その日は晴れの予報だった。

 風は穏やかだし雪の調子も良好、ぼくのコンディションだってこれまでにないほど好調で。でも、ひとつだけ頭の隅で気にかかっているものがあった。

「なあチルタリス……さっきアブソルぼくに何か言おうとしてた?」

 そう問うけれど、チルタリスは分からないと言うように首を傾げる。
 ポケモン同士でも分からないならぼくに分からなくて当然か。でもただ遊びたかっただけにしては少し違和感があったな──と、考えを巡らせる。
 体調が悪かった……としたらまずアヤメが真っ先に気付くだろう。単に遊びたかったとしても、放課後のこの時間はスノボの練習があることをアブソルも知っているからその辺りはわきまえていると思う。それなのにわざわざぼくを引き止めようとするような理由は──

「……まさか、な」

 図書室で調べたアブソルの能力をふと思い出し、ナッペ山の山頂を見上げた。

 『アブソルは自然災害の予兆を感じ取ることができる』

 それがアブソルの能力で、それ故に災いを引き起こすと誤解され迫害されてきた。歴史的に見てもその能力の精度は高く、きっとアヤメのアブソルもその力を持っている。
 でも、だからといってさっきの違和感をそれと結びつけるのは速断に過ぎるんじゃないのか。だって今日のナッペ山は絶好の練習日和で、災害が起こりそうな気配なんて微塵もない。

「……チルタリス、ぼくが滑ってるとき空から周り確認しておいて」

 でも一応、念のため用心しておこう。チルタリスをボールに戻さず、ひとつお願いをして頭を撫でた。チルタリスは任せろとでも言いたそうにすりすりと頬をぼくの手のひらに寄せる。
 一瞬、ポケットの中にしまってあるスマホロトムの安全機能をつけるかどうか迷ったけれど──大会まで二週間を切り六大会連続優勝の記録を途切れさせたくなかったぼくは、練習の邪魔になるからと切ったままにしておいた。



***



 意識を失う直前に見えたのは、波のように迫る雪の壁と──チルタリスの翼だった。

 一人だったら確実に死んでいた。あの高さから落ちて生きていることが奇跡だと言われた。だからぼくは生きててよかったって涙を流し喜ぶべきなのに。でも、それはできなかった。

 だって、ぼくの脚はもう──





「……サムい」

 真っ白なベッドの上で、自由に身動きさえできないまま何日も何日も気が狂いそうになりながら抜け殻のように日々を過ごした。
 いや、とっくに気は狂っていたのかもしれない。身体中に走る痛みがそうさせないだけで、自由がきくなら今すぐにでも窓の外へ飛び降りてしまいたかった。生きていたくなかった。死んでしまいたかった。
 同じ白なのにどうしてこうも違うのか。雪山の白は冷たいけれど心が弾む、大好きな白だった。でも今のぼくの目に映る白は無機質で何の感情の波も起きなくて、ただただ生を繋ぐだけの白。
 スノボができなくなってしまったぼくを生かすだけのこの四角い空間が憎らしくて、嫌いで嫌いで仕方がない。なんであのまま死なせてくれなかったんだ。なんでみんな揃ってぼくを生かそうとするんだ。なんで──

「──っ……う、あ゙ああぁぁあ!!」

 喉が潰れるまで泣き叫んだ。
 ぼくの手を握り続けていてくれた母さんも、ぼくの前で初めて涙を見せた父さんも、「また滑れるようになる」とは言わなかった。
 大好きだったのに。あんなに頑張ってきたのに。これからもずっとスノボを続けて、父さんに母さんに、チルタリスたちに、そして──アヤメにぼくが世界一になる姿を見せたかった。

 ぼくの脚は夢を追いかけることさえ叶わない。二度と今までみたいに滑れない。
 こんなぼくが生きていたところで……何になるっていうんだ。



***



 一週間、二週間と時間が経つにつれ身体の痛みは引いていき、それに伴い発作的に起こる死への衝動は少しずつ落ち着いてきた。
 死んだら駄目だと……そう思えるようになったのは、チルタリスも必死に治療を頑張っていると知ったからだ。

