同情して良い気になって。あんたも……あいつらと一緒だ」
そう言って、グルーシャくんは私の手を振りほどいた。
もうグルーシャくんに私の言葉は届かない。私の存在なんかじゃ支えになんてなれない。当然だ、私のせいでこんなことになったのだから。分かってた、分かっていたけれど。
こんなにつらいなんて、苦しいなんて思わなかった。グルーシャくんに拒否されることが。隣にいられないことが。
でも、グルーシャくんのほうがずっとずっと、比べ物にならないくらいつらくて苦しい思いをしている。私が側にいることでグルーシャくんが苦しむのなら私は──
「……ごめんね、グルーシャくん」
振りほどかれた手を握りしめ、私は最後のごめんねを言い残しグルーシャくんに背を向けた。
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