 母さんから聞いた話だと、チルタリスの翼は雪の重みと落下の衝撃で折れていたらしい。二度と飛べなくなるかもしれなかったのに、それでも自分から雪崩に飛び込み、崖から落ちても決してぼくを離さなかった。
 命懸けでぼくを守ってくれたチルタリスを残して死ねるわけがない。だからぼくは早く退院してチルタリスに会うために、ありがとうと言うために少しずつでもいいから前を向いていこうと決めた。





「……SNS、更新しないと」
 
 プロになってから、出場する大会やメディア露出の情報発信のためだけに始めたSNS。事故の直前、次に出るはずだったナッペ山大会の情報を投稿してからはずっと更新していない。
 事故の情報は多分メディアが報道していると思うけど、きっとぼく自身が現状を報告しないとみんなに心配をかけてしまう。正直まだそんな気分にはならないけど、プロである以上応援してくれるファンをおざなりにしてはいけないという義務感から触れたいとも思えなかったスマホを久しぶりに手に取った。
 ロック画面にずらっと並ぶアプリの通知。それに圧倒されつつホーム画面を開けば、SNSにもメッセージにも電話にも、アプリアイコンの上に今まで見たこともない数の赤い数字が表示されていた。
 この全てに返信するのは流石に時間がかかりすぎる。まずはSNSで現状報告をしてから後でゆっくり返信していくか、とアプリを開き、寄せられたコメントに目を通す。
 「心配です」とか「負けないで」とか、その大多数がぼくを心配し気遣う内容──だったのに。スクロールの途中、「期待外れ」や「もう終わり」「諦めろ」のマイナスな言葉が、やけに心に残った。

 いつもならこんな言葉気にも留めないのに。なんで……なんでこんなに頭から離れないんだ。

 理由も分からずざわざわと激しく胸が波打つ。そしてとあるコメントに貼られていた、テレビで放送されたという動画を見てその理由を理解した。

 流れ始めたのは、ぼくの過去の大会の映像と悲壮感に溢れたBGM。コメンテーターもぼくのファンだという人もみんな揃ってぼくの過去の栄光を涙ながらに語る。
 まるでぼくの全てが終わってしまったかのような脚本と演出で飾られたその動画は、やっと前を向き始めたぼくの頭を強く強く殴り付けた。

──ああそうか。世間はそれを望んでいるのか。

 『不幸な事故で永遠に夢が閉ざされた、世界二位の若きスノーボーダー』
 世間はぼくをそういうふうに仕立て上げたいということを知ってしまった。
 安いドラマのような悲劇の話。ぼくの物語はここで終わって、その先の未来の話になんて誰も興味はない。だってプロのスノーボーダーとしてのぼくはもう死んでしまったから。
 ただの一般人に成り下がり、それでも立ち上がろうと思ったぼくは……まだ、生きているのに。

 悲しいとか悔しいとか、言葉では表現できないどす黒い感情が心を埋め尽くす。残りのコメントに目を通す気力も失って、無心でアカウントの編集画面を開いた。

 用済みになったぼくなんてもういらないよね。分かったよ、お望み通りあんたたちの前から消えてやるから。

 画面に表示されるのは『アカウント削除』の赤い文字。ぼくは何のためらいもなくその文字をタップして、SNSのアプリもスマホからアンインストールした。
 




 この"不幸な事故"も、散々騒がれ悲しさを共有された後はきっと世間からすぐに忘れ去られるんだろう。
 悔しくて仕方がない。ぼくの今までの必死の努力や栄光を雑に消費されるのが。ぼくの大切でかけがえのない思い出は、ぼくとぼくの大切な人たちだけのためにあってほしかった。
 父さん母さん、モスノウ、ツンベアー、ハルクジラ、マニューラ、そしてチルタリス。ぼくが滑るとみんなが笑って喜んでくれるのが好きだった。初めはそれだけでよかったんだ。
 でも、面白くて楽しくて、ただひたすらスノボに夢中になっているうちに大会で何度も優勝してメディアに取り上げられて。そしてプロになって世界一になる目標ができて、スノボはいつの間にかぼくの周りの小さな世界の出来事じゃなくなった。
 それでも楽しかったから、大好きだから何も気にすることなんてなかったはずなのに──

「っ、アヤメ……」

 張り裂けそうなほど痛む胸に、助けを求めるひび割れた心にぽつりと浮かんだのはアヤメの笑顔だった。無意識に呟いたアヤメの名前が、暗く澱んだ胸の中を優しく照らし出す。

 スノーボードが盛んではないホウエン地方からパルデアにきたアヤメ。ぼくが有名という情報は知っているみたいだったけど、どのくらい凄いとかはいまいちピンときていないようで、変に持ち上げたりせず普通に接してくれた。
 久しぶりのそんな些細な会話がぼくにとっては新鮮で、ぼくの周りだけで完結する小さな世界がまた生まれたことが嬉しくて仕方がなくて。いつの間にか、アヤメはぼくの大切な居場所のひとつになっていた。

 縋るようにメッセージアプリを開き、アヤメとのトークを読み返す。
 作ったポロックの写真を送ってきてくれたり、課題が分からないからヒントを教えてと言ってきたり。そういえば今度アヤメが見つけた店に一緒に食べに行こうって話もしていたっけ。アヤメのためにバトルのコツが紹介されている動画をシェアしたのはつい最近のことだった。
 なんてことのないアヤメとの日常の会話がこんなにも救いになる。アヤメと話がしたい。今すぐにでも会いたい。そんな衝動に任せ、震える指で『たすけて』と一言だけのメッセージをアヤメに送信した──その瞬間、ふと我に返った。

 なんでぼくは……アヤメまで不幸に引き込もうとしているんだ。

 ぼくが助けを求めれば、優しいアヤメはきっと側で支えてくれる。初めはそれでいいかもしれない。でも、時間が経つにつれぼくは絶対にアヤメの重荷になる。いつまともに歩けるようになるかも分からないし、後遺症が残る可能性だってあるのだから。
 アヤメはアブソルのためにパルデアに来て、友達もできて将来の夢も見つけて。今までつらい思いをしてきたぶん、ふたりには幸せになってほしい。それはぼくの心からの願いだ。でも、ぼくのせいでアヤメの未来が犠牲になってしまったら……それこそ心が耐えられなくなる。

──まだ既読は付いていない。
 慌ててメッセージを取り消して、ばくばくと激しく脈打つ胸をぎゅうと押さえた。

 アヤメの世界にぼくは必要ない。そんなの知りたくなかった。
 胸が苦しい。痛い。嫌だ。本当はずっと一緒にいたい。
 でも、何もできないぼくのことをそのうち疎ましく邪魔に思って、アヤメから冷たい目で見られるようになってしまったら。考えただけで怖くて怖くて身体が震えて吐きそうになる。
 どうしよう。どうすればいい? 何もできないぼくなんて……アヤメにはそんな姿見せたくない。アヤメの前では完璧でいたい。無様な姿を見せるくらいならいっそ──

「そうだ、アヤメに……嫌われればいいんだ」

 冷たい言葉で突き放して傷付けて。そうすればアヤメはぼくから離れてくれる。今のうちに嫌われてしまえば惨めな姿を見られることもない、疎ましく思われることもない。離れていれば次第に未練もなくなって、きっとそのうちアヤメのことを忘れられる──

 それが、正常な思考回路ではいられなくなってしまったぼくの頭に浮かんだ答えだった。

 これが間違った選択だと心のどこかでは思っているはずなのに、必死に気付かないふりをした。最善の選択だと思い込ませるために、何度も何度もアヤメとの最悪な未来を頭に思い浮かべる。
 アヤメとの色鮮やかな思い出がモノクロの世界に変わっていく。これでいいんだと自分を洗脳するように言い聞かせ、次第にぼくの心は冷たい氷に閉ざされた。

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